14-10 風の中
時が止まった、そう小林は思った。
元の姿を取り戻したG、その背中に襲いかかっていたアノトガスター、近寄れずに滞空していた昆虫群、そして、津波のように押し寄せてきていたクェルクスの壁。それらすべての動きが、完全に止まったのだ。
こちら側の機動兵器も、そしてサン、カイ、ステュクスも先ほどの攻撃で動きを封じられている。
見渡す限りの瓦礫の荒野。
そこに動いているものは、何もなかった。
滞空している昆虫の羽音と、いまだ燻り続ける火災の残り火の音。そして、風と黒煙の流れだけが、時が止まっていないことを教えている。
それはほんの数秒間のことであったが、そこに居合わせた者達には、とてつもなく長く思えた。
“…………呼んでる…………ぼくを……?”
その不思議な静寂を、破ったのはあどけない子供の声だった。
いや、音声ではない。しかし、これまでよりずっと幼く聞こえたその思念波が、シュライン=デルモケリスから発せられたものだとは、すぐには誰にも分からなかった。
紀久子の心に打たれ、戦闘に協力してくれていたとはいえ、どこまでも不遜な態度を崩そうとはしなかったシュライン。
だが、今響いてくるその思念波は、一切の険が消え失せ、あまりにも幼く聞こえたのだ。
『おい……いったいどうしたんだよ? いったい何があんたを呼んでるってんだ!?』
小林の通信波にも答えようとせず、シュライン=デルモケリスはゆっくりと歩き出した。
向かう先は緑の壁だ。
『……クェルクスが……あいつを受け入れてる……』
アスカの言う通りだった。
右腕を差し込んだまま動かないGのすぐ脇が、まるで巨大な扉のように開き、デルモケリスを迎え入れたのだ。一歩、また一歩と進むたびに緑の壁は通路を造るように押し広げられていく。
『まさか……あの野郎、またクェルクスと融合しようってんじゃ……』
『いや違うぜ。よく見てみろよ……』
オットーの不審の声を、小林が打ち消した。
同時にモニターに送られてきた拡大画像を見て、全員が息を呑んだ。
“何が起きてる……の? シュラインが……溶けてる……?”
いずもがそう思ったのも無理はない。
歩みを進めるたびに、デルモケリスの輪郭がぼやけ、少しずつ小さくなり始めていたのだ。ほんの十歩ほど進んだだけで、すでにその巨体は二回り以上も小さくなってしまっている。
“いえ、たぶん……群体構造を解いているんです”
広藤は持ち前の観察眼で、その現象を正確に見抜いていた。
小さくなっていくデルモケリスの足元から、無数に這い出して来るのは海生生物。カニやエビやウミガメなのだ。あふれ出してくる大量の海水は、体液の循環を司っていたのだろう。その中には無数の魚も混じって見える。
『じゃあ……戦うつもりじゃない……ってのか?』
“おそらく、明さんと東宮さんがクェルクスに何かしたんです……でも……一体……”
何が起きたのか。何が起ころうとしているのか。
ステュクスの受信能力を借りた広藤にも、シュライン細胞で意識を通じていたいずも、そしてサンとカイにも、まったく理解できなかった。
*** *** *** ***
懐かしいエネルギー。
気が遠くなるほど分厚い緑の壁。
その奥深くから滲み出てくるような、その微かな波動を、シュラインはそう感じていた。遠い昔にも、たしかに感じたことがある波動。
遙か記憶の彼方……あの泥の巨獣に呑み込まれた夜……他の生物を取り込み操る、この禍々しい力を得てから一度も感じたことのないもの。
いや、それに近いものを紀久子にだけは感じていたのだが、それとも比べものにならない心地よさだ。
(そうか……この波動は僕を……僕だけを呼んでいるんだ…………)
周囲のすべてに優しさを向けた紀久子の波動と違って、この波動はただ一人、シュラインにのみ向けて送られてきている。そのことを理解した瞬間、シュラインの頬に熱いものが伝った。
“何だこれは……涙……?”
五十年間、一度も流したことのなかった涙。
紀久子の死を感じた時でさえ、流さなかった涙だ。
“何なんだ……まさか……まさか……”
あるはずのないことだが、自分はこのクェルクスの中にいる存在を知っている。
それは、何者かの意識なのだと紀久子は言っていた。
クェルクスそのものの生存本能が、その意識を捕らえ、苦しめているせいでこうなってしまったのだと。
八幡教授達が戦闘フィールド後方で行っている解読作業は、まだ終わってはいない。
東宮の思念波も、伏見明の生体電磁波も聞こえない。
だが、この日本で数十年前から、お互いを知る人物の心当たりなど一つしかない。
“クェルクス…………カシの木?…………じゃあ……まさかあの夜のことは、幻じゃ……”
ついにすべての群体を解き、金髪碧眼の少年の姿となったシュラインは全裸のまま植物体の上に降り立つと、目の前の壁を凝視した。
木質化したはずの硬い壁が、まるでゴムか何かのように縦に裂け、そこから何かが現れようとしていたのだ。
それは二mほどの大きさだった。
うす緑色をした艶やかな楕円球の物体は、一見して植物体であることが分かり、まるで果実のように瑞々しい。
あの時、東宮が潜んでいた果実にもよく似ていたが、それよりもずっとクェルクス本体に近い質感を持っている。
群体を解き、常人の知覚能力しか残っていない今、その内部構造はもはや見ることも、聞くことも、知ることも出来ない。
だが、シュラインはほとんど確信していた。その中に、彼の知る者がいることを。
「本当に…………そこにいるの?」
声はか細く、震えていた。
少年シュラインの白い指が、艶やかな緑の果皮に触れた瞬間。
すぅっと縦に裂け目が入り、中から押し広げられるようにゆっくりと開いていった。
のぞいたのは、白い肌。
果肉のようにも見えたそれは、たしかに人間の皮膚だった。果皮がくるくると剥がれ落ち、人の姿が現れた。
温かな樹液が足元に溢れ、全裸の人間がゆっくりと目を開け、立ち上がる。
シュラインと同じ、抜けるような白い肌。
シュラインと同じ金髪が腰まで伸び、まるで衣のように上半身を覆っている。
シュラインと同じ碧眼が優しく見つめ返す。
白い腕が伸び、シュラインをしっかりと抱き締めた。
「マーク…………長い間一人にして、ごめんなさい。」
「かあ……さん?…………本当に……お母さん…………? あの時……ぼくを捨てたんじゃ……」
「そのつもりだった。でも……できなかったの……どうしても……あなたを捨てられなかった…………」
だから駆け戻ったのだ。襲い来る汚泥の津波。吐き気をもよおす悪臭と、行く手を遮る毒素の霧までも掻き分けて。
やっと見つけた愛しい息子の手を引いて逃げたものの、追いつかれ、力尽きた。
「あの時、樹が倒れてきたの。支えきれなくて、でも、どうしてもあなたを守りたくて、私は、自分の体が堅く、強くなることを願った……」
汚泥の群体巨獣・スカムに触れたフローラは、シュラインと同じく群体能力を身につけていた。しかし、取り込んだのは動物ではなく、自分に直撃してきたシラカシの木だった。そして、その強い思いから、彼女の姿は、樹木そのものへと変化してしまった。
シュラインが目覚めた時、母は姿を変えて目の前にいたのだ。だが、植物と動物では、意思疎通を行うには、あまりにもかけ離れすぎていた。
「何度……何度呼び掛けても、あなたには通じなかった。言葉が出せなくなってしまったの。動くことも……」
「じゃあ……ずうっと、あそこにいたの? 五十年間……あの森の中に?」
フローラは頷いた。
「何度も来てくれたわね。そのたびにあなたを呼んだわ。私はここよって。でも、届かなかった。そのうち、私じゃないものが私の体を操って、増殖を始めたのよ……その時からおかしくなってしまった……」
シュラインは大きくため息をついた。
それは、シュライン自身が行ったことだった。自分にとって忌むべき場所と見定めた明治神宮。その場所の植物を東宮に使わせ、Gを落とし入れるための罠を張った。すべては自分の招いた惨劇だったのだ。
「全部……ぼくのせいなんだ…………ごめん、母さん……」
「いえ。いいの。こうしてあなたに会えたんだもの……」
二人は再び、堅く抱き合った。
その時。フローラの現れた場所から、通信波にも似た声が響いた。
『よかった……シュライン様。どうやら、会えたみたいですね』
「東宮?……まさか君が、母さんを救い出してくれたの?」
『私の自我……記憶情報をぶつけることで、クェルクスの精神壁に亀裂を入れました。しかし、そこで力尽きてしまったのです』
「記憶情報を? 無理をさせちゃったみたいだね……」
『少しは紀久子に認めてもらえるようにと頑張ってみたのですが……結局俺は、どこまでも半端者だったようです。そこにGが介入してくれたおかげで、自我を完全に使い尽くさずに済みましたけれどね』
「いいや。よく無事で戻れたものだよ」
『無事とはいきません……私の肉体は植物体の奥深くで、細胞レベルで散ってしまった。もう、もとの姿に戻ることは出来なさそうです。今、私はクェルクスの情報伝達系を用いて話しています……Gのパワーと伏見明の意思の力が助けてくれなければ、この意識すら残らなかったでしょう』
「そうか…………七千万年に及ぶ孤独と戦闘の記憶……そして紀久子を思う伏見明の魂……か。そういえば、あいつは?」
『わかりません……でも、おそらく……生きていますよ。今の私には、もう感知できませんが……』
「そうか……僕にも、もう大した能力は残っていないようだ……でも心配しないで。もう一度、母さんと二人、クェルクスと同化して、その能力を使い、すべてを収拾するよ。だから、君の肉体も再構成してあげられると思う」
『いいえ。俺もお供します。少しくらいはお力になれるでしょう……今更、あいつらに合わせる顔もないですしね』
自嘲気味の東宮の思念波に、シュラインは思わず口元をほころばせた。
“たぶん、彼等は気にしないだろうけどね。気持ちは分かるよ”
その姿は、すでに母と共に足元から緑褐色の植物体へと変化しつつある。
『それで良いのですか? お二人は人間として生き直すことも出来るのでは?』
この戦いで、良くも悪くも巨獣化や群体化の研究は飛躍的に進むに違いない。おそらくは、シュラインの忌まわしい群体能力を消し去る方法が発見されるのも、そう遠い先の話ではないだろう。
汚泥巨獣・スカムと、哀しい誤解によって引き裂かれていた親子が、奪われた五十年を取り戻すことは、今なら不可能ではない。
”言っただろう? 気持ちは分かる、と。今更、どんな顔を下げて生きろというんだ? それにこれは必要なことでもある。僕の奪った未来を彼等に返すために、ね”
『俺は……あなたの描いた理想が完全に間違っていたとは、思っていません……』
それは東宮の本心であった。たしかにやり方は間違っていたかも知れない。
しかし、この世界では国、企業、団体、個人、そのすべてが、どこまでも己の都合、利益のみを追求し、そのために踏みにじられる命を、まるで顧みていない。もしも、すべての命がひとつの心を持つことが出来たなら、すべての争いはなくなるだろう。
だが、シュラインは俯いて頭を振った。
”もういいんだ。僕は信じたくなったんだよ。彼等のすること、彼等の未来を……見守ってみるよ……意識が朽ち果てるまで……この樹の中で、ずっと…………”
”もし……あなたの期待が裏切られたら……?”
”そんなことにはならないさ……この星には……あふれるほどの命がいて……人間がいて……そして巨獣が……Gがいる……だから…………”
呟くようなシュラインの思念波は次第に薄れ、木の葉の囁きと区別が付かなくなっていった。東宮の声も、それきりもう聞こえなかった。
一陣の風が吹きすぎた後には、複雑に葉や枝を生い茂らせた植物体、クェルクスの壁が残されているだけであった。