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4 泥濘の覇者、そして誇りの代償

「ゲート、オープンッ!」


 号砲とともに、世界が爆発した。しかしその爆発は俺たちが起こしたものではなかった。隣を走る白銀の魔導馬――アルカディア。その蹄が地面を叩いた瞬間、大気が激しく震え、彼女の姿が文字通り光の筋へと変わった。


 魔法加速――異世界の理不尽が俺たちの目の前で牙を剥く。アルカディアが巻き起こす凄まじい風圧は、ミアが言っていた通り背後に真空の壁を作り出し、追い縋ろうとする者の体力を根こそぎ奪っていく。


「ヒヒィィィィィンッ!」


 バハムートが焦りの嘶きを上げる。無理もない。一瞬で十馬身――二十馬身と引き離されたのだ。


「落ち着け、バハムート! 奴の加速は魔力消費が激しい。四千メートルの長丁場、あんなペースが最後まで持つはずがない!」


 俺はバハムートの首筋に顔を埋め空気抵抗を最小限にする。騎手にとって風は敵ではない。味方にするものだ。俺はアルカディアが作る真空の渦をあえて利用し、その引き波に乗ることでバハムートの体力を温存させた。スリップストリーム――地球の競馬では常識の技術だが、魔法を過信するこの世界の乗り手たちには、俺たちがただ引き離されているようにしか見えないだろう。


『レンよ……我を信じろ。あの白き馬、泣いているぞ』


 バハムートの呟きに俺は目を見開いた。先頭を走るアルカディア。その背後から聞こえてくるのは勝利への渇望ではない。


『痛い……苦しい……止まりたい。でも走らなきゃ……殺されちゃう』


 悲痛な叫びだった。それは――かつてバハムートが抱えていた絶望と同じ色をしていた。


 中間地点の急勾配。アルカディアは依然として圧倒的なリードを保っている。しかしその足取りに僅かな狂いが生じ始めていた。魔法による強制的な加速に筋肉が悲鳴を上げているのだ。


「今だ、バハムート! ギアを一段上げろ!」


 俺は重心を前方に移し、バハムートに合図を送る。待ってましたと言わんばかりに漆黒の脚を回転させた。俺たちが特訓した効率的なコーナリングが火を吹く。外側に膨らまず最短距離のインコースを、カミソリのような鋭さで駆け抜ける。


 レースの最終局面――セリアが警告していた死の泥濘が姿を現した。数日前の雨を吸い込んだそこは馬の膝まで浸かるほどの深い泥沼と化している。


「ふん、魔導馬の出力の前には無意味だ!」


 先行する騎士団長トリスタンが手綱を引いて魔法を最大出力にする。アルカディアの全身から雷光が迸り、泥を焼き飛ばしながら進もうとした。


 だが――泥は焼けば固まる。足元を固められたアルカディアは、その出力を逆手に取られて流れを失う。


「計算通りだ。行け、バハムート!」


 俺たちのバハムートには昨日ミアに用意してもらった特製蹄鉄がついている。泥を掴み瞬時に弾き飛ばす特殊な形状。なによりバハムートに流れる飛竜の血は、不安定な足場であればあるほど、その体幹を強く保つ本能を呼び覚ます。


『おおおおおっ! 大地が我に応えているぞ!』


 一歩、また一歩。泥に足を取られ藻掻くアルカディアを横目に、俺たちは水面を滑るアメンボのように加速した。


「な、なんだと! なぜ泥沼で加速できる? 貴様、どんな卑怯な魔法を――っ!」


 トリスタンの驚愕の叫びを俺たちは置き去りにした。


「魔法じゃない。これは技術だ!」


 最後の一ハロン――泥濘を抜けた俺たちは光り輝くゴール板へと飛び込んだ。バハムートの蹄が異世界のターフを勝利の音で鳴らした。



 静寂――その後に沸き起こる信じられないものを見たという観衆のどよめき。


 俺はバハムートから降りると真っ先に後方で力尽き、倒れ込んだアルカディアの元へ駆け寄った。激しい過呼吸を起こし、瞳からは涙が溢れていた。


「もう大丈夫だ。無理に走らなくていい」


 俺が鼻面を撫でると脳内に弱々しい声が響く。


『たす……けて……また……あの暗い場所に……戻りたくない』


「約束する。お前はもう――自由だ」


 そこへ顔を真っ赤にしたバルガスが、騎士たちを引き連れて怒鳴り込んできた。


「イカサマだ! こんなものは認めん! 平民風情が騎士団の秘蔵馬に勝つなど――あってはならないことだ!」


 俺は冷めた目でバルガスを見下ろした。


「イカサマ? 証拠はあるのか? 審判員さえも勝利を認めている。それより、バルガス。あんたに一つ相談がある」


「なんだ! 命乞いか?」


「いいや、この白い馬――アルカディアを俺に譲れ。負けたときのリスクを俺たちだけが負うのは不平等だろ? まあ、敗北した時点でそれなりの処分を食らうんだろうけどさ」


「ぐぬっ! 敗者に価値はない――それは俺もアルカディアも同様だ」

「だからこそ交渉が成り立つ」


 俺は懐から一握りの銀貨を差し出した。セリアから「もしもの時のために」と渡されていた厩舎の蓄えだ。


「あんたは今、賭けに負けて領主からの信用を失った。馬一頭でがたがた抜かすなよ。それとも敗北の責任をすべて領主に報告されたいのか? あんたは敗北した駄馬を俺に売り飛ばしたことにすればいい」


 俺の静かな威圧にバルガスは言葉を詰まらせた。背後には荒い息を吐きながらも、いつでも飛びかかれる体勢のバハムートがいる。いつの間にか横に立っていたセリアが、不敵な笑みを浮かべて帳簿を叩いた。


「バルガス様、貴方の首が飛ぶのと、この馬がうちの厩舎に来るの、どちらが早いか試してみる?」


 セリアの鋭い追撃にバルガスは震えながら銀貨を受け取り逃げるように去っていった。


 その日の夜。

 銀翼の蹄にはささやかな、けれど温かい祝宴の食卓が囲まれていた。


「まあ、合格点ね。まさか本当に勝つなんて、アメーバの分際で生意気よ。でもあの泥濘での走りは……少しだけ……ほんの少しだけ綺麗だったわ」


 セリアは相変わらずの毒舌だが、その頬は緩み、俺に差し出す麦茶のコップを置く手が、いつもより丁寧だった。


「レンさんっ! 本当に、本当にかっこよかったです! 私、最後の方は涙で前が見えなくて……でもバハムートちゃんもアルカディアちゃんも、みんな無事で本当によかったです!」


 ミアは俺の隣に座り甲斐甲斐しく大皿の料理を取り分けてくれる。その目は尊敬の色で満ちていたが、不思議とただの憧れ以上の熱を帯びているような気がした。


 俺は二人に感謝し、それから厩舎を覗いた。 そこには新しく仲間入りしたアルカディアが、バハムートと並んで穏やかにエンバクを食んでいた。


『レン……あの白き娘、貴様に感謝していたぞ。まあ、我が先に認めた男だ。それくらいは当然だがな』


 バハムートが誇らしげに鼻を鳴らす。


「そうか――これから忙しくなるぞ。次はもっと大きなレース、いや、この世界の頂点を目指そうか?」


 俺の言葉にセリアが「勝手に決めないでよ。私のマネジメント料は高いわよ?」と茶化し、ミアが「どこまでも着いていきます!」と笑った。


 異世界の空に明るい月が昇る。俺たちのチームは、まだ走り出したばかりだ。

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