2-12 復活の巨獣王
二千メートルの深海。
そう一言で言っても、実感をもってイメージできる人は少ないだろう。水圧は水深が一メートル深くなるごとに0.一気圧高くなる。つまり水深二千メートルでは実に二百気圧、平地での一気圧に対して二百倍の圧力が体全体にかかると考えていい。
しかし、圧力によって体積の変化しにくい液体で体が満たされていれば、すぐに二百倍の力で押し潰されるというわけではない。たとえば水深移動を頻繁に行う深海魚の中には、浮き袋の中に空気ではなく脂肪やワックスを溜めているものも見られる。
しかし人間は、肺にはもちろん、耳や喉などの呼吸器官につながる場所にも空気が溜まっている。そしてそれらが内側からの圧力としてはたらいている。
巨大イカによって深海に引きずり出された明は、それらの空気が体内から一瞬にして押し出された。
浮力を失った明の体は、ゆっくりと沈み始めた。
巨大イカ=シュラインは、ショックアンカーの高圧電流で体の制御を失っている。十本の足を震えるように痙攣させ、意思の感じられない動きを見せながらその場をたゆたっていた。
「明君!! 明君!!」
漂いながら沈みゆく明の体がモニターで映し出され、紀久子は半狂乱になった。
席から立ち上がると、さっきまで乗っていたシーサーペントへと走り出す。だが、外部ハッチの前には八幡が立ちふさがっていた。無言のまま紀久子の両肩をつかんで乱暴に押し戻す。
「私、行きます!! そこをどいてください!!」
抗議するように睨んだ紀久子は、しかし八幡の目が潤んでいるのを見て立ちすくんだ。
「八幡先生!! おキクさんに明君を助けに行くよう指示してください!」
いずもも懇願したが、八幡はうつむいて目を逸らした。
「ダメだ。こんな深海の水圧下では、一瞬も生きていられる人間はいない。それにあの巨大イカの脅威が去らない限り、我々の命も危ないんだ。唯一の脱出手段であるシーサーペントを失う危険を冒すことは出来ん」
苦い表情で答えたのはウィリアム教授だ。
「Yes.ヤツはおそらく巨獣化したArchiteuthisの変異体ダロウ……アレが襲ってきたら、この第三ブロックも危ナイ」
サンプリングロボットによって凍結したサラマンダーから救出されたカインが、モニターに映る巨大イカを見つめながら言った。
「アルキ……なんだって?」
東宮がカインの言葉を聞き取れずに聞き返す。
「Architeuthis ダイオウイカの学名ダ。まったく、日本人は専門外の学名を覚えナイナ」
「…………あんたの発音がネイティブ過ぎンだよ」
口を尖らせた東宮がそっぽを向いて小さく呟いた。
「なるほどアルキテウティス……ダイオウイカの巨獣化個体か…………」
ぎりっと歯を鳴らす音がした。温厚な八幡には珍しい怒りの表情だ。
「何も有効な武器とて無いが……明君の仇だ。せめてあのアルキテウティスにとどめを刺そう」
「いや八幡君。武器ならある。ここはそういう場所だと言っただろう? それに、ヤツを倒さなくては、どのみちここからは逃げられそうもないからね」
ウィリアム教授はサブモニターのタッチパネルを操作し、現状動ける二機の作業機、シーサーペントとサラマンダーに、搭載可能な武器を次々とリストアップし始めた。
こうなっては、細胞の飛散などを問題にしている場合ではない。あらゆる武器を使用するしかなかった。
*** *** *** *** ***
八幡達が巨大イカ・アルキテウティスと戦う覚悟を決めていたころ、明は海底に到達していた。もちろんとっくに意識はない。ウィリアム教授の言った通り、普通の人間なら即死のはずなのだ。
しかし、明の体内には不死のG細胞が生きていた。そして個体生存を最優先しようとするメタボルバキアも、既に完全に明の体内に定着していた。
それらの働きによって、明の肉体は仮死状態となっていたのだ。
もちろん酸素すらない深海では、完全な死を迎えるのにそう何分もかかりはしないはずだった。
ただ、明が落ちた海底は他とは少々違う場所であった。いや、正確には海底ではなく、巨大な生物の死体の上であったのだ。
「G」と呼称される巨大生物。その頭部にパックリと開いた傷口。白い肉が剥き出しになった傷口に、偶然にも明の体は落ちた。
痛々しく裂けた白い肉が、明の体を綿のように柔らかく包み込む。
不死の細胞を持つ巨獣王。とはいえ、いくら不死でも欠損してした器官は再生できない。つまり、「G」がよみがえる可能性は、ほぼゼロのはずだった。
しかし、ゆえにG細胞は、いや、G細胞と共生するメタボルバキアは待っていたのだ。欠損した器官と同じ細胞組織を持つ生きたG細胞を。
そして、明の体内のメタボルバキアもまた求めていた。明という新しい宿主をなんとか生きのびさせ、復活させる巨大なエネルギーを。
深海で偶然に出会った、二つの個体に共生している微生物の利己的戦略が合致した。
「なんだ? この濁りは……?」
第一ブロックの管制室で、外部モニターを監視していた干田が、訝しげにつぶやいた。
「どうしたんですか?」
倒れていたすべての所員に、なんとか抗生物質の点滴を終えた石瀬が、干田の横に並んだ。
「いや、妙な濁りが発生しているんだ。これまでこんな現象は見たことがない」
干田の言う通り、確かに妙であった。
濁りが一点を目指し、渦を巻いて流れていくのだ。濁りの正体は深海に沈降してくる懸濁物質、マリンスノーのようだ。それが、まるで何かに吸い込まれてでもいるかのように、かなりのスピードで流れに乗って周囲から集まってきている。シュラインが深海生物を臭いで集めた時とよく似ている。ただ違うのは、集められているのが遊泳能力のないはずのマリンスノーであるという点だった。
「あの、渦の中心には……」
石瀬は呆然とモニターを見ている。
「あそこにあるものと言ったら…………」
Gしかないことは、干田にもよく分かっていた。
「まずいぞ。マリンスノーの主構成物質は有機物だ。それをGが吸い込み始めたということは、Gの生命活動が活発化しているのかも知れない。すぐに八幡教授達に連絡を……」
「それが……さっきの戦闘で、向こうとの回線が切れてしまったようです」
「くそっ……肝心な時に……」
どうすることも出来ない。ただ見守るしかできないまま、マリンスノーの濃度はさらに増し始めていた。
*** *** *** *** ***
「アルキテウティスに動きが戻ってきました。麻痺がとれてきたようです」
オペレータシートに座った紀久子の、固い声が響く。
アルキテウティスが電撃を受けて麻痺してから、すでに十五分が経過していた。明のショックアンカーは、確実にシュラインにダメージを与えていたが、やはり死んではいなかった。何度か大きな水流を漏斗と呼ばれる器官から吐き出し、こちらに向かって触腕を突き出そうとしている。
マリンスノーの急速な動きは、この時点で第三ブロックにいる紀久子達には見えていなかった。
「いいか。カイン君?」
「OK、Dr.八幡」
サラマンダーの応急調整もなんとか完了していた。サラマンダー本体の部品交換だけでなく、武装も燃料も補充された。
カインはサラマンダーにもう一度搭乗し、八幡は稼働状態ではなかった未塗装の試作機に乗り込んでいる。球形の試作機は機動力も低く戦闘向きではないがショックアンカーだけは装備することが出来た。
「準備にけっこう時間が掛かってしまったな。出撃と同時に、私がショックアンカーでもう一度ヤツを麻痺させる。カイン君は、PLN弾でヤツの頭部を凍らせてくれ。最後はポイズンアローでとどめを刺そう」
「ラジャー。了解ダ。」
「では、発進!!」
しかし八幡の声が響いても、外部ハッチへの通路が開かない。
「どうしたんだね。松尾君?」
八幡の問いにも答えはない。全員が言葉を失ったようにモニターを見つめているだけだ。
「何ガ、あった?」
スーツ前部を開いて顔を出した二人は、第三ブロックのメインモニターに映っているものを見てやはり言葉を失った。
「G…………」
しんとなった室内に、いずもの低い声が響く。
そこには海底をゆっくりと歩き、こちらへ近づいてくる巨獣王の姿が、エコーロケーションのモノクロ画像で映し出されていた。
「最悪ダ」
カインが、スーツから体を半分のぞかせたままつぶやいた。
巨大イカ・アルキテウティスだけでも、勝てるかどうか分からなかったのに、相手がGとなると、戦力不足は否めない。
「どうして……どうして復活したんだ?」
八幡達には、明の体が偶然G復活の呼び水となってしまったことは、分かりようもなかった。
「危険すぎる。出撃を中止しよう」
ウィリアム教授が言う。
しかしこのまま放置することも出来ない。二大巨獣によってシートピアラボ全体が破壊されてしまう可能性があった。
「ここから遠隔操作か、長距離射程武器を使うしかないな。射程二百メートル以上の武器は、魚雷とポイズンアローくらいしかないが……」
「それで、ヤツを倒せますか?」
「Gは確かに強敵だが……もともと、私の研究はGを対象としたものだ。倒せないまでも追い払えねば……私の研究自体が無意味だったということになる」
言葉を続けながら、ウィリアム教授は画面上のリストに別条件を加えていく。やはりこの深海で使えそうな武器は、耐水圧魚雷くらいしかない。
「…………ヤハリ、私も出ル」
カインがそう言ってスーツ前部を閉じようとした時だった。
「ま、待ってください。二匹が接触します」
いずもがカインを止めた。
モニター上ではまさに、Gの正面に回ったアルキテウティスが、触腕をのばして襲いかかるところであった。