第2話 禁術の箱
深夜の塔に、六人が集まった。
元騎士マルクが全員を叩き起こすのに要した時間は、十五分ほどだった。
薬師エナは「え!? いったい何ですか!?」と目をぱちぱちさせながらすぐ起きた。
吟遊詩人ルークは「ほう……?」と言って起きた。
貴族フィンは「……何の騒ぎだ」と不機嫌そうに起きた。
老婆カトはもともと起きていたのか、部屋の前に立っていた。
少年イトは一番奥の部屋で毛布をかぶっていたが、声をかけると静かに起き上がった。
そして、六人が一階のテーブルを囲んだ。
中央に置かれた木箱を、全員が眺めた。
縦横ともに三十センチほどの小ぶりな箱だ。
素材は黒みがかった木材で、年季が入っているのか表面がすこし艶を帯びている。
蓋の隅に刻まれた光る文字は、蝋燭の光の下でもはっきりと見えた。
「禁術の封印文字だな」元騎士マルクは言った。「俺には読めないが、見たことがある」
「そんなものを、いったいどこで見たんだ?」と貴族フィンが訊いた。
「騎士をやっていたころだ。押収品にな。たまに、ついていたんだ」
「押収品?」薬師エナが首をかしげた。「ということは、危ないものに使う文字ってこと?」
「正確には――中に入っているものを、外に出してはいけないときに使うもののようだ」
それを聞いて、皆が沈黙する。
「つまり、だ」吟遊詩人ルークがゆっくり言った。「この箱を開けるな、ということですかね?」
「そういうことだろう」
「でもですよ?!」薬師エナが手を挙げた。「グレイ爺は『六人が揃ったら開けろ』って書き置きを残してるんですよね?」
「そうだな」
「矛盾してませんか?」
「している」
全員が、また沈黙した。
「開けるべきではないだろうな」貴族フィンが腕を組んで言った。「そんなものを開けたら危険だ。老人が死ぬ前に何を考えていたか知らないが、禁術の封印が施されているものを素人が開けるなど――」
「でも呼ばれたんですよ、わたしたち!」薬師エナが反論した。「ここまで来て、何もしないで帰るんですか!?」
「遺産がないと分かった時点で、帰れば良かったんだ」
「フィンさんは貴族だから気にしないかもしれないけど、わたしは三日かけて来てるんですよ!」
「そんなことは関係ない」
「大いに関係あります!」
元騎士マルクはこめかみを押さえた。
深夜に何をやっているんだ、俺たちは。
吟遊詩人ルークはというと、楽しそうに両者を眺めていた。
「まあまあ」詩人はにこにこしながら言った。「開けるにしても開けないにしても、もう少し考えてからでいいんじゃないですか。焦ることもないでしょうし」
「まぁ……確かに、そうですね!」薬師エナが言った。「じゃあみんなで考えましょう。グレイ爺がこれを残した理由が分かれば、開けるべきかどうかも分かると思うし」
「それは……一理ある」元騎士マルクも認めた。
貴族フィンは不満そうだったが、「好きにしろ」と椅子に腰を落とした。
全員の視線が――気づけば老婆カトに集まっていた。
老婆はさっきからずっと木箱を眺めている。
にこにこした顔のまま、じっと見ている。
「あの、カトさん?」薬師エナが声をかけた。「これって、何か分かりますか?」
「さあ」老婆カトはのんびりと答えた。「分からないねえ」
「この封印文字って、読めたりしますか?」
「読めないよ」
「カトさんって、グレイ爺と知り合いなんですか?」
「そうさねえ」
曖昧な答えだった。
「そうさねえ」というのが肯定なのか否定なのか、よく分からない。
元騎士マルクはじっと老婆カトを見た。老婆は相変わらず木箱を見ている。
その目が――妙に穏やかだ、と元騎士マルクは思った。
不安も、恐れも、好奇心もない。
まるでこうなることを、最初から知っていたかのような目だ。
「カトさん」元騎士マルクは低く言った。「あなたは……何者ですか?」
「わたしゃ、ただの婆さんだよ」
「それだけでは答えになっていない」
「そうかい?」老婆カトは、元騎士マルクを見た。
皺の深い顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「じゃあ、もう少し経ったら話すよ。今はまだ早い」
「早いとはどういう――」
その時。
老婆カトが、無言で木箱に手を伸ばした。
「ちょっ!?」薬師エナが声を上げた。「待って、カトさん!」
老婆の手が蓋に触れた。
その瞬間――封印文字が、淡く光る。
青白い光が、指先から走って文字全体を縁取った。
その光景に、全員が息をのんだ。
貴族フィンが、つい椅子から立ち上がった。
元騎士マルクは反射的に手が剣の柄に向かったが、腰に剣はない。
しかし。
光はすぐに消えた。
何も起きなかったのだ。
老婆カトは蓋から手を離し、「ふむ」とつぶやいた。
「な、なんだったんですか今の!?」薬師エナが、老婆カトの腕をつかんだ。
「反応を見たんだよ」老婆は静かに言った。「封印文字ってのはね、触れた人間を見るんだ。術者が設定した条件に合う人間なら光る。合わない人間なら――」
「……なら?」
「何も起きない」
「じゃあ光ったってことは、カトさんは条件に合う人間ってことか?」元騎士マルクが訊いた。
「そうだねえ」
「それは……どういう条件なんですか?」
老婆カトはまた、のんびりと笑った。
「それは、もう少し後でね」
結局その夜、木箱は開けられなかった。
貴族フィンが「開けるな」と主張し、薬師エナが「開けよう」と主張し、元騎士マルクが「もう少し考えてからでいい」と仲裁し、吟遊詩人ルークが「まあまあ」と場を和ませ、少年イトが黙って全員を見ていた。
老婆カトは途中で「眠いから」と言って、さっさと寝てしまった。
残った五人はしばらくテーブルを囲んでいたが、やがて一人、また一人と部屋に戻っていった。
最後に残ったのは元騎士マルクと、少年イトだった。
少年はずっと木箱を眺めている。
「……眠れないのか?」元騎士マルクは訊いた。
「眠れます」少年イトは言った。「でも、ちょっと気になって」
「いったい、何が気になるんだ?」
「この箱――グレイ爺の匂いがする気がして」
元騎士マルクは眉を上げた。
「グレイ爺に、会ったことがないんじゃないのか?」
「うん」イトは静かに答えた。「でも、なんかこう……知ってる匂いがするんです。古い本と、煙草と、あと――なんだろ、雨のにおい?」
元騎士マルクは少年を見た。
孤児院育ちで、親の顔も知らない少年。
グレイ爺とは会ったことがないと言う少年。
しかしその少年は今、老魔法使いの匂いを「知っている」と言った。
元騎士マルクの頭の中で、何かが引っかかった。
しかしそれが何なのか、まだうまく言葉にならない。
「もう寝なさい」元騎士マルクは短く言った。「明日、もう少し話し合おう」
「はい」少年イトは立ち上がった。「おやすみなさい、マルクさん」
少年が階段を上がっていく。
元騎士マルクは一人、木箱の前に残り封印文字をじっと見つめた。
グレイ爺。
お前は一体、何を考えていた。
なぜこの六人を集めた。
なぜこの箱を残した。
そして――なぜ、あの見知らぬ少年を呼んだ。
翌日、元騎士マルクが目を覚ますと、一階から声が聞こえた。
薬師エナと貴族フィンが、またいつものように言い合っている声。
吟遊詩人ルークの笑い声。老婆カトの、のんびりした相槌。
元騎士マルクは起き上がり、顔を洗い、一階に降りた。
テーブルには食事が並んでいた。薬師エナが作ったらしい。
素朴なスープとパンだが、温かくていい匂いがする。
「おはようございます!」薬師エナが振り返った。「マルクさん、もう起きて平気なんですか? 昨日遅くまで起きてたんでしょう?」
「人間、短時間でも寝れば動ける」
「それ、健康に良くないですよ」
「お前は俺の母親か」
薬師エナは「うっ」と言った。貴族フィンがくっくっと笑った。
珍しく、普通に笑っている。昨夜より、幾分柔らかかった。
そして、全員で食事をとった。
窓の外は曇っていた。灰色の空から、時折小雨がぱらついている。
辺境の荒野に建つ塔は、昼間でも少し薄暗い。
「さて」吟遊詩人ルークがパンをかじりながら言った。「昨夜の続きをしましょうか。グレイ爺と皆さんの縁、もう少し聞かせてもらえますか?」
「その前に」元騎士マルクは言った。「カトさん。昨夜言いかけたことを、聞かせてほしい」
老婆カトはスープをすすっていた。
ゆっくりとスプーンを置いて、全員を見回した。
「そうだねえ」老婆はゆっくりと言った。「じゃあ、少し話しましょうかね」
老婆カトの言葉に、全員が身を乗り出した。
「わたしはね」老婆カトは続けた。「グレイとは、五十年来の知り合いでね」
「五十年!」薬師エナが声を上げた。「ってことは――カトさん、おいくつ――」
「んふふ、女性に歳は聞かないのが礼儀だよ」老婆カトは、にこにこした。「まあ、それなりにね。グレイとは若いころから知り合いで、あの子が魔法使いになる前から知っていたよ」
「あの子……?」貴族フィンが眉を上げた。「あの老人を、あの子と?」
「わたしから見たら子供だよ」老婆カトは涼しい顔で言った。「で、グレイはね。晩年、あることをずっと心配していたんだ」
「心配? いったい、何を心配していたんです?」元騎士マルクが訊いた。
「自分の死んだあと――ある秘密が、消えてしまうことをね」
しん、とテーブルが静まり返った。
「秘密、ですか」吟遊詩人ルークが静かに繰り返した。
「そう……グレイはね、長い生涯でたった一つだけ、話せなかったことがあった。話さなかったんじゃなくて、話せなかった。理由は――」
老婆カトはそこで、また口をつぐんだ。
全員が「理由は?」と前のめりになった瞬間、老婆は立ち上がり、「続きは木箱を開けてからにしようかね」と言った。
「ちょっと!」薬師エナが叫んだ。「そこで切るんですか!?」
「だってこれは、開けて見ないと分からないことだからねぇ」老婆カトは、にこにこした。「で、どうするんだい。箱を開けるのかい? 開けないのかい?」
全員が、貴族フィンを見た。
フィンは腕を組んで、しばらく黙っていた。
それから重々しく「はぁ~……」と、ため息をついた。
「……わかったよ。開けよう。開ければいいんだろ!」
木箱はテーブルの中央に置かれた。
その木箱を、全員が囲んだ。
薬師エナは少し顔を引き攣らせている。
吟遊詩人ルークは穏やかだ。
貴族フィンは険しい顔をしている。
元騎士マルクは腕を組んだまま。
少年イトは一番後ろから、静かに見ている。
「では、開けるとするかね」老婆カトが、木箱の蓋に手をかけた。
その一挙手一投足に、全員が息をのんだ。
そして老婆がゆっくりと、蓋を持ち上げた。
封印文字が再び光る。
青白い光が全員の顔を照らして――
そして、消えた。
中にあったのは一枚の手紙と、六つの指輪だった。
指輪はどれも地味な銀製で、装飾もない。
手紙は茶色く変色していて、古いものだと分かる。
全員が、拍子抜けしたような顔をした。
「え……これだけ?」薬師エナが言った。
「これだけだねぇ」老婆カトが手紙を取り上げた。「ふむ。グレイからの手紙だね」
「その手紙、読んでもらえますか?」元騎士マルクが言った。
老婆カトはうなずいた。
老婆は手紙を広げ、少し目を細めてから、読み上げた。
――――――
『お前たちが来てくれたなら、わしはすでに死んでいるだろう。
言いたいことは山ほどあるが、まず一つだけ言う。
わしは長い間、人を一人、隠していた。
その人のことを、お前たちには知っていてほしい。
指輪は、俺が各自に渡す最後の贈り物だ。つけてみれば、分かる。
六つの指輪は一つの対になっている。
六人が全員そろったとき、お前たちはわしが隠していたものを見ることになる。
――グレイ・オールドマン』
――――――
沈黙が訪れる。
「……隠していた人?」薬師エナがつぶやいた。
「指輪をつけてみましょう。そうすれば分かるんでしょ?」吟遊詩人ルークが六つの指輪を一つずつ取り上げ、全員に配った。
元騎士マルクは自分の指輪を見た。
ごく普通の銀の指輪だ。何の変哲もない。
しかし、それぞれが指輪をはめた瞬間――
塔の中心に、光が生まれた。
床から天井に向かって伸びる、細い柱のような光。
青でも白でもない、淡い金色の光だ。
光の中に、影が浮かんだ。
人の形をした影が、少しずつ輪郭を持ちはじめた。
白い髪。しわだらけの顔。くたびれた外套。
それは――グレイ・オールドマンだった。
老魔法使いが、光の中に立っていた。




