愛の名で使ったお金は、あなた達のものではありません
王城の応接間に入った瞬間、ここが、伯爵家の令嬢として何度も訪れてきた場所であるにもかかわらず、今日はまるで他人の席に通されたような感覚を覚えたが、それは不安というより、すでに形が決まっている椅子を前にしたときの、妙に整った空気のせいだった。
「マルティナ・エルフェルト伯爵令嬢、こちらへ」
そう呼ばれ、一礼して進み、正面に座る王太子ノア殿下を見据えながら、伯爵家の名を背負ってこの場に立っているのだと、心の中で静かに言い聞かせた。
殿下の表情は穏やかで、視線も落ち着いており、これから告げる言葉が誰かの人生を変えるものだとは思えないほど静かだった。
「急に呼び立ててしまってすまない」
「いいえ、殿下」
そう答え、促されるまま椅子に腰を下ろしたが、その瞬間、殿下の隣に一人の女性が立っていることに改めて気づき、その位置が示す意味を、すぐには考えないようにした。
「今日は、君に直接伝えなければならないことがある」
殿下は前置きを挟まず、そう切り出し、その声音に含まれる迷いのなさが、かえって私の背筋を伸ばさせた。
「私と君との間で交わされていた婚約は、本日をもって解消する」
その言葉は、感情を伴わず、ただ事実として置かれたため、胸が痛むよりも先に、「そうですか」と返す準備が出来ていた自分に気づき、ほんのわずかに息を吸った。
「理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
それは伯爵家の令嬢として、この場で問うべき言葉だと判断しただけで、答えを期待していたわけではなかったが、殿下は一瞬だけ視線を伏せ、それから顔を上げた。
「私が、別の選択をした」
それだけで、十分だったのだと思う。
それ以上を求めず、「承知しました」とだけ答え、その返事に殿下がわずかに安堵したように息を吐いたのを、見逃さなかった。
「理解してもらえて助かる」
その言葉が、王太子としての配慮なのか、一人の男としての逃げなのかを考えることはせず、ただ静かに頷いた。
その沈黙を受けて、殿下はようやく隣に立つ女性へと視線を向けた。
「紹介しよう」
そう言ってから、殿下ははっきりと告げた。
「こちらはカリナ・ヴァルシュタイン公爵令嬢、そして、私の新しい婚約者だ」
その瞬間、彼女がなぜこの位置に立っていたのか、その答えがようやく形を持った。
カリナ様は一歩前に出て、王太子の婚約者としてふさわしい距離を保ったまま、穏やかに微笑んだ。
「初めまして、ではありませんわね、マルティナ様」
その声音には、公爵家の令嬢としての自信と、王太子の婚約者という立場をすでに当然のものとして受け入れている落ち着きがあり、その二つが、今この場で完全に重なっているのだと理解した。
「ええ」
短く答え、それ以上の言葉を足さなかったが、それで十分だったのだと思う。
「これで話は終わりだ」
殿下がそう言い、形式的な言葉を添えようとしたのを、静かに遮った。
「伯爵家としても、これ以上のお話は不要です」
そう告げて立ち上がり、一礼をしてから、「本日はこれで失礼いたします」と言うと、殿下は一瞬だけ何か言いたげな表情を見せたが、結局「君の今後が穏やかなものであることを願っている」とだけ口にした。
それに返事をせず、ただ最後まで礼を尽くして部屋を後にした。
◇
応接間を出た瞬間、王城の廊下に戻ったことで、ようやく、王太子の婚約者という席を正式に降り、伯爵令嬢マルティナとして一人で立っているのだと理解し、その事実が思っていたよりも静かに受け止められたことに、自分自身が少しだけ意外に感じていた。
◇
王城を離れてからしばらくの間、私の生活は驚くほど変わらずに続いていて、朝になればいつも通り目を覚まし、窓を開ければ季節相応の風が入り、使用人たちも過度に気を遣う様子を見せないまま、伯爵家の令嬢としての時間が淡々と積み重なっていくのを、少し不思議な気持ちで受け止めていた。
「お嬢様、こちらのお茶はいかがでしょう」
「ありがとう、それでいいわ」
そうした短いやり取りの中に、以前と違う緊張が混じっていないことに、気づかないふりをしていたが、屋敷の外から聞こえてくる声の中には、確実に私の知らない話題が増えていることも、また否定出来なかった。
◇
ある日、親戚筋の集まりに顔を出した際、部屋の隅で数人の令嬢たちが楽しげに話している声を耳にし、そこに自分の名前が含まれていないことに、なぜか安堵している自分を自覚した。
「本当にお似合いだそうよ」
「ええ、並んで歩いているところを見た方がいるって」
その言葉の主語が誰であるかを、わざわざ確かめる必要はなく、その場を離れることも出来たが、足が止まったままになったのは、好奇心よりも、これから自分がどの位置に立たされているのかを、静かに確認したかったからだった。
「殿下も、あんなに分かりやすく振る舞う方だったのね」
くすりと笑う声に、別の令嬢が「それだけ大切にされているということでしょう」と返し、そのやり取りが、誰かの幸せを称えているようでいて、同時に、もう席を離れた者を完全に視界の外へ押しやっているのだと、遅れて理解した。
けれど、そこで私が感じたのは悔しさでも怒りでもなく、「そういうものなのね」という、少し距離を置いた納得に近い感覚だった。
◇
別の日、街へ出た際に、店先で聞こえてきた会話も、同じ方向を向いていた。
「また新しい衣装だそうよ」
「今度は特別に仕立てたものですって」
楽しげに声を弾ませる人々の言葉は、まるで季節の話題でも交換するような軽さで交わされていて、その中心にいる人物が誰なのかを、わざわざ名指しする必要もないほど、周囲に浸透しているのだと分かった。
「愛されている証拠じゃない?」
その一言が、冗談めいた調子で投げられたとき、足を止めることもせず、ただその場を通り過ぎながら、「そうね」と心の中で答え、それ以上を考えないようにした。
それは、自分が何かを失ったという感覚よりも、すでに別の物語が動き始めていて、そこに自分の席が用意されていないという事実を、淡々と受け入れている状態に近かった。
◇
屋敷へ戻った後、侍女が少し言い淀んだ様子で話しかけてきたことがあった。
「お嬢様、最近……」
「気にしなくていいわ」
その先を言わせず、そう答え、「私に関係のない話でしょう」と続けたが、その言葉は自分に言い聞かせるためのものでもあり、侍女は一瞬だけ困ったように微笑んで、「かしこまりました」と頭を下げた。
その反応を見て、初めて、周囲の人間が私よりも先に、私の立ち位置を理解しているのだと悟り、だからこそ余計な言葉を差し挟まないようにしているのだと、静かに納得した。
◇
夜、書き物をしているときに、ふと窓の外から聞こえてきた笑い声が、遠くで弾むように響き、その音があまりにも軽やかだったため、一瞬だけ筆を止めたが、すぐに視線を紙に戻し、「今は関係のないこと」と心の中で線を引いた。
誰かが選ばれ、誰かが席を移るという出来事は、特別な感情を伴わなくても進んでいくのだと、この章でようやく理解し始めていて、その理解が、次に何が起きるのかを知ることとは、まったく別の次元にあるのだということも、同時に分かっていた。
だから噂の輪に加わることも、否定することもせず、ただ自分の足元にある日常だけを確認しながら、遠くで弾む声が、いつか聞こえなくなる日が来るのだろうかと、答えの出ない問いを、胸の奥にそっと置いたまま、その夜を終えた。
◇
その再会が特別に用意されたものではなかったからこそ、かえって逃げ場を失い、廊下の先から聞こえてきた足音と、こちらに向かってくる気配を感じ取った時点で立ち止まるべきか迷いながらも、結局は伯爵家の令嬢として身を引く理由もなく、そのまま歩みを止めて、正面から視線を受け止めることになった。
「久しぶりだね、マルティナ」
王太子ノア殿下は、以前と変わらない調子でそう声をかけてきて、その呼び方に含まれる距離が、婚約者だった頃とも、完全に他人になった後とも違う位置に置かれていることに、一瞬だけ戸惑いながら、「ええ、お久しぶりです、殿下」と、無難な言葉を選んで返した。
立ち止まった廊下は人通りが少なく、誰かに聞かれる心配もないはずなのに、私たちの間には、互いに踏み込まないという了解が、最初から敷かれているようで、その空気が、かつて交わしていた数えきれない会話よりも、よほどはっきりと存在を主張していた。
「元気そうだね」
「おかげさまで」
その短いやり取りが、まるで挨拶の見本のように整ってしまったことで、これ以上続く言葉がないことを悟り、殿下もまた、その沈黙を不自然だとは感じていない様子で、視線を逸らしながら、ほんのわずかに口元を緩めた。
◇
「忙しそうだね」
殿下はそう言ったが、その言葉には具体性がなく、私が何をしているのかを知りたいという意図よりも、何か言わなければならない沈黙を埋めるための音に近く、「変わらず過ごしています」と答え、それ以上を足さなかった。
「そうか」
それで会話は成立してしまい、その事実に、わずかな可笑しさと、同時に言いようのない隔たりを感じていた。
以前なら、この沈黙の中に、互いの予定や、何気ない出来事や、取り留めのない笑いが差し込まれていたはずだが、今はどちらも、その一歩を踏み出す理由を持たず、踏み出さないことが正解であるかのように、整然と距離を保っている。
「……何か、困っていることはないか」
殿下がそう口にした瞬間、その言葉が、心配から来たものではなく、立場として口にすべき問いであることを、直感的に理解してしまい、「いいえ」と即座に答えた。
「そうか」
それ以上の掘り下げはなく、殿下は安堵したようにも、肩の力を抜いたようにも見え、その反応を見たことで、自分が何も求めていないことを、はっきりと示せたのだと理解した。
◇
ふと、殿下の背後に人影が見え、そちらに視線を向けかけたが、誰がいるのかを確認する前に、殿下が一歩だけ距離を取り、その動作が、これ以上この場に留まる理由はないという合図のように感じられた。
「では」
「はい」
その別れの言葉さえ、どちらが先に言ったのか分からないほど自然に重なり、一礼をしてその場を離れたが、振り返ることはせず、振り返らないことで、今の会話が過去に引き戻されることを防いだ。
歩き出してから数歩進んだところで、ようやく息を吐き、胸の奥に残っていたわずかな緊張が、静かにほどけていくのを感じたが、それは未練が消えたというより、最初から共有されていなかったものを、改めて確認しただけの感覚に近かった。
◇
その日の夜、屋敷に戻ってから、その再会について誰かに話すこともなく、侍女が差し出した湯を受け取りながら、「今日は何もなかった」と自分の中で結論づけ、その言葉が嘘でも強がりでもないことを、すぐに確かめることが出来た。
会話は確かにあったが、そこには渡されるものも、受け取るものもなく、ただ互いに、すでに別の場所に立っていることを確認しただけで終わっていた。
だからその再会を特別な出来事として心に残すこともせず、翌朝にはいつも通りの時間に目を覚まし、昨日と同じ日常を続ける準備を整えながら、「何も知らされないままでいる」という立場が、思っていた以上に、私を守っているのだと、静かに感じ始めていた。
◇
それを聞かされたのは、本当にすべてが終わったあとだった。
噂が消え、名前が呼ばれなくなり、誰も話題にしなくなった理由を、最後まで知らないまま日々を過ごしていて、その静けさが当たり前になった頃、ようやく届いたのが、この話だった。
「もう、カリナ様は拘束されたそうよ」
親戚筋の女性は、そうはっきりと名を出し、その声音には驚きも憤りもなく、まるで天候の変化を伝えるような落ち着きだけがあった。
「……そうですか」
それだけ答えるのが精一杯で、それ以上の言葉を探さなかった。
◇
「あなたが離れたあと、カリナ様は王太子の新しい婚約者という立場を使って、宝石や衣装を次々と手配していたそうよ」
彼女は続ける。
「ノア殿下の名を使えば、断られることはなかったらしいわ」
その言葉は、噂話ではなく、すでに整理された事実として私の前に置かれた。
「最初は、贈り物という扱いだったそうよ」
「贈り物……」
「ええ。愛されている証拠だから、と」
その言い方に、以前耳にした軽い言葉を思い出し、それが冗談ではなかったのだと、ようやく理解した。
◇
「ノア殿下も、それを止めなかった」
彼女は淡々と続けた。
「愛しているのだから構わない、と言っていたそうよ」
何も言えなかったが、その沈黙が、話を遮るものではないことは分かっていた。
◇
「でも、それでは足りなくなった」
彼女はそこで一度だけ言葉を切り、はっきりと続けた。
「カリナ様のために使われ続けた分を埋めるために、ノア殿下ご自身が国庫に手を付けたそうよ」
「……国の金に」
「ええ」
それ以上の説明はなかったが、十分だった。
◇
「それが明るみに出て、すべてが一度に終わった」
彼女はそうまとめた。
「カリナ様は拘束され、ノア殿下は王太子の立場を失った」
「廃太子、ということですね」
「そうよ」
その言葉は、確認として交わされただけで、感情を挟む余地はなかった。
◇
「あなたは、何も知らなかったのでしょう?」
そう問われ、頷いた。
「ええ」
「それでいいのよ」
彼女はきっぱりと言い切った。
「止める立場でも、止められる距離でもなかった。あなたが関わらなかったからこそ、今もこうして静かにいられる」
◇
屋敷に戻ったあと、一人で部屋に座り、あの場で席を譲った日のことを思い返しながら、それが結果として、自分をこの出来事の外側に留めていたのだと、ようやく理解した。
誰かの名が使われ、誰かの好意が黙認され、その積み重ねが取り返しのつかない形になったとしても、それを選び、進めたのは私ではない。
何も知らず、何もせず、ただ最後に「そうだったのだ」と聞いただけで、それ以上を背負う理由も、背負う権利もないのだと、このとき初めて、はっきりと線を引くことが出来た。
◇
その話が出たとき、驚かなかったし、胸が弾むこともなかったが、「来るべきものが来た」と思っただけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「伯爵家として、正式に縁談のお話をいただいております」
親族のその言葉を聞いた瞬間、自分が個人としてではなく、家の名を背負った令嬢として呼ばれているのだと理解し、「そうですか」と頷いた声も、自然と落ち着いたものになっていた。
「急なお話ですが」
「いいえ」
首を横に振り、「私の立場であれば、いつかは必要な話ですから」と答え、その言葉が慰めでも諦めでもなく、ただ事実として口から出てきたことに、自分自身が一番納得していた。
「条件や背景については、改めて整えます」
「承知しています」
そう返した時点で、この縁談を、心を満たすためのものではなく、伯爵家の令嬢として果たすべき役割の一つとして受け取っていて、その割り切りが冷たいものではなく、むしろ自分を安定させる枠組みになっていることを、静かに理解していた。
◇
相手と初めて顔を合わせた場で、過度に期待を寄せることも、距離を取りすぎることもせず、ただ礼を尽くし、必要な言葉だけを選んで会話を交わしていた。
「突然の話で、戸惑われてはいませんか」
「いいえ」
即座に否定し、「このようなお話は、立場上、避けて通れるものではありませんから」と答え、その言葉に含めたのは感情ではなく、理解と合意だった。
相手は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、それから「無理のない形で進められれば」と言い、「それが何よりです」と返し、そのやり取りだけで、この席に必要な確認は十分に果たされた。
そこに、過去を掘り返す言葉も、未来を誓う言葉もなく、それが不十分だとは感じなかった。
◇
屋敷に戻り、夜の静けさの中で一人になったとき、改めて、自分が選んだわけではなく、引き受けたのだという事実を噛みしめ、それが誰かに流されることとは違うのだと、はっきり区別することが出来ていた。
混乱から救われるためにこの縁談を受けたのではない。
誰かの代わりに埋めるためでも、失ったものを補うためでもない。
伯爵家の令嬢として、この先も場を成立させる役目を果たすために、静かに席に戻っただけだ。
そう考えたとき、胸の奥にあったのは寂しさではなく、ようやく自分の立ち位置が定まったという感覚で、その安定感を確かめるように、灯りを落とし、明日も変わらない一日を迎える準備を整えた。
完。
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