本尊が呆れて見てた (破戒僧と檀家のしょーもない解脱)
坊主と檀家の酒呑み話
その寺の和尚は、近隣ではちょっとした有名人だった。
ありがたい説法をするから――ではない。
昼間から酒を飲み、檀家の差し入れを勝手に開け、精進料理の膳に焼き鳥を混ぜ、挙げ句の果てには「これは修行だ」と言い張る。
誰が呼んだか、いつしか「破戒和尚」。
もっとも、本人はまったく気にしていない。
その日も夕暮れの本堂では、数人の檀家を前にして、和尚が湯呑みを片手に上機嫌で説法をしていた。
「……でな、五郎さん」
「なんだよ」
「人間ってのは、死んでから悟るんじゃない。生きてるうちに、少しずつ悟っていくもんなんだよ」
「へぇ」
五郎は半ば聞き流しながら、和尚の湯呑みをちらりと見た。
どう見ても茶ではない。
黄金色の液体が、たぷん、と揺れている。
「なぁ和尚」
「ん?」
「俺さ、最近ふと思うんだよ」
酒が少し回ってきた五郎が、手元のコップをぼんやり見つめながら、少し寂しそうな声を漏らした。
「……『死ぬ』って、結局どういうことなんだろうなって」
和尚は、焼き鳥のタレを口元につけたまま、
「んあ?」
と、間の抜けた声を出した。
「なんだい、五郎さん。天下の堅物男が、色恋沙汰でもないのに神妙な顔しちゃって。死ぬのが怖いのかい?」
「怖ぇっていうか……ほら、親父も逝っちまったし、俺もそろそろ折り返し地点だろ? 自分が消えてなくなるってのが、なんか……釈然としねぇっていうかさ」
「ハハハ! バカ言っちゃいけない。消えてなくなるわけがないだろう!」
和尚は豪快に笑い、一升瓶から五郎のコップへ、とくとくと酒を注いだ。
「皆さんね、人が亡くなると『おしまいだ』『無になった』なんて言いますけどね。我々坊主の使う言葉を、ちょいとよく見てごらんなさい」
和尚は湯呑みを指で軽く叩いた。
「仏教ってのは、不思議と『死』って漢字をそのまま使わないんだよ。
一番有名なのが『往生』だ。
『往』ってのは、行くってことだ。
『生』ってのは、生まれるってことだ。
つまり――行って、生まれる。
死ぬんじゃない。あっちへ行って、新しく生まれ直すのさ」
五郎は黙って聞いている。
「お葬式でよく聞く『他界』だってそうだ。『他の世界へ行く』。
『帰元』なんて言葉に至っちゃ、『元へ帰る』だ。
どうだい?
『行く』だの、『生まれる』だの、『帰る』だの。
ずいぶん前向きな言葉ばっかりだろう?」
和尚はニヤリと笑った。
「死ぬのに『往生』だぜ?
行って、生きる。
面白ぇじゃねぇか。
仏教の先輩方は、死を単純な『消滅』だなんて、そう簡単には考えちゃいなかったのさ」
「そりゃ、言葉の上ではそうだけどよ……」
五郎がなおも眉をひそめる。
「それに『往生』って言葉、普段は『往生際が悪い』とか『渋滞で往生した』とかにも使うじゃねぇか。あれもみんな、あの世へ行って生まれ直してるのか?」
「もちろんだ」
「渋滞で?」
「車という輪廻の乗り物から、歩行者という新たな存在へ生まれ直すんだ」
「ただ車を降りただけだろ」
「言葉を軽く見るな。悟りは、だいたい乗り換え案内の形で現れる」
「そんな仏教聞いたことねぇよ」
和尚は、
「やれやれ」
と肩をすくめ、自分の湯呑みをぐいっと煽った。
とん。
湯呑みを置いた、その瞬間だった。
和尚の猫背が、すっと伸びた。
先ほどまでそこにいたのは、焼き鳥のタレを口につけた、ただの酔っ払いのおっさんだった。
だが今、五郎の前にいる男は違った。
本堂の空気が、わずかに変わった。
外から聞こえていた虫の声も、風の音も、遠のいたように感じられる。
和尚の濁っていたはずの瞳が、底知れない深みを湛えて五郎を射抜いた。
「五郎さん。
お前さんは今、自分が『生きている』と思っているだろう」
「……ああ」
「だがな。
仏教の真理から見れば、この現世こそが、長い長い『生前葬』なのかもしれん。
一時の夢。
いや――悪夢と言ってもいい」
「……え?」
「執着。嫉妬。欲望。
そして、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、触れるもの。
人間ってのは面白ぇもんだ。五感に縛られ、移ろい続ける世界に心を振り回される。
移ろい続けるなんざぁ虚い続けるにも語感が似てるなあ。
五感どころか語感にも振り回されたぜ。
挙げ句の果てには酒の香りにまで心を奪われる。
そんな泥水の中で、俺たちは肉体という不自由な器を借りて、必死に『自分』をやっている」
和尚は、自分の胸を指で軽く叩いた。
「この肉体だって、いつかは動かなくなる。
老いて、病んで、壊れていく。
まるで、誰かから借りた古びた乗り物みたいなもんだ」
一拍。
「だからな。
死ぬってのは、そのポンコツの操縦席から降りることなのさ」
「……降りる?」
「ああ。
肉体という重たい衣を脱いで、本来の豊かで自由な『いのち』に還る。
水滴が海へ還るようにな」
和尚の声は、もう酔っ払いのそれではなかった。
「水滴は、海に落ちたから消えたのか?
違う。
水滴としての形を失っただけだ。
海そのものになったんだ。
だからな、死とは『消滅』じゃない。
この仮の生を終えて――
ようやく、本当の目を覚ますことなのさ」
五郎は、何も言えなかった。
目の前の和尚が、途方もなく遠い場所から、自分を見つめているように感じた。
その背後に、広大な後光さえ見えた気がする。
ゾクリ、と背筋を冷たいものが走った。
――だが。
「……なぁ和尚」
五郎が、恐る恐る口を開いた。
「ん?」
「だったらよ」
五郎は和尚の手元を指差した。
「さっきから『あの世に行けば自由になる』なんて偉そうに言ってるがな。
お前さんが今ここでガバガバ飲んでる酒は、どう説明するんだよ。
坊主のくせによぉ。説得力が弱えんだよなぁ」
「…………」
和尚は黙った。
そして――
「ハハハ!」
待ってましたとばかりに笑い、湯呑みを高々と掲げた。
「五郎さん。それは浅い。浅いよ」
「何がだよ」
「これは酒じゃない」
和尚は湯呑みを眺めながら、したり顔で言った。
「**般若湯**だ」
「……また始まったよ」
「般若とは智慧のこと。つまりこれは――」
和尚は胸を張った。
「知恵の湧き出るお湯だ」
「へっ! 出たよ、坊主の詭弁が!」
五郎は呆れたように鼻を鳴らした。
「酒を湯と言い張れば罪にならねぇってか? どこが知恵の源なんだよ。どう見たって、ただの酔っ払いじゃねぇか」
「まぁ、聞きなさい」
和尚は湯呑みをぐいっと煽った。
そして、また静かになった。
「世間じゃあね。
般若湯は『般若の智慧を得るための薬』なんて、もっともらしいことを言う。
だがね――」
和尚の目が細くなる。
「そんなのは建前さ」
「……」
「本当の般若湯ってのはな。
凝り固まった頭を、少しだけ柔らかくする湯なんだよ」
「頭を?」
「ああ。
現世ってのは、ルールだの常識だの、『こうしなきゃいけない』だの、『こうあるべき』だの――
そういう硬ぇ考えで、がんじがらめになってる。
人間ってのは、生きてるだけで、いつの間にか頭の中に壁を作っちまうんだ」
和尚は自分のこめかみを指で軽く叩いた。
「仕事ではこうしろ。
人にはこう思われろ。
男はこうあるべき。
親ならこうしろ。
坊主なら酒を飲むな――」
「最後のは当たり前だろ」
「まぁまぁ」
和尚は笑った。
「そうやって『こうあるべき』を積み重ねて、頭をガチガチにしていく。
だからな。
たまには、それを緩めてやる必要があるのさ」
五郎は、いつの間にか真面目な顔で和尚の話を聞いていた。
「我々は、生きている限り、この肉体という器から逃げられない。
目で見て、耳で聞いて、匂いを嗅いで、触れて――
五感という小さな窓からしか、世界を見ることができない」
和尚は湯呑みを指先でゆっくり回した。
「だがな。
ほんの少し酔えば、その窓の境目が曖昧になる。
普段なら『くだらねぇ』と切り捨てるものが面白く見えたり、
普段なら言えないことが言えたり、
普段なら許せないことを、まぁいいかと思えたりする。
そうやって、ほんの一瞬だけ――」
和尚は五郎を見つめた。
「自分で作った壁の外側を覗ける。」
「……」
「だから般若湯は、悟りそのものじゃない。
悟りへの道を、一瞬だけ垣間見るための方便なのさ」
「方便……」
「ああ。
いわば――」
和尚は一拍置いた。
「極楽浄土へのプレビューだ」
「……プレビュー?」
「ああ。
本編を見る前に、ちょいと試し見させてもらうのさ」
五郎はごくりと唾を呑んだ。
「……なるほど」
そして、危うく拝みそうになった。
「じゃあ……酒を飲むこと自体が、修行なのか?」
「そういうことだ」
和尚は深々とうなずいた。
そのときだった。
「和尚さーん!」
本堂の外から、若い小僧の声が響いた。
「なんだい?」
「庫裡の戸締まり、どうしますー?」
「まだいい!」
「でももう夜ですよー!」
「そうか!」
和尚は五郎を見た。
「五郎さん」
「なんだよ」
「修行が足りん」
「は?」
「般若湯が足りん」
「…………」
和尚は空になった湯呑みを覗き込んだ。
「プレビューの回線が切れちまった」
「おい」
「酒がねぇ」
「おい和尚」
「小僧!」
「はーい!」
「庫裡へ行って、熱燗をもう一升!」
「またですかぁ?」
「修行だ!」
「はいはい……」
小僧のため息が本堂の外へ消えていく。
五郎は額を押さえた。
「やっぱりただのアル中の言い訳じゃねぇか!!」
「何を言う。般若湯だぞ」
「誰が信じるか!」
「五郎さん」
和尚はニヤリと笑った。
「怒ると脳みそが硬くなるぞ」
「うるせぇ!」
「ほら、お前さんも一杯飲んで解放されなさい」
「その解放に俺の財布を使うな!!」
和尚は腹を抱えて笑った。
「ガハハハ!」
五郎も、とうとう堪えきれずに吹き出した。
死とは何なのか。
現世とは何なのか。
あの世とは、本当に存在するのか。
酒に酔った和尚の説法が真理なのか、ただの屁理屈なのか。
五郎には、結局わからなかった。
ただ――
さっきまで胸の奥に引っかかっていた「死」というものが、ほんの少しだけ遠くなった気がした。
和尚の言うことが正しいのかどうかなんて、どうでもいい。
少なくとも今夜は、こうして笑っている。
それだけで、案外悪くないのかもしれない。
やがて本堂の外から、小僧の声が聞こえてきた。
「和尚さーん! 熱燗、持ってきましたよー!」
「おお! 来たか!」
和尚が嬉しそうに立ち上がる。
その瞬間、五郎は思った。
――やっぱり、こいつは何も悟ってねぇ。
「和尚!」
「なんだい?」
「せめて自分の酒くらい、自分で買え!!」
「ガハハハ! あの世にゃ金は持っていけねぇんだ!」
和尚は湯呑みを掲げた。
「だったら現世にいるうちに、こっちへ回しとけって!」
「その理屈で俺の金を持っていくな!!」
本堂に、五郎の怒鳴り声と和尚の笑い声が響き渡った。
その笑い声が途切れたあと、五郎はふと、自分の手元を見た。
さっきまで握っていたコップには、酒の水滴がひとつ残っていた。
小さな水滴だった。
指で触れれば消えるほどの、頼りない形だった。
だが、その水滴は確かにそこにあり、五郎の指先を冷たく濡らしていた。
「……なぁ、和尚」
「ん?」
「俺が死んだらよ」
「おう」
「俺のことを覚えてる奴が、誰もいなくなったら……俺は、本当にいたことになるのか?」
和尚は、すぐには答えなかった。
いつものように笑ってごまかすことも、酒の話にすり替えることもしなかった。
ただ、五郎のコップに残った水滴を見つめていた。
「五郎さん」
「なんだよ」
「お前さんは、自分がここにいることを、誰かに証明してもらわなきゃならんのかい?」
「……わからねぇよ。けどよ、誰にも覚えられてねぇなら、最初からいなかったのと同じじゃねぇか」
「違う」
和尚は、今度は酔いのない声で言った。
「存在ってのは、証明書みてぇに、どこかへ提出するもんじゃねぇ」
「じゃあ、なんだよ」
「お前さんが誰かに触れた、その跡だ。
言葉をかけた。
飯を食わせた。
怒らせた。
笑わせた。
誰かの一日を、ほんの少しでも変えた。
その変化が、また別の誰かへ渡っていく。
それが続く限り、お前さんは消えちゃいない」
和尚は、五郎の胸を指で軽く叩いた。
「それに、お前さん自身が『俺はここにいる』と感じた、その瞬間を、誰かに証明してもらう必要はねぇ。
痛ぇと思ったろう。
腹が減ったろう。
親父さんを失って、寂しいと思ったろう。
今、俺の説法に腹を立てて、笑ったろう。
それだけで十分だ。
存在ってのは、他人の判子で成立するもんじゃねぇ。
お前さんが世界に触れて、世界がお前さんに触れ返した。
その往復そのものが、お前さんの存在証明だ」
五郎は黙っていた。
和尚は、少しだけ目を伏せた。
「ただな」
「ただ?」
「人間は、自分ひとりじゃ、自分がここにいることを信じきれねぇ時がある」
「……ああ」
「だから、誰かと笑う。
誰かに怒る。
誰かに名前を呼ばれる。
そうやって、互いに『お前はここにいる』と、知らねぇうちに証明し合ってるのさ」
和尚は五郎の名を、ゆっくり呼んだ。
「五郎」
「……なんだよ」
「今、俺がお前さんの名前を呼んだ。
お前さんはそれを聞いた。
俺の声が、お前さんの中で意味になった。
だったら少なくとも今この瞬間、お前さんは俺の世界にいる。
俺も、お前さんの世界にいる。
それで十分じゃねぇか」
五郎は、鼻の奥が少し熱くなるのを感じた。
「……和尚にしちゃ、まともなこと言うじゃねぇか」
「そうかい?」
「ああ。だから余計に気味が悪ぃ」
「照れるねぇ」
「褒めてねぇよ」
和尚は笑った。
五郎も笑った。
その笑い声は、誰かが記録しているわけでもない。
明日になれば、二人とも細かいところは忘れているかもしれない。
それでも、その夜の笑いは確かに本堂に響き、二人の胸を揺らした。
消えたわけではない。
形を変えて、二人の中に残った。
「……なぁ和尚」
「今度はなんだい?」
「俺が死んだあとも、俺がここにいたってことを、誰かが覚えててくれたら嬉しいもんだな」
「そりゃそうだ」
「でも、誰も覚えてなくても……俺が生きてる間に、誰かを笑わせられたなら、それでいいのかもしれねぇな」
「おう」
「だったら和尚」
「なんだい?」
「今夜の酒代は、俺が払ったってことを、死ぬまで覚えてろ」
「そこかい!」
和尚が大声で笑った。
「いや、死んでも覚えてるぞ!」
「本当か?」
「ああ。あの世へ行っても、五郎さんの財布のありがたみは忘れねぇ」
「俺の存在証明を、酒代で済ませるな!!」
和尚は湯呑みを掲げた。
「何を言う。酒代は記憶に残る」
「残る場所が俗すぎるんだよ!」
本堂に、五郎の怒鳴り声と和尚の笑い声が響き渡った。
死とは何なのか。
現世とは何なのか。
自分が本当に存在したと、どうすれば証明できるのか。
五郎には、結局わからなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
今夜、自分はここにいた。
和尚の声を聞き、酒を飲み、腹を立て、笑った。
そして和尚もまた、五郎の声を聞き、酒を飲み、笑った。
それだけで、二人の存在は、ほんの一瞬だけ互いの中に刻まれた。
水滴が海へ還るように。
笑い声が夜の闇へ溶けるように。
形は消えても、触れた跡までは消えない。
――もっとも。
「和尚!」
「なんだい?」
「熱燗、もう一升頼んだだろ!」
「般若湯だ」
「名前を変えても酒は酒だ!」
「五郎さん」
「今度はなんだよ!」
「お前さんがここにいた証拠を、もう一杯分、残そうじゃねぇか」
「俺の財布に残せ!!」
和尚の笑い声が響く。
五郎の怒鳴り声が重なる。
その夜、本堂に残ったのは、二人分の湯呑みと、空になった一升瓶と、誰にも見えない小さな笑いの跡だった。
それは、証明書にはならない。
墓碑にもならない。
けれど確かに、二人がそこにいたという、しょーもなくて、かけがえのない証拠だった。




