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9 招かれざる支配者

 予選開始まであと数時間。

 王立魔導スタジアムの地下、出走馬たちが待機する特別馬房に男は現れた。上質なシルクの外套を纏い、指にはこれ見よがしな魔石の指輪。その後ろには武装した数名の私兵と、苦虫を噛み潰したような顔のバルガスが控えている。


「バルガス……お前が手こずっていた野良犬とはこの連中のことか?」


 男の低く傲慢な声が厩舎に響いた。名はギリアムというらしい。王都の競馬利権を牛耳る伯爵であり、この国の魔法競馬という歪なシステムを作り上げた元凶の一人だ。


『嫌な匂いだ。血と金に腐った人間の匂いがするぞ!』

 バハムートが檻の向こうで激しく前脚を叩きつける。アルカディアも怯えたように耳を伏せた。


 俺はバハムートを宥めながらギリアムを正面から見据えた。


「なんの用だ? ここはあんたのような高貴な御方が、わざわざ靴を汚しに来る場所じゃないはずだが?」


「用があるのは貴様ではない。そこの賢そうな女だ」


 ギリアムの視線が俺の横で腕を組むセリアへと向けられた。


「初めまして、セリア嬢。君の噂は聞いている。辺境で埋もれさせておくには惜しい卓越した経営手腕と情報収集能力を持っているそうだな」


 ギリアムが合図を送ると私兵の一人が重厚な革袋を机に置いた。中から溢れ出したのは――これまでの人生で見たこともないような大粒の金貨と王都の一等地に構える商館の権利書だった。


「どうかな。そんな死に損ないの男と呪われた馬に見切りをつけないか? 私の傘下に入れば君の野心をすべて叶えられる地位と富を約束しよう。ついでに――そこの震えている小娘も君のメイドとして雇ってやってもいい」


 ギリアムは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。この手の連中は平民の絆など金で買える安い消耗品に過ぎないのだろう。


「ふん。面白い提案ね」


 セリアが一歩前に出た。机の上の金貨を一つ指先で弄ぶように拾い上げる。


「セ、セリアさん?」


 ミアが不安げに彼女の服の裾を握るが、セリアはその手を静かに振り払った。


「王都の一等地の商館、それにこの額の金貨。アメーバの脳みそでも、どちらが賢い選択か理解できるわね? でも伯爵。貴方は一つ致命的な計算違いをしているわ」


 セリアは金貨を机に投げ捨てた。チャリンという乾いた音が静寂の中に響く。


「私の鑑定眼はね、死んだ金よりもこれから跳ね上がる株を好むのよ。貴方の用意したこの程度の額で世界一の騎手になる男の雇い主を降りると思っているなら――貴方の頭の中身はバルガス以下の泥水で満たされているようね。今すぐその腐った権利書を持って下水溝にでも帰って頂戴」


 冷徹な拒絶――一切の容赦がない言葉の刃だ。ギリアムの顔が怒りでどす黒く変色していく。


「貴様……誰を侮辱しているかわかっているのか? 貴様らがここで事故に遭い、二度と日の目を見ないようにすることなど私には容易いのだぞ?」


 ギリアムの殺気が膨れ上がる。私兵たちが剣の柄に手をかけた。その時、セリアの後ろで震えていたミアが震える足で前に踏み出した。


「い、行かせません!」

「ああ? 小娘、なんと言った?」


「レンさんもセリアさんもバハムートちゃんもアルカディアちゃんも! 私の大切な家族なんです! 家族を売るためのお金なんて……そんなの世界で一番汚いものです!」


 ミアは涙を溜めながらも真っ直ぐに伯爵を睨み返した。恐怖を押し殺して叫んだ言葉――それは金貨の音よりもずっと強く、この場を支配した。


「貴方、メイドにならなくて良かったわね。こんな趣味の悪い男に雇われていたら、一晩で精神が汚染されるところだったわ」


 セリアがミアの肩を抱き寄せる。二人の少女の絆は伯爵の黄金による暴力に屈することはなかった。


 俺は二人の前に立ちギリアムとの間にバハムートの嘶きを叩きつけた。


「話は終わりだ。伯爵」


 俺の声は驚くほど低く静かだった。


「あんたは馬を金を生む道具だと思っている。だが俺たちはこいつらと一緒に風を見に行くんだ。魔法と金で塗り固められた競馬に俺たちの本物の走りの見せてやるさ。一時間後の予選を楽しみにしていろ」


『あの傲慢な男の鼻柱を我が蹄で粉砕してやるわ!』


 バハムートの咆哮が地下厩舎に反響し、ギリアムの私兵たちが思わず後退りする。


「ふん、せいぜい吠えているがいい。王都の予選は走るだけの場所ではない。貴様らがなにを信じていようと、その理想ごと、私の魔法馬たちが踏み潰してくれる」


 ギリアムは忌々しげに吐き捨て金貨を回収させることもなく立ち去っていった。嵐が過ぎ去ったような静寂が訪れる。


「はあ、怖かったわね。殺されるかと思ったわよ」


 セリアが大きく息を吐き膝の震えを隠すように壁に寄りかかる。


「セ、セリアさん……かっこよかったです!」


 ミアが泣きながらセリアに抱きつく。


「馬鹿、貴方の台詞の方が百倍怖かったわよ。レン……聞いたでしょう? あいつ、絶対になにか仕掛けてくるわ。覚悟は出来てるんでしょうね?」


「ああ」


 俺はバハムートとアルカディア――それぞれの首筋を叩いた。


「あいつは俺たちの絆を金で買おうとした。それがどれだけ高くつくか、ターフの上で支払わせてやろう」


 予選開始の鐘が鳴る。黄金の誘惑を撥ね退けた俺たちの前には、今、真っ白な勝利への道が続いていた。

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