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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第3章 『魔導王国と神話の遺産』

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「終わらせる者」

 


 補助宮の扉が見つかった時点で、盤面は静かに、しかし決定的に変わっていた。


 それまでは仮説だった。

 北方禁域に連なる副次施設があるかもしれない。

 認証子らしきものが流れているかもしれない。

 黒翼庭本体ではなく、その周辺へ触れられるかもしれない。


 だが今は違う。


 扉はあった。

 しかも、ただ眠っていたのではない。

 境界で監視者を認識し、第一封印を半覚醒させ、内部迷宮を“現在の挑戦者”に合わせて再構成し始めた。


 そこまで来れば、もう各国は“あるかないか”では動かない。

 “誰がどう先に触れるか”で動く。


 そして、その時に最も露骨に出るのが、本性だった。


 知は独占したがる。

 利は先に触れたがる。

 武は他国に先んじられるのを嫌う。

 信仰は、自分の知らぬ秩序が形を持つことを恐れる。


 今まではまだ、北方禁域そのものが大きすぎて、それぞれの欲望も建前も、同じ霧の中で少しずつ輪郭を曖昧にされていた。

 だが補助宮という“手が届くかもしれない王権の断片”が現れたことで、曖昧だったものが急に具体的な顔を持ち始める。


 何を得たいのか。

 どこまで踏み込むつもりなのか。

 誰を出し抜き、誰と手を組み、どこで裏切るのか。


 そういうものが、遺産の前ではひどく見えやすくなる。


 ---


 補助宮境界を挟んで、数日間の静かな綱引きが続いた。


 魔導王国使節は前進しない。

 だが退かない。


 仮営の位置は変えず、監視点だけを少しずつずらし、結晶板の角度と術式照準を微調整しながら、補助宮の“機嫌”を測り続ける。

 そのやり方は軍の睨み合いというより、巨大な生き物の呼吸を遠巻きに確かめる医師に近かった。

 刺激しすぎれば閉じる。

 だが触れなければ何も分からない。

 その細い均衡の上を、知の国らしく、理屈と監視で渡ろうとしている。


 帝国側の連絡組は周辺へ増えた。

 露骨な介入はまだない。

 それでも“こちらも見ている”という圧だけは強くなる。


 山腹の見張り位置が増え、旧巡礼路の分岐へ不自然なまでに人影が出るようになった。

 道そのものを塞ぐわけではない。

 だが、“その気になればいつでも押さえられる”と分かる位置へ兵を置く。

 帝国らしいやり方だった。

 声高に権利を主張せず、まず立てる場所へ立つ。

 それだけで盤面の広さを削っていく。


 商盟はさらに忙しくなった。

 人、荷、情報、認証子の噂、古い流通台帳、封印品の買い戻し。

 何も表立っては増えていないのに、裏では明らかに金の流れが太くなっていた。


 噂の値段が上がる。

 古物の保険料が跳ねる。

 名義の曖昧な運送契約が増える。

 たったそれだけで、商人たちはもう分かる。

 “市場が熱を持ち始めた”のだと。


 そして黒翼庭は、その全部を知った上で、まだ前線へ大軍を出してはいない。


 出す必要がないからだ。


 補助宮そのものが、もう選別を始めていたから。


 ---


 補助宮最奥へ至る道は、誰に対しても同じ顔をしていなかった。


 それは比喩ではない。


 昨日まで見えていた副通路が、今日は浅い霧の向こうへ消えている。

 帝国側が監視していた斜面では、半ば露出していた石段が雪と一緒に角度を変え、ただの崩落にしか見えなくなっている。

 商盟の裏荷路に近い谷筋では、逆に“そこだけ歩けそうに見える細道”が現れていた。

 だが、その先に何があるかまでは見せない。


 補助宮は、同じ場所を同じようには見せない。

 それどころか、来た者の意図に応じて“道の意味”そのものを変えているようですらあった。


 だからこそ、この段階まで来ると、ただ地図を追うだけの者から順に脱落していく。


 力の足りない者が落とされるのではない。

 **何をしに来たかが曖昧な者**から順に、道の意味を見失うのだ。


 地形そのものはそこにある。

 だが、その地形が“道として成立するかどうか”は、来た者の側にかかっている。

 王の施設らしい、傲慢で、しかしひどく整った選別だった。


 ---


 その朝、魔導王国の仮営では、珍しくはっきりした不協和音が生まれていた。


 原因は、王国本隊の外から合流してきた追加の一団だった。


 学術使節ではない。

 正確には、“学術使節に付随する危険研究監理班”という名目で送り込まれた小部隊である。


 名目だけ聞けば穏当だ。

 未知の遺産に対し、暴走や禁忌反応への備えを厚くする。

 どこの国でもありそうな理由に見える。


 だが実態は違う。


 補助宮が本当に神話級遺産であり、しかも主認証を必要とするなら、最悪の場合、強制的に中枢反応だけでも引き出せる手段を用意しておくべきだ――そう主張する者たちだった。


 オルフェンは、その代表格の男を見た瞬間に嫌な予感を覚えた。


 名はラウス・ヘルミード。

 魔導王国内でも古代兵装理論の危険運用で知られる研究官だ。

 年は三十代後半。

 黒髪を短く整え、外見だけなら清潔で落ち着いている。

 だが目が違う。

 未知のものを前にした時、“理解したい”より先に“使えるか確かめたい”が来る目だ。


 そういう人間は、補助宮と相性が悪い。


「筆頭賢者殿」


 ラウスは到着早々、礼を取った。

 礼儀はある。

 だが敬意が薄い。


「追加監理班として合流いたしました」


「聞いている」


 オルフェンは短く返した。


「ただし、主導権は引き続きこちらにある」


「もちろんです」


 そう言う時の“もちろん”ほど信用ならないものはない。


 リセリアも同じことを思ったらしく、横でわずかに眉を寄せていた。

 ザイードなどは露骨に嫌そうな顔をしている。

 護衛責任者も、学術畑のいざこざには口を挟まないまでも、雰囲気の悪さは読み取っていた。


「現況は承知しております」


 ラウスは続けた。


「補助宮は存在し、第一封印は半覚醒、内部迷宮は再構成中。主認証なしには最奥へ至れない可能性が高い」


「なら、なおさら慎重に」


 オルフェンが言いかけるより先に、ラウスが薄く笑った。


「慎重に、は結構です。ですが、慎重と停滞を混同するつもりはありません」


 その一言で、空気が少しだけ冷えた。


 リセリアは内心で舌打ちしたくなる。


 この手の人間は、自分が“進もうとしている側”だと思い込んでいる。

 だから、止める言葉を全部“古い慎重さ”と見なす。

 実際には、止められているからこそ助かっている場合が多いのに。


「補助宮が主認証を要求するなら」


 ラウスが地図へ目を落とす。


「逆に言えば、そこへ“主認証に近い波形”をぶつければ、一時的な誤作動は引き出せるかもしれない」


「やめろ」


 オルフェンが即座に切った。


「まだ話している途中です」


「だからやめろと言っている」


 珍しく、言葉が少し強い。


 ラウスはその声音にほんの少しだけ口を噤んだが、すぐに言う。


「私は、可能性の話をしているだけです」


「可能性の話が一番危険だ」


 オルフェンは前へ一歩出た。


「補助宮は単なる封印箱ではない。監視し、選別し、再構成する。そこへ半端な擬似認証を当てれば、開くのではなく壊れる」


 リセリアがそのまま引き取る。


「正確には、“閉じすぎる”」


 ラウスの目が、わずかに細くなった。


「黒翼庭の冥匠と同じことを仰る」


「敵が正しい時は、正しいと認めるべきです」


 リセリアは冷たく言う。


「少なくとも、この件に関しては」


 ラウスはそれ以上は言い返さなかった。

 だが引いてもいない。

 そういう沈黙だった。


 オルフェンははっきりと理解する。

 この男は、近いうちに何かをやる。


 ---


 一方、商盟側でも別の火種が生まれていた。


 カイルが把握していなかったわけではない。

 ただ、押さえ込み切れなかった。


 補助宮の存在がほぼ確定したことで、商盟本国の一部過激派が動き始めたのだ。

 彼らにとって重要なのは、黒翼庭が危険かどうかではない。

 補助宮が“主認証がなければ開かない遺産”だと判明したことの方だった。


 つまり逆に言えば、主認証を迂回する方法を見つけた者が、市場そのものを支配できる。


 そう考える人種が商盟にはいる。


 名を出すほどの大物ではない。

 だが、小さく、鋭く、十分に迷惑な者たちだ。

 大国の王や将ではなく、こういう“小さくて利口で欲深い手”が、盤面を一番壊しやすいことをカイルはよく知っていた。


 その一人が、夜の荷営帳でカイルへ言った。


「補助宮の中枢へ一歩でも入れれば、それだけで値段が変わる」


「変わるでしょうね」


「なら、王国の学者連中が慎重ぶっている間に、こちらで先に“中へ通るための条件”を試すべきだ」


 カイルは笑わなかった。


「やめておいた方がいい」


「珍しいな。お前が弱気とは」


「弱気じゃない。採算の話だ」


 淡々と返す。


「補助宮は今、“主にだけ開く扉”として値が付いている。ここで商盟の誰かが雑に触って閉じれば、その値段ごと死ぬ」


 男は鼻で笑う。


「閉じる前に開けばいい」


「そういうことを言う連中が、一番先に沈むんだ」


 半分は本気、半分は脅しだった。


 だがこの手の男たちは、自分だけは沈まないと思っている。

 だから面倒なのだ。


 カイルは内心で舌打ちした。

 王国には危険研究派。

 商盟には短期利得派。

 帝国と連邦がまだ遠巻きに見ているうちから、すでに“余計なことをする小さい連中”が揃い始めている。


 こうなると、盤面は一気に壊れやすくなる。


 ---


 そして、その嫌な予感は外れなかった。


 補助宮境界の再構成がさらに一段進んだ日の夕刻。


 谷の空気が、明らかに変わった。


 魔導王国の監視点では、昨日まで閉じていた副路の一つが薄く現れ始めた。

 商盟側の斜面では、雪の下の石段がより明瞭になった。

 帝国側の監視線にも、ごく短時間だけ“門の縁の開き”が見えたと報告が上がる。


 扉が、誘っている。


 いや、誘っているように見えている。


 それが一番危ない。


 オルフェンはそれを見た瞬間に、全監視点へ一つだけ命じた。


「今日は誰も踏み込むな」


 だが、その命令が届くより早く動いた者たちがいた。


 ラウスだった。

 そして商盟過激派の一人でもあった。


 別々に動いたのではない。

 最悪なことに、利害が一致してしまったのだ。


 ラウスは王国の補助監視具を無断で持ち出し、商盟側の男は回収済みの認証子断片を一本だけ横流しした。

 目的は単純。


 **最奥まで行けなくてもいい。境界第二層の反応だけでも引き出せれば勝ち。**


 そういう短い勝利を欲しがった。


 長い全体を壊してでも、今この瞬間の先行を取りたい。

 盤面が大きくなると、必ずこういう手が出る。

 だから同盟と裏切りは、同じ席へ着くのだ。


 ---


 リセリアがそれに気づいたのは、監視点の波形が不自然に歪んだ時だった。


 補助宮の門前に、本来あるはずのない“擬似主認証”に近い揺らぎが一瞬だけ走ったのだ。


「何これ」


 反射的に立ち上がる。


 オルフェンも同時に顔を上げる。

 ザイードは地図より先に波形へ飛びついた。


「擬似照合だ!」


 その声で十分だった。


「誰が」


 リセリアが問う前に、カイルがもう顔色を変えていた。


「最悪だ」


「何が起きている」


 オルフェンが低く言う。


 カイルは舌打ち混じりに答える。


「こっちの短期利得派と、そっちの危険研究屋が手を組んだ」


 聞きたくない答えだった。


「位置は」


「商盟裏荷路の外れ、門前右斜面」


 もう走っていた。


 オルフェン、リセリア、護衛、カイル。

 ザイードは一瞬遅れて資料箱を掴み、それから追う。


 空は暗くなり始めている。

 谷の風は冷たい。

 雪を踏む音だけがやけに大きい。


 そして現場に着いた瞬間、全員が理解した。


 **やりやがった。**


 門前右斜面。

 そこに、認証子断片と監視増幅具を無理やり組み合わせた簡易擬似認証架が立っていた。

 ラウスと商盟側の男が、その前で何かを維持しようとしている。


 粗い。

 だが、粗いからこそ一瞬だけ通るかもしれない。

 本来の鍵ではなく、扉の認証線へ“それらしく似た波形”を押し込んで反応を騙し取る、最悪のやり方だった。


「止めろ!」


 オルフェンの声が飛ぶ。


 だが遅い。


 擬似照合はすでに門へ触れてしまっていた。


 門の縁に走る文字列が、一度だけ強く光る。

 その瞬間、谷全体の空気が深く落ちた。


 冷たくなるのではない。

 **意味が重くなる。**


 リセリアはそれを言葉にできなかった。

 ただ、今この場で“踏んではいけない線”が一気に可視化されたことだけは分かる。


 ラウスが叫ぶ。


「反応したぞ!」


 商盟の男も、ほとんど歓喜に近い顔をしていた。


「開く!もう一段――」


 次の瞬間、その擬似認証架が音もなく崩れた。


 爆発しない。

 砕けもしない。

 ただ、“最初からその形ではなかった”かのように、部材同士の意味だけが失われてばらばらに落ちる。


 そして門の縁の光が、今度は逆向きに走った。


「下がれ!」


 オルフェンが叫ぶ。


 だが、門の向こうから来たのは炎でも雷でもなかった。


 静かな黒だった。


 門の奥の空間がひときわ深く沈み、その中心に人影が現れる。

 黒い王装。

 細い黒金の冠。

 背に揺れる羽根めいた外套。


 その姿を見た瞬間、ラウスの顔から血の気が引いた。

 商盟側の男も、ようやく“値段の高いものへ触れた”のではなく、“主の前で盗みを働いた”のだと理解した顔になる。


 クロウはゆっくりと門前へ歩み出た。


 怒鳴らない。

 威圧もしない。

 ただそこに立つだけで、この場の意味が決まってしまう。


 リセリアは息を止めた。


 連邦が見た王。

 自分たちが“主認証を持つ者”として想定していた存在。

 それが今、最悪の形で現れている。


「…やめろと言った」


 クロウの声は低くも高くもない。

 だが、静けさそのものが裁定へ変わったような声だった。


 ラウスが一歩引く。

 商盟側の男は後ずさる。


「これは研究の一環で――」


 ラウスが言いかけた、その時。


「違う」


 クロウが切る。


「使おうとしただろう」


 その一言が、全てだった。


 研究ではない。

 監視でもない。

 理解でもない。


 主認証を迂回し、補助宮を“使えるか試した”。

 その本質を、王が一言で剥がした。


 リセリアの背筋が冷える。

 オルフェンもまた、目を細める。


 あまりにも正確だ。

 だからこそ反論しにくい。


「貴方は」


 ラウスが震える声で言う。


「我らを排除するのですか」


 クロウの答えは短かった。


「違う」


 そして続ける。


「ここで終わらせる」


 その瞬間、空気が変わった。


 今までのような“越えた行為を戻す”だけではない。

 もっと深い、だが破壊ではない力が場へ落ちる。


 門の周囲に立っていた補助宮の境界構造が、一斉に明滅した。

 擬似認証架の残骸。

 認証子断片。

 監視増幅具。

 それらすべてに刻まれた“無理に開こうとした意味”だけが、黒い羽の一閃とともに静かに切られる。


 爆散しない。

 燃えない。

 ただ、“これ以上先へ続かないもの”になる。


 認証子断片は残る。

 監視具も残る。

 だが、いましがた扉をこじるために組まれていた意図と連結だけが死ぬ。


 同時に、門の向こうで暴れかけていた内部迷宮の再構成が、すっと静まった。


 止めたのだ。


 壊してではない。

 暴走しかけた“先”を終わらせることで。


 オルフェンが、その意味を最初に理解した。


 この王は、相手を殲滅したのではない。

 補助宮が“もっと先へ壊れながら開く”可能性だけを断ち切ったのだ。


 リセリアも同時にそれを悟る。


 終わらせる王。

 記録が言っていた意味は、これか。


 クロウはラウスと商盟側の男を見ている。

 だがその視線には、殺意の熱がない。

 冷酷ではある。

 けれど、必要以上に潰そうとはしていない。


「ここから先は」


 静かな声が落ちる。


「お前たちでは決められない」


 ラウスの膝が崩れる。


 死んではいない。

 だが立てない。

 体ではなく、自分が“決められる側の人間ではなかった”と叩きつけられたことで、芯だけが折れたような顔だった。


 商盟側の男はその場へへたり込み、顔色を失っている。

 値段の高い品に触れたつもりが、王権そのものへ無断で手をかけたのだとようやく理解したのだ。


 オルフェンはそこで一歩前へ出た。


「…筆頭賢者オルフェンです」


 改めて名乗る。

 この局面で、それが必要だと思ったからだ。


 クロウの視線が向く。


「彼らの独断を、こちらの総意とするつもりはありません」


 リセリアもすぐに続く。


「私も同じです」


 短く、だが明確に。


 クロウは二人を数秒だけ見た。


 その沈黙は長かった。

 見定めている。

 越えた者と、まだ越えていない者を。


「分かっている」


 やがて、その一言が返る。


 それだけで十分だった。


 商盟側の男とラウスは、明確に切り分けられた。

 魔導王国そのものでも、監視者全体でもなく、越えた個人として。


 だからこそ、オルフェンはこの王を“ただの災厄”と呼べなくなる。


 理がある。

 裁定がある。

 しかもその裁定は、壊すためではなく、壊れかけたものをそこで終わらせるために下されている。


 怖い。

 だが、ただ怖いだけでは済まない。


 ---


 その場にいた全員が静まり返る中、クロウは門の方へ一度だけ視線を向けた。


 補助宮はもう落ち着いている。

 暴走しかけた再構成は止まり、境界の光も浅く戻った。


 そしてその瞬間、クロウの中で何かがひどく自然に噛み合った。


 考えてやったわけではない。

 見栄でもない。

 勘違いでもない。


 **これは終わらせるべきだ。**


 その言葉が、今までで一番自然に胸へ落ちていた。


 だから、口から出る。


「これは、終わらせるべきだった」


 小さく。

 だが、はっきりと。


 その一言に、補助宮の門縁がわずかに明滅した。


 呼応だ。

 施設そのものが、その裁定を正しいものとして受け取った。


 リセリアが息を呑む。

 ザイードはほとんど呆然としている。

 オルフェンだけが、目を閉じるようにして一度だけ深く呼吸した。


 記録が現実と一致した。


 終王は壊す王ではない。

 終わらせるべきものを終わらせる王だ。


 それを、いま目の前で見せられたのだ。


「…筆頭賢者殿」


 リセリアが低く呼ぶ。


「分かっています」


 オルフェンも低く答える。


 分かっている。

 この瞬間、魔導王国の中で北方禁域はもう“危険な神話遺産”では済まなくなった。


 王がいる。

 しかも、その王の権能が神話の比喩ではなく現実の裁定として働いている。


 これは研究対象であると同時に、世界秩序そのものへ関わる案件だ。


 クロウはそれ以上何も言わなかった。


 ラウスと商盟側の男にはもう十分だ。

 補助宮にもこれ以上の刺激は不要だ。

 ここで刃を重ねる必要はない。


「下がれ」


 ただ一言。


 その声に、門前の全員が従うほかなかった。


 ---


 その夜、魔導王国の仮営は完全に静まり返っていた。


 ラウスは拘束こそされていないが、護衛と記録官の目の届く場所から外へ出されていない。

 商盟側の男はカイルの手で本国送りが決まり、少なくともこの盤面からは外される。

 ザイードは記録を書こうとして何度も手を止めていた。

 リセリアは天幕の中で、一枚の紙へ同じ文を何度も書いていた。


 **終わらせる。**

 **壊すのではなく。**


 その差は大きい。

 だが、その大きさを今の言語だけでどこまで伝えられるのかが難しかった。


 オルフェンはもっと静かだった。

 机の前で、報告の文面を整えている。


 危険である。

 極めて。

 だが、単純な災厄とも、単純な神敵とも断じがたい。


 王がいる。

 その王は裁定を下す。

 そして裁定は、過剰な継続を断ち切る形で現れる。


 そこまで書いたところで、ペンが止まる。


「…どう書いても足りぬな」


 小さく呟く。


 そうなのだ。

 見たものは事実として書ける。

 だが、その事実が意味するところは、まだ一段深い。


 北方禁域の王は、ただの敵ではない。

 味方でもない。

 もっと世界そのものの歪みに近い場所で立っている。


 それを、ようやく魔導王国は理解し始めた。


 ---


 黒翼庭へ戻ったクロウもまた、同じ夜に少し違う意味で静かだった。


 玉座の間へ入る前、また一度だけ立ち止まる。


 自分は今、壊したのではなかった。

 止めた。

 終わらせた。


 しかもそれが、驚くほど自然だった。


「陛下」


 ヴェルミリアが背後から呼ぶ。


「…ああ」


「ご気分は」


「悪くない」


 今度は迷わず言えた。


 悪くない。

 むしろ、妙にしっくり来ている。


「補助宮も同様でしょう」


 ヴェルミリアの声が静かに続く。


「先ほどの裁定に、施設全体が呼応しておりました」


 やはりそうか。


 自分でも感じていた。

 あの瞬間、門の向こう側まで含めて“これでいい”と静まった気配があった。


 バルザードが後ろで、かなり抑えた声で言う。


「記録の文言と、実際の裁定が一致しました」


 その言い方は少し気恥ずかしい。

 だが事実でもある。


「終わらせる王」


 セラフィナが、祈りのようにその語を口にした。


 クロウは小さく息を吐く。


 配下にそう言われるのは、まだ少し重い。

 だが今は、完全には否定しづらい。


「…結果がそう見えるなら、それでいい」


 それが精一杯の返しだった。


 だがヴェルミリアは深く頭を垂れる。


「はい」


 それだけでもう十分だったのだろう。



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