17-9 恐竜戦争
「巨獣じゃ……ない……? 鳥?」
紀久子が呆然とつぶやいた。
二坪ほどの小さな、庭というより植え込み程度のその場所は、二、三メートルの低木が数本植わっている。
その向こうに立ち、こちらを透かすようにのぞいている生物は、紀久子が二十年前に見慣れたヴァラヌスやコルディラス、バシリスクとは、まったく違った印象の怪物だった。
赤、青、白の極彩色の羽毛に身を包み、その前脚を翼のように広げている。飛行は無理そうだが、跳躍と滑空は可能だろう。嘴はない。その代わりに、目の後方まで大きく裂けた口もとには、ナイフと同じ形の牙が、幾重にも並んで見えた。
羽毛に包まれた尾は、真っ直ぐに後方へ伸ばされ、威嚇の声に合わせて左右、上下に振り動かされている。
小さな翼を小刻みに羽ばたかせているのは、どうやら飛ぶためではなく、キングとシーザー、二頭の雑種犬を威嚇するためのようだ。
「バカな……まさかアレは、『ラプター』?」
思わずそう呟いた広藤に、豊川が声を潜めて問う。
「ラプター? アレ、そういう名前の巨獣ッスか?」
「違う。巨獣じゃない。ラプトル……ヴェロキラプトルって言った方が分かりやすいか?」
「ヴェロキ……って、例の恐竜映画に出てきた……全然違うじゃないッスか!?」
豊川は目を剥いた。リアルにCGで再現された恐竜を見慣れていただけに、実物として眼前に現れたソレは、まったく別の生きものに見えた。
「最近の研究では、多くの恐竜に羽毛が生えていたって説が有力だ。ヴェロキラプトル……ラプターは、その中でもほぼ確実に羽毛があったとされている種類なんだ」
そう説明する広藤自身も、科学雑誌でモコモコの羽毛で覆われた復元想像図を見た時には、イスから転げ落ちそうになったものだ。だが、目の前のカラフルな生物は、想像図よりもずっとバランスのとれた体型、色彩感覚に見える。一瞬でそれがラプターだと分かったのもそのせいだ。極地近くまで生息していたとされる恐竜に、羽毛が無かったと考える方が、逆に不自然なのかも知れない。
「つまり肉食恐竜ってことか。どうする!?」
東宮が一歩前に出て身構えたのを、紀久子は信じられないものを見たように目を見開いた。
紀久子の知る東宮は決して悪人ではなかったが、自分から進んで他人の盾になるような人間でもなかった。危険があれば、出来るだけ他人の後ろに隠れようとするし、一人だけ逃げ出して助かるならば、迷いなくそうするような男であった。
「へえ。武器も持ってないのに強気ッスね。東宮先輩」
そう言って、ずいと東宮の横に並んだのは豊川だ。
広藤はまだ、足がすくんでいるのか動けないでいる。
「二人とも待って。キングとシーザーなら大丈夫。たぶん、勝てるから」
今にも飛び出しそうな二人の肩を押さえたのは紀久子だった。
「お母さん? 知ってたの? この子達が普通の犬じゃないって……」
目を丸くしたオリジナルの咲良に、紀久子は振り向いて笑いかけた。
「二十年も生きて年も取らず、こんな元気な犬はあり得ないでしょ? それに、あなたは知らないでしょうけど、これまでにも何度も私たち家族を助けてくれていたんだよ」
そう言う間にも、キングとシーザーの姿は変化しつつあった。
骨格全体が伸びたように、四つの脚はすらりと伸びていく。それと同時に黒茶のキングには、更に黒々とした長い毛が生え、白茶のシーザーには純白の体毛が伸びていく。
体全体の太さが二倍以上になり、爪はサバイバルナイフのように鋭く長く伸びた。
口元からは、長い牙まではみ出している。
体高は一メートル以上、体長も二メートルクラスになった二頭は、左右に分かれて挟み撃ちの姿勢を取った。ラプターは警戒して数歩下がる。
その動きで、低めていた頭部がわずかに仰のいた瞬間。
白い閃光が走った。シーザーが喉元に飛びかかったのだ。
「何!?」
声をあげたのは広藤だった。
意外すぎる攻撃。シーザーは、普通の犬のように噛みつくことをせず、通り過ぎざまに長く伸びた前脚の爪でラプターの喉笛を掻き切っていた。
傷口からは大量の血が噴き出し、小さな庭の木々をどす黒く染めていく。よろめいたラプターに入れ替わりで飛びかかったのは、漆黒の毛並みとなったキングだ。
キングは空中で回転し、黒い弾丸となって正面からぶつかっていった。激突したのは、断末魔の絶叫を上げようと開いていた、大きな口だ。
金属同士がぶつかったような堅い音と、肉が引き裂かれる鈍い音が重なり、周囲にラプターの歯が飛び散る。キングの激しい回転は、ラプターの口内でも止まらず、黒い毛から飛び出した焦げ茶色の突起が頭部を微塵に砕き散らしたのだ。
頭部を失ったラプターは、前のめりに崩れ落ち、完全に動きを止めた。
上空に弾かれて滞空していたのか、頭蓋骨の一部と見える破片が、庇に音を立てて突き刺さった。その真下にいた豊川は、思わず尻餅をつく。
「…………すげえ。コイツら……」
明らかに敵意を見せていた危険な相手だったとはいえ、展開されたあまりにも凄惨な光景に、全員が声を失っていると、紀久子が軽くため息をついて話し始めた。
「キングとシーザーはね……咲良、あなたを守ろうとする時だけ、こうなるの。まったく相手に容赦しない。二歳のあなたがトラックにはねられそうになった時は、相手を大破させちゃって……説明、大変だったんだから」
「咲良ちゃんが……そうか。命令を書き換えたのは、守里か」
ぽつり、と東宮が呟いた。
「書き換えた?」
「ああ。俺が二頭の小型巨獣……コルディラスとヴァラヌスに与えた命令は、守里を守れ。そして、守里の命令を絶対に遵守せよ、だった。つまり守里が命令すれば、守る対象を変えることも出来るんだ。たぶん、自分の娘が生まれた時に、それをやったんだろう……親バカだな。あいつも」
「そんなことより、この恐竜は何なんだ!? 俺たちを狙って来たってわけか!?」
「ううん。たぶん違うよ。今、時刻は十五時過ぎ……ワシントンとの時差は十三時間……すでにタロット大統領の言った『審判』の時間は過ぎているから……」
「タロット大統領? 『審判』? 何ですそれ?」
素っ頓狂な声で聞いたのは、豊川であった。だが、怪訝そうな顔をしているのは彼だけではない。紀久子以外の全員が、ワシントンで起こったことを知らなかった。
筑波山麓から、デバイスなどの通信手段も、TVも何も無い状態で、路線バスを乗り継ぎ、徒歩での移動を繰り返してきたのだ。全員が着ぐるみを着用していたから、好奇の目は避けようがなかったが、移動の痕跡が残る鉄道だけでも避けようという判断であった。
しかしそのため、駅や車内で当然目にするような重大ニュースも、まったく知らないままなのだ。
気づけば周囲から、遠く、近く救急車や消防車のサイレンが聞こえてきている。それも一つや二つではない。その中に時折、先ほど聞いたラプターのそれにそっくりな、生物の咆吼らしきものが聞こえ、悲鳴や怒号も混じっていた。
「知らなかったの? 実は――――」
紀久子は出来る限り詳しく、手短に、ワシントン中継で起こったことを話した。
「するってぇと、この恐竜は、天使が送り込んだ日本への刺客ってワケですか?」
豊川はそう口にしてみて、あらためて自分のその台詞のナンセンスさに呆れたように、フラフラと頭を振って天を仰いだ。
「刺客って表現が正しいかは分からないけど、たぶん、そうだと思う。だって、キングとシーザーがいなかったら、私たち簡単に食い殺されてたと思うもの」
「でも、『神の審判』って割には回りくどい上に血生臭いな。なんで奴ら、天使や巨獣、あるいは大量破壊兵器を使わず、敢えて恐竜なんてものを持ち出してきたのやら……」
そんなこんなを含めて、情報が足りなさすぎた。
TVもしくはネットで情報確認したいところではあったが、そんなことをすれば、天使側にすべて知られてしまう。
「そうだラジオ!! たしかこのへんに……」
紀久子は、キッチンの食器棚の下扉を開け、そこから緊急避難袋を取り出した。
取り出した小型のラジオに、乾電池を入れるのももどかしくスイッチを入れると、緊迫したアナウンサーの声が流れ始めた。
『――――現在、首都圏に、えーと……恐竜。恐竜と見られる大型生物が大量に発生しています。首相は自衛隊に緊急出動を命じました。しかし、すでに甚大な被害が出ている模様です。また、MCMOの特殊部隊も出動していますが、被害は食い止められていません。外は大変危険です。みなさん、絶対に外出しないでください。繰り返します――――』
「……やっぱりコイツは、俺たちを狙ってやって来たわけじゃなく、偶然ここに来たってわけか。にしても、TVも見れねえってのはなあ……」
豊川が、末期の痙攣を始めたラプターに視線を落として言う。
地上派デジタル通信は双方向通信だ。TVを視聴するだけでも、天使に感知される可能性があった。
「そうだ。画像見れるよ。おかあさん、携帯出して」
手を叩いたオリジナル咲良に紀久子は怪訝そうな顔をしたが、言われるまま自分の折りたたみ式の携帯電話を取りだした。
「へえ、所長、まだこんなの使ってたんスね。たしかにこのケータイなら、受信オンリーの画像機能が使えるッスよ。たぶん、天使には気取られないッス」
豊川達は、立ち上がった粗い粒子の小さな画面をのぞき込んだ。
画面上では、朝の顔で有名な男性リポーターが、白黒の羽毛に包まれた中型恐竜とみられる生物を指さして、ヒステリックにわめき散らしていた。
その恐竜の前脚に掴まれているのは、どうやら中年の女性のようだ。
明らかに捕食のためと見られる動き。周囲には警官も自衛隊もおらず、かといって女性を救うために自身を犠牲にするほど覚悟のある者もいなさそうである。
見慣れぬ羽毛恐竜が、手に持った女性を無造作に口元に運ぼうとしたところで、画面が切り替わった。あまりにも残酷なシーンを、放映できないと判断したのだろう。
スタジオには、緊迫した面持ちのキャスターを中心に、急遽呼び出されたであろう専門家達……生物学者、古生物学の権威、動物園の猛獣係、政治家、消防士、果ては爬虫類系ペットの輸入業者までもが並んでいる。人選を見るだけでもマスコミの慌てようが手に取るように分かるが、彼らの深刻な表情は、視聴者の苦笑すら受け付けそうもなかった。
『え……えーと。斎京大学の動物行動学教授、大央砂博士に質問です。きょ、恐竜への対策としてどのようなことが考えられますでしょうか?』
『は……はい。とにかく、厳重に戸締まりをしてですね。外出は控えることです。避難所へ向かうのも危ない。また、自宅でも大きな音や臭いを出さないように。恐竜の嗅覚や聴覚がどのくらいなのか、まだまったく分からないのですから――――』
言葉の切れ目を見失い、長々としゃべり続けるところへ、ペット輸入業者が口を挟んだ。
『待ってください。恐竜は、動くモノに反応するという記述を読んだことがある。外で遭遇してもじっとしていれば、気づかれない可能性が……』
『バカかあんた。そりゃあ、例の恐竜映画の原作で、不完全なDNA情報をカエルので補完したせいでそうなったって話だろ』
若い古生物学者に一蹴されたペット業者は、色をなして反論する。
『な……何を言ってるんだ!! 習性も能力も未知数なんだろ!? 助かる可能性はなんでも言っておかないと!!』
『ウソの情報を流して何の意味がある!! こういう時だからこそ、きちんとした真実の情報をだな――』
『何が真実かあんたに分かるのか!!』
腰を浮かせて喚き合う二人のケンカは、周囲にも飛び火し始めた。仲裁に声を枯らすキャスター。しかし、それでも画面はCMへ切り替わることはない。
騒然とするスタジオの様子に呆れ果て、肩を落としてあらぬ方向に目を向けたアシスタントの女子アナの目が大きく開かれた。
『は……服部さん……アレ、アレ、アレ見てください!!』
せわしなくキャスターの肩を叩きながら、その目は一点を見つめて動かない。
『ちょっと後にしてください。今大変な――――』
女子アナの手をふりほどこうとしたキャスターもまた、一点を見つめて凍り付いた。
そこには、空間を破って出てこようとしている、何者かの姿があったのだ。