第4話 言葉
「では一人ずつ、話していこう」
グレイ爺の幻像は、そう言った。
「順番は問わない。ただ――お前たちがわしと出会ったとき、本当は何が起きていたか、わしは全て知っている。そのことを正直に言う。聞きたくない者は、耳を塞いでいてもいい。しかし、聞いた方がいいと思う」
全員が沈黙した。
どこかで風が鳴っている。
辺境の荒野を渡る夜風が、石造りの塔の壁を叩いている。
吟遊詩人ルークが、静かに立ち上がった。
「じゃあ、俺からいいですか?」詩人は穏やかに言った。「昨夜、俺の話をしましたよね。五年前に道に迷って、塔に来たって。三日置いてもらって、帰るときに『詩人に向いているから続けろ』と言われた――と」
「ああ、そうだな」グレイ爺の幻像が答えた。
「全部、本当のことですけど」吟遊詩人ルークは続けた。「しかし、一つだけ言わなかったことがあります」
全員が、ルークを見た。
「あの夜、道に迷って塔に来た――正確には、道に迷ったんじゃなくて、倒れていたんです。俺は」
「倒れて?」薬師エナが訊いた。
「ええ、崖から落ちたんです」吟遊詩人ルークはあっさり言った。「旅の途中で足を滑らせて。それなりの高さから」
「それは……」薬師エナが絶句した。「怪我は平気だったんですか?」
「それが――何もなかったんです」
詩人は自分の手を眺めた。長い指の、きれいな手だ。
「気がついたら、塔の前まで歩いてて。体のどこも痛くなくて、傷一つなくて。不思議に思いながら扉を叩いたら、グレイ爺が出てきた。そのときグレイ爺は俺を見て――こう言ったんです。『お前、怪我をしたのか』と」
「ああ、わしが言ったな」グレイ爺の幻像が静かに言った。「見て分かった。術の効果が発動したのだとな」
「術?」貴族フィンが眉を上げた。
「フェリの術だ」老人は続けた。「彼女の術――命を移す、という術は、実は少し違う。命を守る、という方が正確だ。死ぬはずだった命を、引き留める。その人間の命が尽きる寸前に、術が発動する」
「自動的に?」元騎士マルクが訊いた。
「ああ、そうだ。フェリの術を広い範囲に、見えない網のように張った。その網の中で命が尽きかけた人間を――術が引き留める」
その言葉を理解しようと、皆が沈黙する。
「ええっと、ということは……」薬師エナがゆっくりと言った。「ルークさんは……崖から落ちて、本来なら……」
「死んでいた」吟遊詩人ルークは静かに言った。「たぶん、そういうことだと思います。グレイ爺と三日一緒にいて、薄々そんな気はしていましたが」
「なぜ、今まで言わなかったんですか!?」薬師エナが言った。
「言っても信じてもらえないと思ったんで」ルークは苦笑した。「俺は崖から落ちて死んだんです、でも生き返ったんです、なんて言って信じて貰えるような気がしないので」
「今も半分信じられないですけど……」薬師エナは、正直に言った。
「ええ、そうだと思います」
元騎士マルクは腕を組んだ。
頭の中で何かが繋がっていく感覚があった。
「グレイ爺」元騎士マルクは幻像に向かって言った。「その術は、どの範囲まで張られているんだ?」
「灰岩山地一帯、この塔から半日の距離の範囲だ」
「それは……かなり広いな」貴族フィンが言った。
「フェリは丁寧な女だったからな」グレイ爺は言った。「やるなら広く、と言って笑っていた」
「ではルークが崖から落ちた場所は?」
「その範囲の内側だ。ルークが道に迷った経緯からして――おそらく術に引き寄せられたのだろう。死にかけた命を、術が塔の近くまで引き寄せた」
「引き寄せた?」ルークが少し驚いた顔をした。「俺、自分で道を選んでいたつもりでしたが」
「人間は自分で選んでいるつもりでも、何かに引かれていることがある」グレイ爺は静かに言った。「悪い意味じゃない。ただ、命というのはしぶといものでな――消えまいとする力がある、ということだ」
吟遊詩人ルークは少し黙った。
「……三日、塔に置いてもらったとき」詩人はゆっくり言った。「グレイ爺は、ほとんど話しかけてこなかった。食事を出してくれて、本棚の本を読んでいいと言ってくれて、それだけで。最終日に、詩人を続けろと言われて。なんで詩人に向いていると思ったのか、そのときは聞けなかったんですが」
「お前が塔にいる間」グレイ爺は答えた。「よく本を読んでいたな」
「はい。本がたくさんあったので」
「詩集を、一番長く読んでいた。それを見ていた」
「ああ……」ルークは苦笑した。「もしかして……理由って、それだけですか?」
「十分な理由だろう」老人は言った。「好きなものがあるなら、続ければいい。それだけだ」
吟遊詩人ルークはゆっくりと椅子に座り直した。
「それは……ありがとうございます」詩人は静かに言った。「今となっては生きていられて、良かったと……そう思っています」
「それを聞けて、良かった」グレイ爺の幻像がわずかに目を細めた。
「では、次は誰だ」老人は六人を見回した。
少しの間、誰も手を上げなかった。
元騎士マルクは木箱を見ていた。
六つの指輪。一つ一つが、それぞれの命に繋がっている。
薬師エナが、少し躊躇ってから手を挙げた。
「……わたし、次いいですか?」
「ああ」グレイ爺は言った。
薬師エナは、膝の上で手を組んだ。
「わたしがグレイ爺と会ったのは、四年前です。薬師見習いで、山の薬草を採りに行って――迷ったんですよ。山の中で」
「どこかで聞いた展開ですね」吟遊詩人ルークがつぶやいた。
「違います! ルークさんと違って、わたしは崖から落ちてないですから!」
「しかし、似た状況だ」グレイ爺の幻像は言った。「エナ、お前が山で迷ったとき――蜂に刺された」
薬師エナがぴくりと止まった。
「……はい」
「何箇所だったかな?」
「……十七箇所」薬師エナはぽつりと言った。
「蜂に十七箇所も?」貴族フィンが眉をひそめた。
「巣を踏んだんです」薬師エナは少しうつむいた。「知らなくて。地面の巣を。そしたら、わっと出てきて、逃げようとしたんですけど――わたし、蜂毒がひどくて。一箇所刺されただけでも倒れるくらい。それを十七箇所なんて……」
彼女はそこで、言葉を止めた。
「十七箇所も刺されてな」グレイ爺は静かに続けた。「お前はその場で倒れた。意識を失った。それから塔の前で目を覚ました。違うか?」
「……はい」薬師エナは小さく言った。「目が覚めたら、塔の前にいました。どうやってそこに着いたのか、全然分からなくて。グレイ爺が出てきて、お茶を飲ませてくれて。腫れも、少しマシになってて」
「それも、術が運んだんだな?」元騎士マルクは言った。
「そうだ」グレイ爺は言った。「術はお前の命が尽きかける寸前に発動し、塔の前まで引き留めた。残った蜂毒はフェリが作った解毒薬が塔の中にあったから、それで処置した」
「じゃあ――わたしも」薬師エナは顔を上げた。「死にかけてたんですかね。あの時に」
「ああ、そうだ」
薬師エナは少しの間、黙っていた。
「そっかぁ」彼女は静かに言った。「じゃあわたし、今ここにいれるのは……」
「フェリの術のおかげだ。それと――お前の身体が丈夫だったこともあり、解毒薬が効いた」
「えへへ。身体は丈夫だって言われるんですよ、よく」薬師エナは苦笑した。「はぁ……そういうことだったんだぁ」
「エナ、帰る時にグレイ爺に……」元騎士マルクが訊いた。「何か言われたのか? その、助言的なものを」
「えっと……」薬師エナは思い出すように目を上げた。「『薬師になれ。お前は向いている』って言われました」
「なぜ、向いていると思ったんだ?」貴族フィンがグレイ爺に訊いた。
「塔に一泊したときにな」老人は答えた。「夜中に起き出して、台所の薬草棚をずっと眺めていた。楽しそうな顔をしていたからな」
「……見てたんですか」薬師エナが少し赤い顔をした。
「塔は狭い。筒抜けだ」
「うっ」
吟遊詩人ルークが、くっくっと笑った。
「まあ……」薬師エナは気を取り直した。「わたしも、今は良かったと思ってます。薬師になって。困ってる人を助けられると思うと、やりがいがあるし」
「それを聞けて、良かった」グレイ爺はまた、同じ言葉を言った。
元騎士マルクは老人の幻像を見た。
この老人は――一人ずつに、同じことを言う。
それを聞けて、良かった、と。
それはおそらく、本当にそう思っているのだ。
救った命が、ちゃんと生きているかどうか。
ちゃんと、生きていて良かったと思えているかどうか。
それを確かめるために――この夜を用意した。
元騎士マルクはそう理解した。
「次は……」グレイ爺は言った。「マルク、お前だ」
元騎士マルクは腕を組んだまま、老人の幻像を見た。
「……俺から話すのは断る」
「なぜだ」
「恥ずかしいからだ」
薬師エナが「えっ」と声を上げた。
貴族フィンが珍しく口元を引きつらせた。
吟遊詩人ルークが静かに笑った。
「マルクさんって、恥ずかしいって感覚があるんですか!?」薬師エナが食いついた。
「ある」元騎士マルクは言った。「話したくない」
「聞きたいです!」
「断る」
「グレイ爺! グレイ爺から話してください!」薬師エナはそっちに矛先を変えた。
老人の幻像は少しの間、元騎士マルクを見ていた。
「マルクよ」グレイ爺は言った。「お前が若いころ、わしの塔に来たのは――自分の意志ではなかった。術に引き寄せられた。それは、分かっていたか?」
「……なんとなく、気づいてはいた」元騎士マルクは低く言った。
「マルクさんは、どうやって死にかけてたんですか?」薬師エナが訊いた。
元騎士マルクは長い沈黙の後、深いため息をついた。
「……騎士団の任務で、山賊を討伐に出向いた。作戦が上手くいかなくてな、俺だけ取り残された。俺は腹に剣を受けていた。それで逃げていたんだがな、途中で倒れた。気がついたら塔の前だった」
「腹に剣を……」薬師エナが青ざめた。
「深くはなかった。しかし出血が止まらなくて、夜の野原で倒れていたら――まあ、死んでいたんだろう」
「そのとき、グレイ爺は何をしてくれたんですか?」
元騎士マルクは少し間を置いた。
「傷を塞いでもらった。そして、三日寝かせてもらった。回復したら帰れと言われた」
「え……それだけ?」
「それだけだ」
「マルクさんは、グレイ爺から何か言われましたか?」
元騎士マルクはまた沈黙した。
「……お前は騎士を続けるのか、と訊かれた」
「何と答えたんですか?」
「……その時は、続けると言った」マルクはゆっくりと言った。「しかし今は、引退している」
「え、なんで辞めたんですか?」
「色々あったからだ」
「色々って?」
「色々だ」
薬師エナは「うー」と声を出した。
「マルクよ」グレイ爺の幻像が言った。「お前が騎士を辞めたのは、正しかったと思う」
元騎士マルクはすこし目を細めた。
「なぜ、そう思う」
「塔に来たとき、お前は眠りながら、よく唸っていた。夢を見ていたんだろう。楽しそうな夢ではなかったようだがな。あの仕事は、お前に向いていなかった」
「向いていたかどうかの問題じゃない」元騎士マルクは静かに言った。「やらなければならない事というのがある」
「そうかもしれない。しかしお前は今、農村で暮らしているんだろう」グレイ爺は言った。「それで、農村の暮らしはどうだ」
「……悪くはない」元騎士マルクは少し間を置いて、言った。
「それを聞けて、良かった」老人はまた言った。
元騎士マルクは何も言わなかった。
しかしその言葉が、思いの外――胸に沁みた。




