15-1 砂漠の森
「ふう……暑いな……」
呟きながら見上げると、はるか二十mにもそびえる樹冠から、木漏れ日が網膜を刺す。
赤道近くの強い太陽光は、こんな樹海の底にまで恵みをもたらしてくれているのだ。
小林は手の甲で汗を拭うと、湿った林床を踏みしめてまた歩き出した。
世界各地で、急速に広がりつつある森林。
そこで、ほんのたまにだけ異形の生物が目撃されるようになったのは、あの『第二次巨獣大戦』直後からだった。
過去にも、UMAあるいはヒドゥンアニマルと呼ばれてきた未確認生物群があった。が、それら以上に頻度が高く、ハッキリとした痕跡を残していく彼等を野生生物として扱うべきか、研究者達は困惑していた。
もしかすると彼等は、G細胞の、あるいはシュライン細胞の影響を受けた『巨獣』ではないのか。
しかし、それが存在するとして、何故その存在がそれと確認できないのか。
某国立大学の教授となった小林は、彼等『謎の巨獣』の細胞サンプルを得るために、元はゴビ砂漠の一部であった広大な森林地帯へ来ていたのだ。
(オレもずいぶん年食っちまったもんだな……このくらいのジャングルで音を上げるような鍛え方はしてなかったつもりなんだが……)
あれから二十年。
Gが空へと消えた日。世界にはいくつかの不思議な現象が起きた。
そのひとつが『G細胞の消滅』である。
国連の研究機関で厳重に保管されていたG細胞、またその遺伝子や細胞質を組み込まれた実験動物や巨獣遺体など、すべて忽然と姿を消してしまったのだ。
各国の研究機関でも同じことが起きていたが、むろんそれを公にする国はなかった。G細胞の研究は国連機関のみが行っていることになっていたからだ。
あの日から小林は、G細胞の痕跡を探し続けていた。
風に消えた巨獣王。だが、明は言った。死ぬわけではない、と。そして生命の最小単位になり、生態系と一つになるのだと。
だから、明はこの地球上のどこかに必ずいるはずなのだ。
小林は、それを見つけたかった。
もう一つの不思議な現象は、この『森林地帯の拡大』だった。木材需要は減ったわけではなく、大規模な森林伐採は決して収まってはいない。だが、あの植物型巨獣・クェルクスのパワーを分け与えられでもしたかのように、地球上のすべての植物の生育速度は、数%から数十%も速くなっていた。
その結果、世界の乾燥地帯の半分が森林へ、更に残りの半分は草地へと姿を変え、完全な砂漠地帯の面積は最大時の三割以下に減ってきていた。
「……ったく、これじゃあ完全に熱帯雨林だぜ。砂漠に適応した生態を持つ生物にとっちゃあ、これも立派な環境破壊……なんだろうなあ……」
小林は複雑な思いで、じっとりと湿った泥を足元からすくい上げた。
ほんの数年前まで砂漠であったことを示すかのように、赤い砂の混じった泥。その泥の中にはどこから来たのか、もう、生態系を下支えするヨコエビや環形動物など、分解者の姿が見える。
だが、乾燥地帯や砂漠が完全に消えつつあるわけでもないのだ。地質学者は、ほぼ数千年前の植生帯に戻りつつある、と言っていた。
「Mr.プロフェッサー!! この足跡、違うかね!!」
前方を行く現地案内人から声が上がる。
彼の見つけたその足跡は、たしかに大型生物のものだ。五つに分かれた指の痕、三角形の爪の形は、中生代の恐竜のそれに似ているが、それよりもはるかに長く、鋭い。
「ああ。確かにコイツはヴァラヌスの足跡だな」
巨獣ヴァラヌス。周囲の植物の踏まれ具合、樹につけられたひっかき傷の痕から見ても、オオトカゲ類の変異体であるヴァラヌスが通った跡と見て間違いないだろう。
だが小さい。この足跡ならば、全長十m以下と推定される。それなら、現生のコモドドラゴンと大差ない。
「また、追ってみるかね? プロフェッサー?」
おずおずと聞く案内人に、小林は少し考え込む仕草をしてから首を振った。
実在する生物なら、足跡を追えば必ずその姿を確認できるはずだ。そう考えてずっと後を追ってきた。
だが、この森に入って一週間。
幾度も、いくつもの生活痕を発見し、足跡を追った。が、どの痕跡も、まるで途中で空に溶けたように消え失せてしまう。待ち伏せても、無人カメラを使っても、猟犬を使っても、ヘリで上空から探しても、巨獣の姿は確認できなかった。
「いい加減出て来いよな……明……」
そう呟いてみる。
確信めいたものが自分の中にあるのだ。
この急激な自然環境の回復は、明がやっているのだ。そして、こうした痕跡を残している少し小さめの巨獣達は、明、いやGの心が顕現したモノに違いない。
あの時、明は言った。
Gは普通の生物として生きることを求めていたのだ、と。だから、敢えてその姿を「ほどき」、地球生態系と一つになることを選んだはずだ。
「だけど……それで終わり……なんてワケじゃねえよな? だってお前はまだ……一番大切な人に思いを伝えてねえだろ…………」
ふたたび仰いだ木漏れ日が、急速に陰り始めた。日に何度かある、スコールが来る前兆だ。
「プロフェッサー!! GPSに本格的な雷雲が写っています!! 街へ戻りますよ!!」
少し離れた場所で、四駆のエンジン音が響いた。
*** *** *** ***
「よう、加賀谷。久しぶりだな。何やってたんだ?」
深夜のホテル。
東京にいる加賀谷からの呼び出しを受けて、小林は衛星通信の前にいた。
こちらは夜だが、向こうは早朝だ。モニターの中で、寝起きといった様子の加賀谷が不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
『何やってたじゃねえ。何度呼び出したと思ってる? ここしばらく姿どころか、名前も見せず何やってた? たまには論文書かねえと、大学追い出されるぜ?』
モンゴルの片田舎といえど、通信システムくらいはある。だが、小林はGPS端末を持ち歩くのを嫌っていたため、ジャングルを歩いていた数週間、まったく外部と連絡を取っていなかった。
しかし、探している未確認巨獣の性質が温和しいとは限らないし、中央アジアは今も決して治安の良い場所ではない。加賀谷は心配していたのだ。
だが、小林の呑気な顔を見ていると、そういうことを考えることすらバカらしくなる。
「ハ。追い出すなら追い出せってんだ。例の戦いに参加した俺のネームバリューで学生集めてる三流大学のくせによ。それに、こっちはこっちでサボってるワケじゃねえんだ。地球環境回復の原因……環境中のG細胞を見つけ出せば、ヤツら手の平返すぜ」
『で? 少しは手がかり、つかめたのかよ?』
「いや――」
小林は画像電話の中で両手を広げ、頭を振った。
「――サッパリだな。からかわれてんじゃねえかってくらい、見事に何も見つからない」
『たぶん、そうだろうとは思ったぜ』
苦笑いする加賀谷に、小林は口を尖らせた。
「そう言うお前の方は、少しは研究進んだんだろうな? 森林の回復と同時に起こっている妙な現象、その原因の一端でもつかめたのかよ?」
『こっちの方もサッパリだから、そっちもそうじゃないかって思ったのさ』
「まったく……なんで急に、絶滅危惧種が復活したりし始めたんだろうな……」
それも、全世界的な現象だった。
小型のカエルや昆虫、植物に至るまで、絶滅寸前であったもの、あるいは絶滅した、とされていた生物種が、少しずつ数を盛り返しているのだ。もちろん、一般種といえるほど増殖するわけではない。ただ、それまで全く見られなかった場所にも姿を見せるようになるため、まるで絶滅から蘇ったように見えるのだ。
第二次巨獣大戦以来、とみに自然環境への意識は高まっていたから、当初は保護活動の成果、という見方が大半だった。だが、各国の報告を取りまとめてみたところ、どうやらそれだけでは説明がつかないほど、地球全体の生物種が増え始めていることが分かってきたのだ。
「だけどよ、少しくらいは何か分かんねえのか?」
『分かったのは状況くらいだな。今回の調査で「復活」が確認されたのは、アマゾン川流域だけで千二百二十種。地球全体では二万種を軽く超える。まあ、あくまで予想値だがな。魚類、両生爬虫類、鳥類、哺乳類はもちろん、昆虫やダニ、植物、菌類まで……これだけ多様な生物種なんだ。ひとつの原因、と考えない方がいいのかもな』
言いながら頭をボリボリと掻く。
そういえば、ここしばらくこの研究所に詰めっぱなしで自宅に帰っていない。風呂に入らないのは、小林の専売特許だったはずだが。そう思って加賀谷は苦笑いした。
「共通項くらいは見つからないのか? 増殖し始めた森林に住むモノばっかしとか、降雨量とか日照とかの気象変化によるとか……」
そう口にしながら、小林にも分かっていた。原因がそんな環境変化なら、すぐに分析できる。それが分からない、ということは……
『そりゃあ、森林に住む連中は全部それなりに増えてるさ。だけど、絶滅危惧種が予想を超えて殖える理由にゃならねえだろ? たしかに酸性雨レベルも下がったし、温暖化傾向が緩和されて、日照も回復してる。降水量やら大気成分まで、一時期とは比べものにならないほど落ち着いているけどな……どれも原因、っていうには決め手に欠けるんだよ。あと調べてないのは、宇宙線とか地磁気くらいのもんだぜ』
「そうか……ところで加賀谷」
『なんだ?』
「G細胞については? 調べたのか?」
『あん時の明の言葉……だな? 地球と一つになる……っていう……』
「ああ。希少生物を絶滅から救い、生態系のバランスを整える……そこにアイツの意思が働いているとすりゃあどうだ?」
『残念ながらノーだ。どこにも見当たらなかったよ。単細胞生物や植物体はもちろん、環境中に漂う様々な細菌やウイルスの中に、G細胞が混じっていないか、検証はしたんだがな……』
「そうか…………」
モニターの中で、小林がため息をついた。
加賀谷にも分かっている。おそらく、小林は安心したいのだ。Gと明……まどかもだが……消えたのではなく、今も自分たちと共に生きているのだと、確認したいのだ。
『そういやG細胞で思い出したぜ。ひとつ、でかいニュースがある』
『ん?』
「松尾さん、とうとうG幹細胞、作成に成功したらしいぞ」
「マジかよ!? いったいどうやって……? だいたい、G細胞自体が再発見されてないだろうが!?」
『G細胞については、DNA配列、全部発表されただろ?』
「まさか、合成したのか」
『そう。人工G細胞だ。しかも幹細胞化したんだ。快挙だぜ。G細胞はそれ自体がなまじ万能性を保持しているだけに、安定した幹細胞となると、作り出すどころか発見すら難しいってのは定評だったからな』
生体各器官に分化する能力を持つ幹細胞。
ES細胞やIPS細胞の技術を用いても、G細胞からそうした幹細胞は作り出せなかった。G細胞は培養下で異常なほどの安定を見せる。その性質は人工G細胞でも同じだった。
G細胞は、常にG細胞であり続けようとする。
培養することは簡単であった。だが、どんな遺伝子を組み込んでも、最終的にはG細胞へと戻ってしまう。しかも生体内に注入された途端、すぐに性質を変え付近の器官と同じモノになろうとするのだ。本来、幹細胞と似た性質を持つ上に、基本的に死なない。
他の生物に、Gの遺伝子情報を組み込むことは簡単に出来る。しかし、不死性を保持していたGと違って、急激な巨獣化の後、比較的早く寿命を迎えてしまう。
よって、G細胞を制御下に置くことは至難の業だったのだ。
こうした性質に関与していると考えられたメタボルバキアも、シートピアで確認されたきり、G本体の消失とともに永遠に失われていた。
『しかしお前、ニュースも見てねえのかよ。人工G細胞を特殊な環境下で培養して適応させ、その中から選択していくことで作り出したんだそうだぜ?』
「特殊な処置?」
『詳しくは論文を読んでみろよ。意外と簡単だぜ? 前処理はレトロウイルスを使う……まあ、IPS細胞と同じだな。その後、マウスの胚線維芽細胞と一緒に培養して性質を同調させておいた人工G細胞と合わせて培養開始……増殖した内部細胞塊由来の細胞をばらばらにしてフィーダー細胞に植え継ぐ操作を繰り返し、最終的にG幹細胞に至るまで単離培養を行う……』
「そんなの……他のヤツが試さなかったのかよ?」
『他のヤツとは違うさ。そいつらに無くて、松尾さんにだけあるものがあるだろ』
「……なるほどな。G、いや明へ残した、思い……か」
『正解。まあ、執念だろうな。怒ってたからなあ。あん時』
加賀谷は苦笑いした。
あの銀色の肉塊、『王龍の翼』から助け出され、意識を取り戻した時、自分だけが置いてきぼりを食ったと知った時の、紀久子の怒りは凄まじかった。
怒りの矛先は当然、明とまどかだったが、なだめようとした小林は、とばっちりで平手打ちを食ったのだ。
「あんな激しい女だとは思わなかったぜ。けど、何で明を止めなかったのか、なんて詰め寄られてもな……。あの状況じゃあ止めようがなかっただろ? 案外、松尾さんがまだ怒っているから、あいつ姿を見せねえのかも知れねえよ」
『バカ。そんなこと、松尾さんの耳に入ったら、今度は平手打ちじゃすまねえぜ?』
二人はモニター同士で目を合わせ、にやにやと笑った。
『そうそう、それでな、珠――――藤の――――のことな――が、――前、いつ日本――――』
「おい? どうした加賀谷?」
急に画像が乱れ、加賀谷の声も途切れ途切れになった。
小林は首をひねる。衛星経由の画像通話が普及して数十年。こんな僻地との通信であっても、このような途切れ方をすることは滅多にない。
「……どういうことだ? 衛星に事故でもあったのかな……」
何度か電源を入れ直したりはしてみたものの、その日はそれっきり通信が回復することはなかった。