「真実を守る側」
真実は、知っただけでは価値にならない。
いや、正確に言えば価値にはなる。
ただし、その価値がいつも良い形で使われるとは限らない。
むしろ大きすぎる真実ほど、人はそれを理解しようとする前に、力へ変えたがる。
どう使えるか。
どこへ差し込めるか。
誰より早く握れば何を動かせるか。
そう考え始めた瞬間、真実はもうただの事実ではなくなる。
武器になる。
取引材料になる。
時には国そのものの立ち位置を変える刃にすらなる。
魔導王国エルグレイスにとって、その誘惑は他国よりずっと近い。
知ることは力だ。
記録は武器になる。
理解は支配の入口にもなる。
それを誰よりよく知っている国だからこそ、七柱の真実が持つ危うさもまた、誰より早く見えていた。
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中央記録院の最奥は、今日も封鎖されたままだった。
応答記録。
白王視認。
終王・静王対話。
七柱構造断片。
重い札が並ぶ封鎖区域の前を、リセリアはもう何度目か分からないくらい往復していた。
もちろん、暇だからではない。
落ち着かないからだ。
記録院は静かだった。
いつも通り、紙の擦れる音と、遠くで結晶板が切り替わる微かな振動しか聞こえない。
それなのに今日は、その静けさそのものがひどく落ち着かなかった。
王国の中枢にある静けさは、本来なら心を整えるためのものだ。
思考を乱さず、記録を濁らせず、結論を急がせないための静けさ。
だが今のリセリアにとって、それはむしろ逆だった。
静かだからこそ、頭の中で考えが止まらない。
考えが止まらないから、余計に落ち着かない。
(知ってる)
(分かってる)
(いま広げたら駄目だ)
(駄目なのは、本当に分かってる)
(でも、こんな真実を閉じ込めるのも、それはそれでひどくない?)
(ひどいけど、正しいんだろうな)
(…嫌な二択だな)
学者としては、最悪に近い状況だった。
見た。
触れた。
構造まで少し返ってきた。
それなのに、いま最も正しい行動が**広げないこと**になる。
それは王国の人間にとって、かなり苦い。
知ったなら記すべきだ。
記したなら整理すべきだ。
整理したなら、必要な者へ渡すべきだ。
少なくとも、今までのリセリアはそう信じてきた。
知識は閉じるためではなく、届かせるためにあると。
真実は封じるより、正しく広げる方が誠実だと。
けれど、今回ばかりはその信念そのものが揺れていた。
「落ち着きませんね」
後ろから声がして、リセリアは振り返った。
オルフェンだった。
いつの間にそこにいたのか分からないくらい、静かな足取りだ。
この人はいつもそうだ。
気づいた時にはすでにそこにいて、しかも大抵、こちらの考えが少し進んだところに立っている。
「ええ」
リセリアは素直に認めた。
「だって、あまりにも大きいじゃないですか」
「はい」
「七柱は災厄じゃなかったかもしれない。終王も白き王も、世界を壊すための王じゃない。むしろ逆だった」
「ええ」
「それを知ったのに、黙るんですよね、私たち」
その問いに、オルフェンはすぐには答えなかった。
彼もまた、まったく同じ葛藤を抱えているのだろう。
ただ、リセリアより顔に出にくいだけで。
「黙る、というと少し違います」
やがて彼は静かに言った。
「では何ですか」
「渡し方を選ぶのです」
リセリアは少しだけ息を止めた。
黙るのではない。
渡し方を選ぶ。
たしかに、その方が王国らしい言い方だった。
知を殺すのではない。
知を雑に流さない。
知識の価値を信じているからこそ、どの手へ渡るべきかを選ぶ。
それは臆病とも違う。
むしろ逆だ。
知識が持つ力を理解している者にしかできない慎重さだ。
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同じ頃、王宮中枢では小規模な合議が開かれていた。
筆頭賢者オルフェン。
宮廷魔導師リセリア。
封印学教授ザイード。
それに王国の政務官が二名。
議題は一つ。
七柱の真実を、どこまで、誰へ、どう扱うか。
王国は王国だ。
だからこそ、真実の扱いを間違えた時の被害も具体的に想像できる。
単に「危ないから伏せる」ではない。
誰がどう誤読し、どの派閥がどの理屈で利用し、どの程度の時間で王国内外へ広がり、何が壊れるかまで想像できてしまう。
その想像力こそが、この国の強さであり、苦しさでもあった。
「まず確認を」
政務官の一人が言う。
「現在、事実としてどこまで確定しているのですか」
オルフェンが答えた。
「白き王は実在し、終王と対話を交わした」
「七柱の構造は、従来の災厄説では説明しきれない」
「少なくとも終王と白王については、それぞれ世界の歪みを引き受ける王権と見た方が自然です」
「つまり」
政務官が慎重に言葉を選ぶ。
「“災厄王”という歴史認識は、重大な修正を要する」
「はい」
そこまでは、もう揺らがない。
では、その次だ。
「公開は」
もう一人の政務官が問う。
リセリアは思わず口を開きかけた。
全部、と言いたかったわけではない。
だが、せめて王国内の知識層には、と言いそうになった。
その前に、ザイードが低く言った。
「時期尚早ですな」
老人の声は乾いているが、判断は迷っていない。
「理由を」
「利用されるからです」
一切の遠回しがなかった。
「急進派は必ず“七柱の真実”を神話学として受け取らぬ」
「力学として受け取る」
「どう接続し、どう模倣し、どう奪えるかを考え始める」
それは、王国の悪癖でもあった。
知れば扱いたくなる。
扱えそうなら試したくなる。
試せば先へ進めると思ってしまう。
だからこそ、この国は強い。
だが同時に、その癖がいまは最も危ない。
「では記録院としては」
政務官が問う。
オルフェンは静かに答えた。
「第一種封鎖を継続します」
「閲覧は最少数。複写禁止。口頭共有も制限」
「対外的には“北方案件・王権構造再整理中”までに留めます」
かなり厳しい。
だが、必要だろう。
「王国らしくありませんな」
政務官が言うと、ザイードが小さく鼻で笑った。
「逆です」
「こういう時にこそ、王国らしさが出る」
「知っていても、渡さぬ方が正しいことを知っているのです」
リセリアはそのやり取りを聞きながら、胸の中で少しだけ整理がついていくのを感じていた。
公開しない。
それは後ろ向きに見える。
だが本質は逆だ。
いま王国がやっているのは、真実を閉じることではない。
真実が雑に武器へ変わるのを防ぐことだ。
知りたい国だからこそ、ここで守る側に回らなければならない。
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会議のあと、リセリアは記録院の窓辺に立っていた。
曇った空の向こうに、白霜外界そのものは見えない。
だが、あそこへ立った日々の感覚はまだ身体に残っている。
白。
座。
ルシエル。
そして七柱の真実。
「納得がいきませんか」
隣に来たオルフェンが問う。
「半分くらいは」
リセリアは正直に答えた。
「半分は、まだ“もっと見せるべきでは”と思っています」
「ええ」
「だって、本当なんです」
「はい」
「歴史が間違っていたなら、正すべきでしょう?」
その問いに、オルフェンはすぐには答えなかった。
答えは単純ではない。
単純でないからこそ、いま王国は揺れているのだ。
「正すべきです」
やがて、彼は言った。
「ただし、“今この瞬間に、全部を、誰にでも”ではありません」
「…それが嫌なんです」
「分かります」
「本当なのに、順番を選ぶのが」
「ですが」
オルフェンは少しだけ視線を細めた。
「真実そのものは、人を選びません」
「だからこそ、人の方が渡し方を選ばねばならない」
その言葉は、学者としては苦い。
だが王国の知としては、きっと正しい。
リセリアは窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「私たち、前は“記録された神話”を読んでいたんですよね」
「ええ」
「でも今は、“現在の真実”を持ってしまった」
「はい」
「…重いですね」
「とても」
短い答えだった。
けれど、その一言にいまの王国の全部が入っていた。
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午後、記録院の内部で小さな騒ぎが起きた。
といっても大声が上がったわけではない。
王国の騒ぎはだいたいもっと静かだ。
封鎖区画の近くで、急進研究派の若手魔導師が記録借覧の仮申請を出してきたのだ。
表向きは“北方位相変動に関する比較研究”。
だが、タイミングが良すぎる。
リセリアがその申請板を見た時、思わず顔が引きつった。
「早い…」
「ええ」
オルフェンも冷静なまま、少しだけ声が硬い。
「嗅ぎつけています」
中身はまだ知らないだろう。
だが何か大きなものが封鎖されたこと、それが北方案件と関係していること、そのくらいはもう読まれている。
「どうします」
「却下です」
即答だった。
「理由は」
「第一種封鎖案件につき、です」
「それだけで?」
「十分です」
実務的には、その通りだ。
だがリセリアは、そこで少しだけ別の不安も覚えた。
「筆頭賢者」
「何です」
「これ、却下すればするほど、逆に中で何かあるって分かりませんか」
オルフェンはほんの少しだけ沈黙した。
その沈黙が、質問の鋭さを認めた証拠でもある。
「ええ」
「分かります」
「なら」
「それでも却下します」
強い返答だった。
「気づかれることと、渡すことは別です」
「気づかれ始めるのは、もう避けにくい。ですが、だからといって中身まで渡す理由にはなりません」
その線引きは、いかにもオルフェンらしかった。
全部を隠せるとは思っていない。
だが、隠せないからといって雑に渡すつもりもない。
守る。
その意志が、今の王国を支えている。
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夕刻、王国から黒翼庭へ短い通達が送られた。
**七柱構造断片および白王接見関連記録は、第一種封鎖を継続。急進派への流出防止を優先。王国は公開より保全を選択する**
その通達を見たクロウは、小会議室で少しだけ目を細めた。
「…選んだな」
ヴェルミリアが頷く。
「はい」
「王国は“真実を知る側”ではなく、“真実を守る側”へ寄りました」
「らしくないようで、らしいな」
「ええ」
学者の国だからこそ、知の危険も分かる。
そこが王国の強さでもあり、面倒なところでもある。
「助かる」
クロウが言う。
「かなりな」
七柱の真実が、もし王国から雑に漏れれば厄介どころの話ではない。
研究しようとする者、再現しようとする者、支配構造へ組み込もうとする者が必ず出る。
だから王国が保全を選んだことは、かなり大きい。
「ですが」
ヴェルミリアが言う。
「王国が守ると決めたということは、逆にそれだけ狙われるということでもあります」
「だろうな」
そこへも繋がる。
帝国が席を守ると決めれば、その席を揺らそうとする者が出る。
王国が真実を守ると決めれば、その真実を奪おうとする者が出る。
世界の選別は、そういう形で具体になっていく。
「面倒だな」
やはり口から出る。
ヴェルミリアは静かに一礼した。
「はい」
「ですが、陛下」
「何だ」
「ここで王国が公開を選ばなかったのは、大きいかと」
「分かってる」
クロウは短く返した。
分かっている。
だから本音で助かるとも思う。
王国が知を守る側へ回った。
それは世界が割れ始める中にあって、確かにこちら側へ寄る大きな一歩だった。
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夜。
中央記録院の封鎖区画を離れる前に、リセリアはもう一度だけ振り返った。
封印札。
閉じた扉。
そこに眠る記録。
学者としては、どうしても少しだけ後ろ髪を引かれる。
全部読みたい。
全部書きたい。
全部理解したい。
だが、その衝動のまま動いていい段階では、もうない。
「…守るんですね」
小さく呟く。
返事はない。
だが、いまの王国にはその言葉がよく似合っていた。
真実を知る国は多くない。
だが、真実を知った上でそれを守る国は、もっと少ない。
王国は、真実を守る側に回った。
その苦く重い選択が、世界の裂け目をまた一つ具体にしていた。
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