2-9 サラマンダー
監視モニターの映像が途絶えた。
「……浸水警報により、第一・第二ブロック間の隔壁、作動したようです……」
報告する白山の声は沈んでいる。
壁面の監視装置が辛うじて生きていて、激流となって流れ込んでくる海水を映し出していた。
水深二千メートルの水圧である。
僅かでも亀裂が入れば、水圧に耐えていたドームの構造はバランスを崩す。外部カメラを見るまでもなく、第三ブロックそのものが一気に圧壊したに違いなかった。シュラインはもちろん、伏見もカイも助かるはずはない。ダイナマイトを抱えていた伏見は、おそらく遺体さえも残ってはいないだろう。
誰も声を発することが出来ず、しばらくの間沈黙が続いた。
「……明君、伏見先生は立派な方だった。彼のおかげで、世界が守られたと言ってもいい」
漸く口を開いたのは干田だった。伏見伊成の死は無駄ではない……もしシュラインにG細胞の性質が奪われていたとしたら……それは国防に携わる者として、干田なりの精一杯の慰めの言葉だったのかも知れない。
だが、その言葉を背中で受け止めた明は、振り返ろうともせずに言った。
「やめてください。父が守りたかったのは、きっと世界なんかじゃない……」
「そうだな……」
ぽつりと、八幡が言った。
彼はきっと、何かを息子へ伝えたかったのだ。それは、言葉にすると陳腐になる。いや、言葉にする必要などないのだろう。それを明が、たしかに受け取ったのだから。
ほんの数分でひどく大人になったように見える明の横顔を見ながら、八幡はそう感じていた。
「外部カメラの映像、来ました」
モノクロの画面に映し出されていたのは、巨人に握りつぶされたかのように、水圧で押しつぶされた第三ブロックの姿だった。
建造物全体の形状は維持されてはいるが、分厚い鋼鉄製の本体に大きな亀裂が入り、内側に強く押し拉げられたのが分かる。まだ水圧による変形が続いているのか、集音マイクが金属同士が擦れ合う不快な音を拾い続け、僅かに立ち上る気泡も見えた。
「ひゃっっ……な…何だこりゃ!?」
カメラを操作していた東宮が、素っ頓狂な声を上げる。潰れた瓦礫の隙間で、何か白いモノが、うねうねと蠢いていたのだ。不気味な形状の多い深海生物とも、また異質な雰囲気を放つその物体は、真っ白な触手を伸ばし、周囲の瓦礫に巻き付いている。東宮がズームしたその触手の先端に、瓦礫に爪を立てて足掻く猫の上半身を見た全員の背筋が凍った。
「ひっ……!?」
「シュライン?…………」
「バ……バカな、こんな状態で、まだ生きているというのか!?」
呻くような声を絞り出したのはウィリアム教授だ。
「この化け物は……シュラインなんですね?」
不気味な触手から皆が目を背ける中、一人モニターを見つめる明の目には、怒りの色が浮かんでいる。
「ヤツはいったい、何をしているんだ……?」
「瓦礫の下から這い出そうとしているように見えます。しかし……深海中では水圧と酸欠で長くは保たないはず……」
深海の水圧に耐えて蠢いているのは予想外だったが、八幡の言う通りならすぐに活動をやめるはずだ。現に、触手の動きは次第に鈍り始めている。
「待ってください。どうもライトの周囲や画面上に深海生物がまとわりついて……まともな映像が来ません」
いつの間に集まってきたのか、モニター画面に大小の深海生物が映り込んでくる。
東宮は、カメラの角度や照明を変えて、なんとかズームしようとしているが、どうしてもレンズ前に深海生物の白い影が写り込む。暗夜に降る雪のように、また舞い散る花びらのように、深海生物の姿は次第にその数を増してきた。
そのうち、吹雪のように舞い踊る深海生物によって、ついにモニターの視界はほとんど塞がれてしまった。
「おかしいです!! この海域で、こんな高密度で生物が集まってきたことなど一度もありません‼」
紀久子が言った。たしかに、平坦でアクセントの少ないこの海域は、もともとあまり生き物が見られない。
「崩壊した第三ブロックの泡に誘われたんじゃないのか?」
ウィリアム教授の推測を、八幡が否定した。
「いえ、どうやら違う。これはヤツが呼び寄せているようです。見てください」
「う、これは……食っているのか?」
白山が驚きの声を上げる。生物の流れが途切れ、視界がクリアになったその一瞬、触手の先端に生えた猫の上半身が、ハダカイワシらしい深海生物を抱え込むように捕獲するところが、ハッキリと捉えられたのだ。さらに触手の先端が、猫の上半身ごと巻き込み、瓦礫の隙間に見える白いもの……本体と見える白い肉の中に引きずり込んでいく。
「食っているだけじゃない。見ろ、自分の体にエラ状の部分を創り出そうとしている。水中呼吸に適応しようとしているんだ。そのうち、泳ぎ出すかもしれん」
シュラインに深海生物が捕らえられていくに従って、再びモニターの視界は確保されつつあった。暗闇に浮かぶように映し出された白く細長い肉塊の表面には、深海ザメのエラ穴を思わせる細い切れ目が並び、規則正しく動きだすのが見て取れた。
「いったいどうやって、こんなに集めたんでしょう?」
いずもが八幡に聞く。
「ヤツは光は発していない。おそらく臭いか音波だろう。魚だけでなく、甲殻類や軟体動物も集まっているところを見ると、臭いの線が濃厚だな」
「シュラインが分離させて襲ってきた生物は、すべて陸生ほ乳類でした。いきなり、こんな高水圧に、適応できるものでしょうか?」
干田が言うのも分かる。たしかに、あまりにこれまでとはかけ離れた性質の変化だ。
「深海に投げ出され、ギリギリに追い詰められたことと……やはり伏見君のG遺伝子が取り込まれてしまった可能性は否定できないな」
だとすれば、伏見の特攻は結局何の役にも立たなかったことになる。八幡は悔しそうに唇を噛んだ。
「だが八幡君、これはまずいな。シュラインが次に狙うのはG本体だろう。G細胞の取り込みに成功したかどうかは不明だが……もし、G本体と融合した場合、今のヤツならば、Gの欠損部分を補完することが出来るかも知れん」
ウィリアム教授の表情は険しい。
彼の言う通り、もしシュラインがG細胞の性質を取り込んだとすれば、Gを復活させて生体電磁波の発信源として使おうとするに違いない。そうするためのバイオマス、つまり生体素材を持ち、欠損している脳組織と同じ性質の細胞を作り出すことなど、シュラインにとって容易なことであろう。
「ウィリアム教授、我々だけでは済まない事態だ。このまま手をこまねいていては、人類全体を危機に曝すことになる」
「ふむ。だが、化け物と化したシュラインにとどめを刺すか、Gの遺体そのものを破壊できれば、この危機を回避できるな」
厳しい表情は変わらない。だが、ウィリアム教授の目は急に輝きを増しきていた。腕白小僧が珍しい玩具を見つけた時のような、不謹慎とも取れる目の輝きを見て、干田は僅かに眉をひそめた。
「ウィリアム教授、何か手段があるとでもいうのですか?」
「ここを何処だと思っているんだね。ウィリアム教授の機械工学研究室だぞ? 本来の仕事は、Gに対応できる機械兵器の開発だ。対巨獣用の戦闘兵器なら用意がある………まぁ、試作品ではあるがね。カイン、外部ハッチへ行こう」
ウィリアム教授は、もはや喜々とした様子を隠そうともせず席を立つと、八幡達が入ってきたのとは別のドアを開けて出て行く。
「Yes.プロフェッサー」
カインが更に奥のスライドドアを開けると、そこはちょっとした工場並みの広さのある空間だった。
ウィリアム研究室の作業機械製造工場であり、格納庫でもあるそこは、深海とは思えない。変わった形の探査船が一機と、いくつかのメカがハンガーに並んでいるのが見える。
先導して歩き出したウィリアム教授は人型の作業機械の前で止まった。サイズは身長にして三メートルくらい。搭乗型のロボットにしては小さく、潜水服にしては重厚すぎる。同じ基本形状のものが二機置いてあり、それぞれ赤と青を基調に塗装されていた。
「これが、当研究室の開発した、戦闘用パワードスーツ、サラマンダーとワイバーンだ」
「こ……こんな小型機が? これで今のシュラインに、有効なダメージを与えられるのですか?」
干田は疑うような目をウィリアム教授に向けたが、そんなことは一切気にする様子は見せず、自慢げに機械の説明を始める。
「有効どころではないよ。このスーツには、高電圧で神経を焼き切るショックアンカーや、耐水圧ミサイル、ポイズンアローなど……小さくとも、海底でも使えて巨獣を殺傷できる兵器がいくつも付いている。まさに、この研究所の守護神と呼ぶに相応しい万能の……」
「ちょっと待ってください、ウィリアム教授」
放っておけばまだまだ続きそうな、ウィリアムの説明を遮ったのは、八幡だった。
「シュラインは通常の生物……いや、これまでの巨獣とは違います。電撃で細胞分裂を促進してしまう危険もあるし、破壊して細胞を飛び散らせるのはもっとまずい。それに、毒物が効かない可能性は伏見君が示してくれました。武器をよく選択しないといけません」
「む……つまり、現有装備がほとんど使えないのか。少し待ってもらえれば、有効そうな武器を選択し直して装備させることも可能だが……」
さすがのウィリアム教授も困ったような顔で言い淀むと、白い顎髭を撫でた。
「しかし急がなくては!! 第一ブロックの惨状も心配です。早く処置しないと死者が出るかも知れません。いや、もう出ている可能性があります」
考え込むウィリアム教授に、石瀬が心配そうに言う。
「大丈夫ダ。ソレならサラマンダーの武器をpressurized liquid nitrogen warheadに限定シテやればイイ。ソレと第1ブロックへは、submergence transport vehicleのシーサーペントで、攻撃とは別に救助隊を向かわせレバ、いいダロウ」
「なるほど、それならすぐにやれるな」
ぽん、と手を打って納得した様子のウィリアム教授とは裏腹に、八幡達日本人メンバーは目を白黒させた。英語混じり、専門用語混じりで早口の日本語を言われるくらいなら、すべて英語で言って貰った方が分かり易い。
「あの……プレッシャなんとか……って何ですか?」
いずもがおずおずと手を挙げて質問した。八幡達全員を代表したような形である。
その様子を察したウィリアム教授が微笑んだ
「ああすまない。pressurized liquid nitrogen warheadとは、高圧液体窒素弾、PLN弾とでも言おうか。水中で液体窒素を反応させ、巨獣を冷凍して封じ込める武器だ」
「なるほど、ではsubmergence transport vehicleというのは?」
「それは、そこにある深海作業艇のことだ。シーサーペントは機体名。最大八人乗りの中型潜水艇で、速度と安全性は折り紙付きだよ」
それを聞いてようやく会話の内容を理解した干田が、先ほどの作戦を要約した。
「つまりカイン。シュラインは液体窒素弾で凍らせれば、妙な影響を及ぼすことなく捕獲、もしくは撃破できるし、第一ブロックへの救援は攻撃とは別に行けばいい、ということか」
「ソウダ」
「だが、誰がその役をやる?」
「サラマンダーに乗るのは、ぼくダ」
早速、赤いカラーリングの機体に向かって調整作業を始めたカインがこともなげに言い放つ。
「カイン、君が?」
「ぼくハ、サラマンダーの開発者ダ。もっとも上手く扱えルのは当たり前ダロウ。ソレに今、唯一availableなサラマンダーの体格は、ボク個人に合わセテあるしな」
百九十センチ以上はありそうなカインの体格に合わせてあるのだとすれば、たしかにサラマンダーに搭乗できそうな人間はその場に一人もいなかった。
「唯一? もう一機は使えないのかね?」
「ワイバーンの起動は出来ルがadjustmentも済んでいナイし、命綱もケーブルもconnectされていないカラ、危険度が高イし通信も出来ナイ」
「では、シーサーペントの方は……」
「……私が行かなくては、治療が出来ないでしょう」
先ほどもいずもに点滴を打った石瀬が名乗りを上げた。
「操縦は、私がやります」
もう一人、名乗り出た予想外の人物を見てその場の全員が息を呑んだ。
「バ……バカな。松尾君、怪我人にそんな役をさせるわけにはいかん。ましてや君は女性だろう」
紀久子の強い視線を見返しながら、八幡は少しうろたえ気味に言った。
「女だからって特別扱いしないで下さい。私はウィリアム先生の作ったサンプリングロボットに慣れています。肩の怪我も大丈夫です。操縦には影響ありません」
真剣な表情。紀久子の意思は固そうだ。
だが、その様子を見つめながら、明はまるで心臓をわしづかみにされたような不安感を覚えていた。
水深二千メートルの深海、と一口に言っても、そこは人間にとっては危険きわまりない環境である。わずかな機体の変形で、小型潜水艇など一気に圧壊してしまう。
そうでなくとも故障やトラブルで身動きできなくなれば、その先には死しかない。また、深海にも強い海流がある。もし流されでもしたら遺体すら回収できないのが深海だ。
しかも、観測やサンプリング作業ではない。シュラインという敵もいるこの海底は、それ以上に危険な場所でもある。どうしても紀久子を行かせたくない。
「ま……待ってください。その……操縦は、松尾さんでなくとも、誰か他の人でも、やれるんじゃ……」
「明君は、黙っていて」
おずおずと言いかけた明を、紀久子の厳しい声が遮った。ここから表情は見えないが、こんなに冷たい紀久子の声を聞いたのは初めてであった。
「雨野さんの方が経験は長いですけど、さっきまで意識を失っていた人にお任せすることは出来ません。それにこの海底ラボは、外部にハッチの解除スイッチがあるはずですが、それを探し当てて、解除するのは、私以外には難しいと思います」
紀久子は一気に早口でまくし立てた。だが、東宮、白山にも操縦そのものは可能だったし、なにより開発者の機械工学研究室のメンバーには、さらに機械の操縦に長けた者がいる。
しかし、深海とシュラインへの恐怖のためか、誰もがうつむいたまま目を逸らし、一人も代わりを申し出る者はいなかった。
明は、その重い空気を理解して唇を噛んだ。
そこまでして操縦を買って出ようとしている、紀久子の気持ちも理解できた。自分に出来ることがあって、それをすることで他人が傷つくのを防げるならば、たとえ自分の身が危険に晒されようともやる。
その真っ直ぐな思いと優しさこそが、明が心惹かれている紀久子の本質だと思えた。
「いや、しかし……待ちたまえ」
「待てません。今は、私たちの命も、第一ブロックの人達の命もかかっている緊急事態です。一刻も早く動かなくては。ここは、成功確率で人選すべきじゃないんですか?」
思いとどまらせようと口を開いた八幡を、紀久子は強い視線で見返した。その目に圧されたように頷くと、八幡は大きくため息をついた。
「……分かった。だがもう一人、サポートを決めさせてくれ。干田君、君が行ってくれないか?」
「無論です。私以外に戦闘のサポートは、つとまらないでしょうからね。操縦経験は無いですが、潜行艇の搭乗経験はありますし」
干田は、軽く頷いて前に出た。