15-2 生命科学研究所
「ふっ……そうか。まったく、小林さんらしいな。じゃあ、またしばらくは会えないか」
広藤弥美也は、微笑を浮かべた。加賀谷のメールからは、小林たちのあきれるくらい昔通りの掛け合いが読み取れる。
昨日の通信トラブルは、世界的なものだった。
通信衛星のトラブルと発表された通信遮断現象は、僅か三十分ほどのことであり、すぐに復旧した。だが、加賀谷がふたたび電話した時には、小林はふたたびジャングルに出かけてしまっていて、捕まらなかったようだ。
それにしても、この情報化社会で、インターネットを含めたすべての通信が、全世界で不通になるなどというのは、大変な事件であった。
たった三十分のこととはいえ、様々な問題が発生したらしく、朝からニュースはその話題で持ちきりだ。
カーナビの不調による事故の誘発、消防や警察、緊急車両への連絡遅延はもちろん、ペースメーカーなどの医療機器の在宅モニターもできなくなり、人命に関わる事件も数多く起きていた。
子供の位置情報が送られなくなって、母親からの問い合わせが殺到したり、GPSを利用していた大型工事現場では大きな施工ミスも起きたりした。
オークションや電子入札の締め切り時間に重なり、応札できなかったという話もあった。国家や行政、法人はもとより各個人の被った不都合までも金額換算すれば、天文学的な損失となったであろう。
だが幸いにも、広藤はそういった騒ぎとは無縁な場所にいた。
独立法人・日本生命科学研究所。彼の勤務先であるその研究施設は、重要機密を研究しているという建前から、周囲とのネット接続は基本的に無い。
だから、メールはすべて個人携帯端末のスマートデバイスを見るしかないのだ。
広藤はスマートデバイスをしまい、一つ大きく伸びをすると、自席から立ち上がった。
どうやら、昼近くになってしまったようだ。少し早いが、時間のあるうちに食事をしてしまった方がいい。
食堂には、ほとんど人はいなかった。
時間通りに食事に来る所員は少ないのだ。皆、生き物を研究対象にしているからには、それに合わせるしかない。生物が、人間の都合通り休んでくれるわけはないからだ。
今年で三十五歳になる広藤は、この研究所で分子細胞学部門の主任を務めているが、こんなに早く食事に来られたのは、めずらしい。
「ふうう……しっかし、ここってオバサンばっかしですねえ……若い子はみんな民間の方へ行っちまうのかなあ……」
昼定食のトレーを持って、広藤の傍へやって来たのは、見るからに軽薄そうな茶髪の研究員である。
なにやらぶつくさ言いながら、ろくに挨拶もせずに隣に座った研究員を、広藤は呆れた様子でたしなめた。
「おいおい豊川、いい加減にしろよ。君はここにナンパしに来てるのか? それとも研究しに来てるのか?」
豊川は広藤の部下である。
今年大学院を卒業した新人で、四月に入所したばかりなのだが、もうひとつ研究に身の入っていないところがあった。
「ん~正直、半々ッスよ。だって、研究っつったって、俺なんかまだまだ雑用ばっかだし、どうせつまんない仕事なら、少しくらい息抜き求めたってイイじゃないッスか」
広藤は、今度は本気で呆れてため息をついた。
自分が若い頃には、本音はどうあれ、先輩や上司に、こんなあけすけな事を言う勇気のあるヤツはいなかった。だが、だからといって、その無礼さを強く指摘して、人間関係をぎくしゃくさせたくもない。彼はここに来てまだ二ヶ月。半年もすれば、ここの空気にも慣れるだろう。
「まったく……呆れたもんだ。で? 当研究所に、お前の目にかなう女性はいなかったってか? ナンパするなら、駅前をうろついた方が効率がいいんじゃないか?」
「それじゃだめッスよ。日々の生活に潤いをもたらすのが大事なんスから。職場に可愛いコがいれば、やる気も出るってモンです」
まだまだ若いな、そう裡で思う。
広藤は、こんな意識で職場に来たことはないのだ。
それに実際のところ、ここは若い女性の数は多いし、どの女性も魅力的だと思ってもいる。ただ、職場ではほとんど化粧ッ気がなく、マスクなどで顔を隠しているから目立たないだけなのだ。
だが、そう言って彼女たちを弁護する気などサラサラない。豊川のような、チャラい男の目になどかなわない方が、彼女たちも平和でいられるに違いないからだ。
すると、豊川は急に真面目な表情になって顔を寄せてきた。
「いえ……そういえば一人だけ。めっちゃ気になるコがいるんスよ。ホラ、第二研究室にいる、メガネ掛けた、体の小さい細身のコ……でも、いっつもネームプレート、つけてねえから名前わかんねえんだよなあ……」
「ん? ああ、やっぱそう来るかあ」
広藤は少し感心した。豊川という男、全く見る目がないわけではないらしい。
たしかに彼女ならば、どんなに化粧ッ気がなくとも、またメガネやマスクをつけていようとも、目立つ。取り立てて美人なわけではないが、その柔らかな立ち居振る舞いや、透き通ったよく通る声、そして隠しようもない目の輝きが、どうしても人を惹き付けるのだ。
納得したようにうなずく広藤を見て、豊川は焦った様子で手を振った。
「え? 先輩もあのコに目ェ付けてたんスか? ダメッスよ。俺、今度デート誘おうと思ってんスから」
「心配するな。オレは嫁さん一筋だ……だけど何と言ったらいいか……彼女はやめといた方がいいと思うんだが……」
「何でです? 彼氏持ちとか? オレ、気にしないッスよ?」
言葉を濁した広藤を見て、逆に豊川は少しムキになったようだ。
広藤は心の中で舌打ちをした。日々の生活の半分がナンパ目的と公言した豊川のこと、半端に誤魔化したのでは、かえって彼女に迷惑を掛けるかも知れない。
ならば、事実を言うしかないだろう。
「ん……じつはな。彼女、もう子供がいるんだ。中学生の、な」
あまりにも意外な言葉に、豊川は数秒間凝固した後、座席の上で飛び上がった。
「ええッ!? 彼女、どう見ても二十代前半ッスよ!? いったいどんだけ早く結婚しちゃったんスか!?」
「いや……早くはなかった……って聞いてる」
「ハァ? どういう意味です??? いったい彼女幾つなんです?」
「女性の年齢を、君に勝手に教えるわけにゃあいかないな……だけど、彼女の役職を聞けば推測くらいはできるんじゃないか」
「役職!? 彼女、役付きなんすか!? 上席研究員か何か!?」
「いんや。もっと上だ」
「もっと……って……?」
余程ショックだったのだろう。
豊川は、ぼうっとした表情のまま、広藤の指さした天井を見上げたが、何も思いつかなかったと見えて、そのままきょとんとした表情で正面を向いた。
「彼女、執務室に閉じ籠もることって、ほとんどないから分からんだろうが、ポジションはここのマネージング・ディレクター。つまり、最高責任者だ」
「最高責任者……ってつまり、しょ……所長!? じゃ……じゃあ、あのコが先日この研究所でG幹細胞を発見したってニュースの……松尾紀久子所長!? でで……でも、入所式の時は全然違うオバサンが挨拶してましたよ!? TVニュースに出ていたのも彼女じゃないしッ!?」
「ん……あの人、影武者なんだ。ホラ、見た目若いとなめられるから、対外的に……分かるだろ?」
「ぜ……絶対ウソだ!! 先輩、俺がここのこと何にも知らないと思って、フカシこいてんでしょ!?」
「ちゃんと証拠もある。これ、見ろ」
広藤が差し出した、スマートデバイスの画面を見て、豊川は息を呑んだ。
そこには、数人の男女が写っていた。その真ん中に写っているのは、学生服を着た、まだ幼さの残る広藤。そして、その隣で微笑んでいるのは……
「これが、松尾所長……!? ぜ……全然、歳とってないじゃないですか!? いやむしろ若返って……!!」
「ま、そういうわけだ。ネームプレートつけてないのも、そういう理由。それでもアタックするっていうなら止めはしないよ。旦那さんはいないらしいから」
広藤はそう言うと、空になった食器のトレーを持って立ち上がった。
「ま……待ってくださいよ!! 広藤先輩!! なんで所長が年取らないのか教えてくださいッ!!」
「声がでかいぞ。黙っていろ。そのうち君にも聞こえてくるさ……」
必死な形相の豊川の声を、風と受け流しながら、広藤は自分の研究室へと歩き出した。
*** *** *** ***
『君はたしかに、日本の生命科学研究所所長だ。だが、同時に我がMCMOの巨獣細胞研究チームの所属でもあるのだよ。そもそも、我々から得た技術と情報がなければ、G幹細胞は完成できなかった。違うかね?』
画像通信モニターの中で、こちらを鋭く見つめる欧米系の顔立ちの男が一人。
MCMO総本部の監察官、カルード=ライヒである。
広藤と豊川が食事をしていたその頃、松尾紀久子は、所長室の通信システムの前で、MCMOの査問を受けていた。
巨獣が観測されなくなって二十年。
だが、巨獣管理機関であったはずのMCMOは、今だに超国家的な組織として君臨していた。それは、機動兵器の開発を推し進めてきたMCMOが、今や地球上でもっとも強力な武力を持つ組織になったことが理由の一つにある。
三年前。巨獣の不法研究を理由にある国の軍隊を撃破し、降伏させたことによって、その各国への影響力は急速に強まり始めていた。
「いいえ。G幹細胞は危険な存在です。たとえMCMO本部にであっても、お渡しすることは出来ません」
紀久子は、あの凛とした姿勢を少しも崩さず、強面の査問委員長を真っ正面から見据えて立っていた。
『これはMCMO最高評議会の決定なのだ。理解してくれたまえ。巨獣災害の脅威が去った今、各国はそれぞれ勝手に軍備増強を始めている。このままでは冷戦時代に逆戻りだ。いや、もっと危険な状況に陥るかも知れない……我々に必要なのは、核をも上回る抑止力なのだよ……』
カルード=ライヒ査問委員長は、その無表情な口元を軽く歪めた。
これまで世界を牽引してきた先進諸国の力は衰え、アジア各国や南米、アフリカの国々までもが力を付け始めている。彼等が機動兵器を持つようになれば、世界の勢力図は書き替えられてしまう。
機動兵器は、単なる対巨獣兵器ではない。その機動性と汎用性は群を抜いているのだ。その気になれば、BC兵器をばらまくことも、核兵器を発射前に破壊することも不可能ではない。その危機感を、何故この女性研究者は理解しようとしないのだろう、そういった焦燥感が見て取れる。
「私には理解できません。それはあくまで人間同士の争いです。MCMOは人類全体に対する具体的脅威……巨獣に対する組織のはず。巨獣のいなくなった今、どうしてG細胞を組み込んだ機動兵器を開発しなくてはならないのですか!? 人間のそうした思い上がりが、過去の巨獣大戦を引き起こしたとは考えられないのですか?」
『では、君は何故!! どうして、G幹細胞などというものを開発したのだね!? 単なる研究者としての好奇心か!? それとも、他に利用法でもあるというのか!? こうなることが予測できなかったとは言わせないぞ』
「私の思いはたった一つです。でも、理由を誰かに申し上げるつもりはありません」
『話にならない。私は査問機関を預かる者として、理由無く評議会の決定事項を覆すことはできん』
ライヒ査問委員長は、苦虫を噛みつぶしたような顔のまま、大きく頭を振った。
「サイボーグ兵器の開発なんて……あの第二次巨獣大戦で亡くなられた多くの人々……ライヒ隊長も、決して許さないと思います」
『兄、ミヴィーノが、君達の世話になったことは聞いている。君がG細胞の軍事転用に反対する気持ちも分かる。だが、今や人類最大の脅威となったのは、各国の機動兵器群だ。これを抑止できるのは、それを上回る戦力だけなのだ』
「どうしても、と仰るのならば、徴発なされればいいでしょう。私は協力できませんけれど、そうなれば従うほか無いのですから」
『そうするしかないようだな。君のような有能な科学者の協力を、どうしても仰ぎたかったのだが……』
ライヒ監察官は、残念そうに言うと通信を切った。