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賢者の遺産と、6人の見知らぬ相続者  作者: 水乃ろか


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最終話 夜明け



 東の空が、わずかに白み始めていた。

 塔の窓から差し込む光が、もう真夜中の藍色ではない。

 まだ暗いが、どこかに夜の終わりの気配がある。


 グレイ爺の幻像がそれに気づいたのか、ふと窓の方を向いた。


「もう時間がない」老人は言った。「最後に――一つ、話しておかなければならないことがある」


 全員が静まり返った。


「皆を集めたのは」グレイ爺は続けた。「フェリの術のことを伝えたかっただけではない」


「他に理由があるんですか?」薬師エナが言った。


「そうだ」老人は全員を見回した。「レイの研究は――実は一つ、課題が残っていた」


「課題?」元騎士マルクが眉を上げた。


「術は、命を引き留める。そこまでは完成した。しかし――引き留めた命は、その後どうなるか、という話だ」


「どうなる、って……? もしかして永遠に死なないとか?」貴族フィンが訊いた。


「いや、普通に生きていれば、普通に老いて死ぬ。術の影響は一時的なものだ。それ自体は問題ない。しかし――術に引き留められた命は、時々、繋がることがある」


「命が、繋がる……?」


「皆が揃ったとき、指輪が光っただろう?」グレイ爺は言った。「あれは術が認識したんだ。お前たちが――同じ術に引き留められた者たちだと」


 全員がお互いを見た。


「つまり俺たちは」吟遊詩人ルークがゆっくり言った。「同じ術で繋がっているということ?」


「そうだ。これはフェリも予期していなかった副作用だ。複数の命を引き留めると、その命たちの間に薄い繋がりが生まれる。術が解けるまでの間――その繋がりは残る」


「繋がり? それって、死にかけていない僕やカトさんにも影響があるってことなんですか?」少年イトが訊いた。


「ああ。ここで生まれたイトや、長い間この塔にいたカトにも影響がある」グレイ爺は正直に言った。「術の事をフェリも、わしも、完全には理解できていなかったのだ。ただ――感覚的に言えば、お前たちは今、少しだけ互いの命の重さを感じることができる。相手が遠くにいても、何か大きなことが起きたとき、気づくことができる。そういう繋がりだ」


「それが」元騎士マルクが言った。「俺たちを集めた理由だというのか?」


「そうだ。繋がりがあるなら、一度会わせたかった。術の上の縁とはいえ――それはそれで、本物の縁だ。わしはそう思っている」


 全員がしばらく黙った。


「……変な話ですねぇ」薬師エナがつぶやいた。


「そうだな」グレイ爺は言った。「変な話だ。しかし、わしの人生は大体こんなものだった」


「そうなんですね」吟遊詩人ルークが笑った。


「グレイ爺」元騎士マルクが言った。「一つだけ、訊かせてくれ」


「何だ」


「グレイ爺は――後悔しているのか?」


 老人の幻像が、元騎士マルクを見た。

 長い沈黙だった。


「……後悔、か」グレイ爺はゆっくりと言った。「イトに会いに行けなかったことは、後悔している。フェリに研究を完成させる時間をもっと作ってやれなかったことも、後悔している。カトに長い間、迷惑をかけたことも、後悔している」


「それ以外は?」


「それ以外は――」老人は少し黙った。「まあ、悪くなかった」


「それを聞けて、良かった」元騎士マルクは静かに言った。


 老人の幻像が、わずかに目を細めた。


「それは……わしの台詞だ」




 空が、少しずつ明るくなってきた。


「そろそろ時間だな」グレイ爺の幻像が言った。


 光が薄くなり始めていた。

 老人の輪郭が、少しぼやけてきた。


「最後に――一人ずつに、言いたいことがある。短くなるが、許してくれ」


 全員が黙って待った。


「ルーク」老人は詩人を見た。「お前の詩を、一篇でいいから書き残せ。あの詩集の棚に、お前が書いたものを並べたかった」


「そうします」吟遊詩人ルークは静かに言った。


「エナ」次に薬師を見た。「お前は人を助けるのが好きだろう。それを続けろ。ただ――自分のことも、少しは気にかけてやれ」


「……はい」薬師エナは少し目を赤くした。


「フィン」老人は貴族の青年を見た。「お前は賢い。しかしその賢さを、自分のためだけに使うな。使える場所は、他にもある」


 貴族フィンは少しの間、老人を見た。それから短く、「分かった」と言った。


「マルク」老人は元騎士を見た。「お前は今、農村で暮らしているんだろう?」


「ああ、そうだ」


「畑は育っているか?」


「……まあ、そこそこだな」


「良い」グレイ爺は言った。「それで良い。お前は十分、戦った。あとはゆっくりやれ」


 元騎士マルクは答えなかった。

 しかし老人の言葉が、どこか心地よかった。


「カト」老人は老婆を見た。「面倒をかけた」


「知ってる」老婆カトは、にこにこした。


「本当に、今までありがとう」


「どういたしまして」老婆は言った。「長い付き合いだったね、グレイ」


「そうだな……」老人の幻像が、初めて――本当にわずかだけ、笑った。「長かった」


「向こうでも、うるさくしないようにね」


「努力する」


 それから老人は少年イトを見た。


 少年は立っていた。

 背筋を伸ばして、しっかりとグレイ爺の幻像を見ていた。


「イト」


「はい」


「お前の母親は――本当に、いい人だった」グレイ爺は言った。「お前に伝えたかったのは、それだけだ。お前は立派な彼女の子だ。自信を持って、生きてくれ」


 少年イトは何も言わなかった。


 ただ、ゆっくりと頷いた。

 一粒だけ、涙が落ちていた。


 光が消えていった。

 老人の輪郭がぼやけて、薄くなって――やがて、静かに消えた。


 塔の一階に、朝の光が差し込んできた。

 六人は、しばらく誰も何も言わなかった。


 窓の外、東の空が橙色に染まっていた。

 辺境の荒野に朝が来て、遠くの山の稜線がくっきりと浮かび上がっている。


「……朝か」元騎士マルクが言った。


「朝ですね」薬師エナが言った。彼女の目が、少し赤い。


「じゃあ、帰りますか」吟遊詩人ルークが言った。


「そうですねぇ」薬師エナが答えた。

 それから急に「あっ!」と声を上げた。「でも朝ごはん、作ります! 帰る前に皆で食べましょうよ!」


「誰がそんなことを決めた」貴族フィンが言った。


「わたしが決めました」薬師エナはきっぱり言った。「だって、長い夜だったじゃないですか。食べてから帰らないと、もったいないです」


「お前の理屈は、よく分からんな」


「でも反対はしないですよね」


「……しない」


 薬師エナがにこりと笑い目を細めると、立ち上がって台所に向かった。

 吟遊詩人ルークが「手伝いますよ」と立ち上がった。

 貴族フィンが小さくため息をついて、なんとなく椅子に残った。

 老婆カトがお茶を入れ直した。


 元騎士マルクは、少年イトの隣に座った。


 少年は、窓の外を見ていた。


「……大丈夫か?」マルクは訊いた。


「はい」イトは言った。「なんか――すっきりしました」


「……そうか」


「お母さんのこと、何も知らないまま大人になるんだと思ってたから。それが――なんか、少し埋まった気がして」


「それは……良かったな」


「マルクさんは」イトが訊いた。「農村で暮らしてるんですか?」


「ああ、そうだ」


「一人でですか?」


「一人だ」


「……寂しくないんですか?」


 マルクは少し考えた。


「寂しくないとは言わない」元騎士マルクは正直に言った。「しかし、静かなのも悪くはない」


「そっか」イトは言った。「俺、孤児院を出たら――どこに行けばいいか、まだ分からないんですけど」


「焦ることはない」マルクは言った。「お前はまだ若い」


「もう十五です」


「若いさ」


「マルクさんは……若いころ、何になりたかったんですか?」


 元騎士マルクは少し考えた。


「……農夫になりたかった」


「え?」イトが目を丸くした。「騎士じゃなくて?」


「騎士になったのは、別の理由だ。なりたかったのは農夫だった」


「それって」イトがじわじわと笑い始めた。「つまり、今が一番、やりたいことをやってるって事ですか?」


「……まあ、そういうことになるな」


「良かったじゃないですか」


「……そうかもしれないな」マルクは静かに言った。





 朝食は、素朴なものだった。


 薬師エナが作ったスープと、昨日の残りのパン。

 それと老婆カトが出してきた、どこかの蜂蜜。

 

 貴族フィンが「こんな食事は久しぶりだ」と言い、エナが「文句ですか?」と言い、フィンが「文句ではない」と答えた。

 吟遊詩人ルークがそれを見て笑った。

 少年イトがパンを二枚食べた。

 元騎士マルクが黙ってスープを飲んだ。

 老婆カトがのんびりお茶を飲んだ。


 誰かが笑うと、誰かが笑った。


 長い夜の後の、短い朝食だった。




 塔の前で、六人が別れた。


 貴族フィンの馬車が先に出た。

 馬車の扉が閉まる前に、フィンが振り返った。


「……また、縁があれば」短く言った。


「ええ、縁があれば」吟遊詩人ルークが答えた。


 そして、フィンの馬車が走り出した。


 ルークは旅の道具を背負って、「俺はどこかの宿で、今日の事を歌いますよ。もし聴く機会があれば、その時は」と言い、軽やかに歩き出した。


 薬師エナは帰り支度をしながら、全員に向かって言った。


「また会いましょうね! 絶対!」


「そう上手くはいかないだろう」元騎士マルクが言った。


「縁があれば、って言ったじゃないですか。縁があるんだから、また会えますよ!」


「その理屈は……まあ、否定はしない」


 エナはにこにこして、「じゃあね! 絶対に会いに行くから!」と手を振りながら歩いていった。


 老婆カトが、塔の扉に鍵をかけた。


「カトさんは、どこへ行くんですか?」少年イトが訊いた。


「どこかへさね」老婆はあっさり言った。「まだやることが残ってるからね。グレイが心配してたことが、もう一つあってね」


「それは……何ですか?」


「それはまあ、済んだら話すよ」カトはイトの頭をぽんと叩いた。「元気でね、イト」


「……はい」


「あんたのお母さんは、本当にいい人だった。わたしも知ってたよ、フェリのことを。グレイ爺が言った通り、目が細くなるまで笑う人だったよ」


 少年イトは少し、目を細めた。


「……そっか」


「そっくりだよ」カトは、にこにこした。「じゃあね」


 老婆が歩いていく。

 背中が小さくなって、やがて荒野の向こうに消えた。




 残ったのは、元騎士マルクと少年イトだった。


 二人で、朝の荒野を眺めた。

 風が吹いて、枯れ草がざわりと揺れた。


「マルクさんは、どっちに帰るんですか?」イトが訊いた。


「北だ」マルクは言った。「お前は?」


「孤児院は、南の街です。……でも」


「……でも?」


「あんまり、帰る気にならなくて」イトはつぶやいた。「なんか、ここに来てから――もっと色々見たい気がしてきた」


「旅か」マルクは言った。


「旅、ですかね」イトは少し考えた。「でもお金もないし、どこに行けばいいかも分からないし――」


「北に来るか?」マルクは言った。


 イトが顔を上げた。


「しがない農村だがな」マルクは続けた。「豪華な暮らしではないが、仕事はある。畑の手伝いなら、飯と寝る場所くらいは出せる。嫌になったら、いつでも出ていっていい」


「……本当ですか?」


「本当だ」マルクは言った。「俺も……一人は、まあ、少し寂しいからな」


 イトは少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくりと笑った。


「じゃあ――行きます」


「よし」マルクは馬の手綱を持った。「歩けるか」


「歩けます」


「北は遠いぞ」


「大丈夫です」イトは言った。「歩くの、好きなので」



 二人が歩き出した。


 辺境の荒野に、朝の光が広がっていく。

 グレイの塔が、遠くなっていく。

 灰色の石造りの塔が、蔦に覆われた古い塔が、少しずつ小さくなっていく。


 マルクは一度だけ振り返った。

 塔はそこに立っていた。

 誰もいない、静かな塔。

 しかしなんとなく――悪い気がしなかった。


「マルクさん」イトが言った。「グレイ爺って、どんな人でしたか?」


 マルクは少し考えた。


「偏屈で、面倒くさくて、何を考えているか分からない」マルクは言った。「しかし――命を大切にしていた。他人の命を、自分のものみたいに大切にしていた」


「……いい人なんですね」


「いい人かどうかは、分からない」マルクは言った。「ただ、悪い人間ではなかった」


「それで十分じゃないですか」イトは言った。


「……そうかもしれないな」


 二人は歩きながら、喋り続けた。


 元騎士マルクは、ふと少年イトを見て思った。

 

 もしかしたら……こうなる事もグレイ爺やカト婆さんの、計画の内だったのだろうかと。


「イトよ」元騎士マルクは言った。「なんですか?」イトは答えた。


「昔の土地を捨てて新しい生活は、不安か?」


「いえ、全然。とても楽しみです」


「そうか」元騎士マルクは、短く返事をした。「それを聞けて、良かった」

 

 どこか遠くで、鳥が鳴いていた。

 朝の光の中、荒野の道を、元騎士と少年が北へ向かって歩いていった。


 

【 終 】




 ――――――


 

 

 グレイ・オールドマンは、魔法使い協会の記録に『辺境にて孤独に逝去』と記されている。

 享年は不明。遺産はなし。残したものもなし――と、記録には書いてある。


 しかし実際には、彼は幾つかの命と、一つの繋がりと、一晩の話を残した。


 それを遺産と呼ぶかどうかは、受け取った者たちが決めることだろう。



 ~ 完 ~



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