16ー1エンジェルパーティ
「ちっくしょう……なんで俺はこう、もう一歩踏み込めねえんだろうなぁ……」
生命科学研究所所員、豊川はぶつぶつ言いながら夜道を歩いていた。
横浜のとある駅近く。
例のアプリ天使、ゼリエルがセッティングしてくれた『相性の良い相手』であるはずの女性といい雰囲気まで行ったのに、何故か自分から席を立って帰ってきてしまったのだ。
これで何度目だろうか。自分はもっと、お気楽な性格だと思っていた。
だがこんなことは初めてではない。いや、じつは一度もうまくいったことがないのだ。女性とうまくいきそうになるたび、頭のどこかで声がするような気がするのだ。「これはちがう。そうじゃない」と。
結局研究所に勤めたこの一年間、いや生まれてこの方、ただの一人も友達以上の関係になれた女性はいなかったのだ。
「ちぇ。松尾所長みたいないい女がいたら、すぐにでも……」
それも言い訳だと、頭の片隅で分かっている。
いったい何なのだろうか。顔? 声? 性格? 雰囲気? だが、そのどれも紀久子によく似た女性であっても、どうしても一歩が踏み出せない。
「俺……ずっと前に……こんなこと、してたような気がするなあ……」
昔のことを思い出そうとすると、なぜかあまり頭が働かなくなる。すぐにどうでもよくなって、違うことを考え出してしまうのだ。
「これじゃダメだ。俺は、今度こそ本当に好きな人と幸せになるために……ために……あれ?」
どうしたのだったか。それを思い出そうと腕組みしながら歩いていると、いつの間にか向かうはずの駅とは反対側のガード下に入り込んでしまっていた。引き返すため踵を返そうとした時、怒ったような女性の声が聞こえてきた。顔を上げると、行く手に数人の男女がたむろしている。
「うわっと……もめ事かよ。ヤバイな。近寄らないで……と」
口ではそう言いながら、何故か足は止まらない。
さっさと通り過ぎようとしているのだと自分自身に言い聞かせてみるが、それも違った。豊川の足は、彼等の前で勝手に止まったのだ。
そして、自分が思ってもいなかったはずの言葉が口を突いて出た。
「その子たち、嫌がってるみたいじゃないか。やめてやれよ」
「ハァ? 何言ってんだ? このオッサン」
「関係ねぇのはすっこんでなよ。怪我したくないだろ?」
オッサンと言われて、豊川は少しイラッとしたが、よく見ればどの顔も幼い。
十代から見れば、自分など年寄りに違いないと思い直し、もう一度柔らかく声を掛けた。
「まあ、それもそうなんだけどさ。困ってる人見て放っておいたら、また俺は……俺は……」
俺は何だったのか? その次の言葉が出てこなくなり、豊川は頭を掻いた。
「すまん。何言うか忘れた。だけど頼むよ。俺を怒らせないでくれよ」
「ラリってんのかこの……くそダボがッ!!」
短い髪を金色に染めた目つきの鋭い男が、振り向き様にパンチを繰り出した。
何か格闘技でもやっているのだろうか、腰の入った鋭いボディブローが豊川の腹に突き刺さる。
だが、豊川は少し呻いて体を曲げただけで、そのまま微笑んでウインクした。
「う。いててて。なあ、コレで気が済んだだろ? 引き上げてくれよ」
「…………あ……ああ……わかった。おい、おまえら行くぞ」
少年は急に怯えたような表情になると、バイクに跨って全員を促した。
其の少年がリーダーだったのだろう。ものすごい目つきで豊川を睨み付けながらも、他の少年達も、おとなしく停めてあったスクーターやバイクに跨って走り去った。
残されたのは、やはり十代と見える少女が二人。
「すっごーい!! お兄さん、すっごく強いんですねえ!!」
「何見てたんだよ。俺は殴られただけだろ? いいから子供はさっさと帰れ」
「でも、すごい音してたもん。痛くないんですかぁ?」
「殴られりゃ痛いに決まってるだろ。それより、今何時だと思ってんだ。家に帰れって」
「まだ八時前ですよ。宵の口ですって。それよりあのー。あたしたち、今からちょっとしたコンサートやるんです。よかったら来ません? 御礼にご招待しますよ」
「ハァ? なんで俺が子供のやるコンサートに行かなきゃいけないんだ?」
「えー? 失礼でしょ。あたし達もう来年から高校生なんですよ?」
「中三!? やっぱ子供じゃねえかよ……」
「いーからいーから。あいつらしつこくて困ってたんです。今夜だけでいいから保護者になってくださいよぉ」
無理やり手を引かれる格好で、豊川は少女達に連れられてコンサートホールに連れて行かれたのだった。
東京ベイサイドに作られたそのコンサートホールは、倉庫を改造したものであった。
このあたりは海水に弱いクェルクスに覆われておらず、以前のままの町並みだ。
収容人数は意外に多いようで、ざっと見たところ五百人といったところか。
ホールに集まっていたのは、ほとんどが中高生だった。豊川と同世代っぽい者も少しはいるが、少数派な上にいわゆるヲタク系のファッションに身を包んだ連中ばかり。豊川と波長は合いそうにない。
「なんで俺は子供に囲まれてこんなとこにいるんだ」
ぶつぶつ呟いていると、ステージ衣装に着替えた少女達がやって来た。
「はいはい。そういうことは口に出して言わないようにね。お兄さん」
安っぽいアイドル風の格好を想像していたのだが、黒やシルバー主体の衣装は可愛さよりかっこよさを意識しているらしい。なかなか気合いが入っている。
「しかし、どうして会費までとられているんだ」
「いいじゃん五千円くらい。社会人なんでしょ?……あーっ!! もうこんな時間!? そろそろ始めなきゃなんないのにぃ!! 咲良ったら何してんだろ?」
その時、一人の少女が店のドアをけたたましく開けて飛び込んできた。
よほど急いできたのだろう。背中にエレキギターのケースを背負ったまま、前屈みになって両手を膝に当て、息をついている。
「お……遅れてゴメン!! お母さん説得するのに時間掛かっちゃって……」
「まだ始まってないからそれはいいんだけどさ。咲良……あんたまた散歩中?」
「あーッ!? シーザー!! また付いて来ちゃったの!?」
咲良と呼ばれた少女の後ろを見ると、そこには白茶の中型犬がいた。両耳を倒して尻尾を振り、周囲に愛想を振りまいている。
散歩中、と言われたのも無理はない。ご丁寧なことに、口には青い引き綱と糞掃除のバケツまでくわえていた。
「夜外出すると、絶対付いて来ちゃうのよ。小屋には鍵が掛かってるはずなのに……」
がっくり肩を落とす咲良。
「ボディガードのつもりなんじゃない? ま、でもお店には入れないから駐車場にでも繋いでおいてよ」
「うん、わかっ……ダメだよシーザー! 知らない人に飛びついちゃ!!」
シーザーは、他の人間には目もくれず、豊川に抱きついて千切れるほど尻尾を振りはじめた。
咲良が慌てて首に手を掛け、引き離したが、紺のジャケットには白く足跡が浮かび、顔はシーザーの唾液でべとべとだ。
咲良はハンカチを差し出して、ペコペコと頭を下げた。
「ご……ごめんなさい!! これウチの犬なんです!! クリーニング代、出させていただきますから!!」
「……いや、まあ、犬は好きだから別にいいんだけどな。それよりさ……」
豊川はさらっと受け流すと、シーザーの前にしゃがみ込んだ。
「おまえ……どっかで会ったこと無いか?」
「やーだ。あたし達じゃなくてイヌに興味あるの? それとも飼い主の咲良狙い?」
さっき子供扱いされてふくれていた少女達が、けたたましい笑い声を上げる。
「そういうんじゃなくて。なんかこう……懐かしい感じがしたもんだからよ……」
豊川は尻尾を振り続ける茶白の雑種犬を、じっと見つめた。
シーザーも、今度はおとなしく座って豊川を見つめている。
「ほらぁお兄さん。もうみんな集まって来ちゃったじゃない。始めるから中に入ってよ。咲良もボーカルなんだから早く支度して」
「で、でも、本当に集まって来ちゃうんだね。ティギエル様ってすごい……」
「ティギエル様……コンサートって……まさかエンジェルパーティのことかよ……」
『エンジェルパーティ』とは、天使アプリを使う人々の集会のようなものだ。
どんな人間が集まるかも、どれだけ集まるかも、何が行われるかも、参加者の誰も知らない。
ただ、場所と時間のみを記した招待状が天使アプリを通じて参加者に配られ、それを見た人々がその場所に集う。店の予約さえもアプリからのメールである。
内容はその時々によって変わる。それは無名のアーティストのコンサートであったり、やはり無名の芸人の独演会であったりする。埋もれた名作動画の上映会のこともあり、料理店や雑貨店など会場そのものが対象のこともある。
この「エンジェルパーティ」の客は、ネットや天使アプリの使用状況から選ばれるから、行った者は必ず楽しめる。楽しんだ客はそのことをSNSで発信し、それを見た者達がまた客として押しかける。一夜にして一流アーティストの仲間入りをすることも珍しくない。
そんなパーティなのだ。
豊川はまだエンジェルパーティに呼ばれたことはないが、最近では呼ばれていない者も誘って連れて行くのが、普通になっていた。
今回も少女達が声を掛けてくれなければ、パーティの開催にすら気付かなかったわけだ。
有名になることが確約された素晴らしい才能を、無名の段階から味わえるのだから、感謝しておかなくてはならないのだろう。
「君達は、バンド?」
「うん。正統派ロックバンドよ。同好会だけど、ちゃんと学校にも許可もらって活動してんだから。あーっ!! もうこんな時間!! あたしたち行くね。お兄さん、客席で見てって」
少女達は連れ立って、楽屋裏へと消えた。
やがてステージの幕が開き、舞台には四人の少女達がそれぞれ楽器を持って登場した。
思いの外ノリの良いアップテンポの曲が始まると、イントロから観客の熱気は上昇した。一曲目から総立ちとは、プロのステージさながらの盛り上がりであるといえた。
豊川は一人頷いていた。なるほど、エンジェルパーティに選ばれるだけのことはある。
たしかにギターとドラムは素人に毛が生えた程度、文化祭レベルだ。
だが、あの咲良と呼ばれたボーカル兼ギターの少女ともう一人のベース技術は素晴らしい。
特にボーカルは、そのまま歌手としてデビューしても、なんら問題無さそうに見える。
「こういうのを発掘するのがエンジェルパーティなんだな。大したもんだぜ」
現役中学生の本格ロックグループ。しかも相当の才能を秘めている。
これはすぐにも大ブレイクしそうである。
豊川はいいものを見せてもらったと思いながら、そっと後ろ手でホールのドアを開けた。
観客たちはまだアンコールを叫んでいるが、これ以上ここにいる理由もない。
少女達が戻ってきて感想など聞かれないうちに、早々に退散するつもりだった。
「うおっとっと、すみませ……おまえか!?」
ホールを出てすぐ、誰かにぶつかって謝ろうとした豊川は、その相手が咲良の連れてきた白茶の雑種犬『シーザー』であることに気付いて目を丸くした。
彼はたしかに駐車場の隅に咲良が繋いでいたはずだ。
「まさか自分でほどいたのか? お前すごいな。じゃ。俺帰るから…………って離せよ」
シーザーは豊川の上着の裾を咥えていた。
怒っている様子もなく、やんわりと噛んでいるようだが、どうしても口を開こうとはしない。そして足を踏ん張ったまま、豊川の目を見つめている。
「帰るな、ここにいろってか? いったい何なんだよお前は……」
言いかけた時。
何かが空気を震わせた。規則正しく伝わってくるその震動は、まだ音ではない。皮膚感覚以外の何にも感じられないが、たしかに来ている。
「何だ?……これは……まさか!?」
いつだったか。遠い記憶にある感覚。
そう。それはもう二十年も前のことだったはずだ。吹き付けてくる危険と脅威をはらんだこの風。そしてこの次に来るのは。
『ズ、ズゥウウウウウン』
今度は間違えようがない、巨大な地響き。
けたたましく響き渡るサイレンの音。
「巨獣警報!? これって、訓練じゃないのかよ!?」
空に向かって唸り声を上げるシーザー。
ビルの向こうに現れた黒い影。
全身から海水を滴らせ、海から上がってきたばかりと見えるその姿は、まぎれもなく巨獣王Gであった。