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もうすぐ結婚式ですが、あなたのために婚約解消したいのです

作者: 佐倉 蘭
掲載日:2026/01/02


【 Karaktär/登場人物 】


◆リリコンヴァーリェ(リリ)・シェーンベリ/Liljekonvalj Schönberg

木材商・シェーンベリ商会の娘。十九歳。「liljekonvalj」とはスウェーデンの国花・鈴蘭。


◆ビョルン・シーグフリード・グランホルム/Björn Sigfrid Granholm

リリの婚約者。二十五歳。男爵・グランホルム家の二男で、スウェーデン王国軍の海軍大尉。


◆ラーシュ・シェーンベリ/Lars Schönberg

リリの兄でビョルンの友人。二十五歳。シェーンベリ商会の次期後継者。イギリスの全寮制セント・ポールズ校(パブリックスクール)でビョルンと同室だった。


◆エマ・カッセル/Emma Cassel

ラーシュの婚約者でリリの友人。十九歳。海運業・カッセル汽船の娘。


◆オーケ・シェーンベリ/Åke Schönberg

リリの父。他に先駆けて木材の輸出に目をつけ、シェーンベリ商会を一代で築く。男爵・グランホルム家の領地から木材を調達している。


◆ヘッダ・シェーンベリ/Hedda Schönberg

リリの母。家族を支える良妻賢母。


◆ウルラ=ブリッド・ヘッグルンド/Ulla-Britt Hägglund

ビョルンの幼なじみ。十九歳。男爵・ヘッグルンド家の令嬢。


◆アンドレ・グスタフ・グランホルム/André Gustav Granholm

ビョルンの兄でウルラ=ブリッドの婚約者。二十七歳。男爵・グランホルム家の長男。



◇Kapitel 1 Juni/六月



とうとう、六月がやってきた。

リリコンヴァーリェ・シェーンベリは、本日何回目かわからないほど、またため息を吐いた。

「liljekonvaljリリコンヴァーリェ」とはこの国、スウェーデンの人々に昔からこよなく愛されている国花で「谷間の姫百合」——つまり、鈴蘭のことだ。

両親からその()えある名を与えられた彼女であるが、平生(へいぜい)は短く「リリ」と呼ばれている。


「……いったい、どうなさったの、リリ?」

友人のエマ・カッセルは、Rörstrand(ロールストランド)のカップを上品に持ち上げて中の珈琲(フィーカ)を一口含んだあと、そう尋ねた。

彼女は赤褐色(レディッシュブラウン)の髪に灰緑色グレイニッシュグリーンの瞳を持つ愛らしい娘だ。


もともと、この国の紅茶の消費量は少なかった。さらに追い討ちをかけるように一八一三年、中国(清国)廣東(カントン)を経由して紅茶の茶葉を輸入していたスウェーデン東インド会社が閉鎖されたこともあり、ますます紅茶よりも珈琲の方が好まれるようになった。


「いいえ。……なんでもなくってよ」

リリもまた、手にしたソーサーから優雅にカップを持ち上げながら、薄く微笑んで答えた。

彼女は窓から差し込む光によっていっそう輝く金の髪(ブロンド)に、透き通るような翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳を持つ、美しい娘だった。



彼女たちは今世紀(十九世紀)に入ってから、いきなり台頭してきた新興の商人の娘だ。

リリの父親がまだ若かりし頃、スウェーデン王国をはじめとする北ヨーロッパでは、伐採して切り拓かなければ農地にならない針葉樹林は「お荷物」以外の何物でもなかった。

しかし、産業革命に成功して世界の一等国となった英国やフランスなどの中央ヨーロッパでは、建物だけでなく造船などでも製材の需要が高まっていた。


他に先駆けていち早くそれに目をつけたリリの父親は、船舶で英仏へ木材を輸出するために、この国第二の都市で港町でもあるイェーテボリを拠点にして「シェーンベリ商会」を興した。

同じ頃、エマの父親はリリの父親のようなイェーテボリの「貿易商」たちが高い船賃を支払って英仏の蒸気船で物資を運んでいることに気づいた。

そこで、貿易商たちに「我が国の船舶で運べるようにしないか?」と出資を持ちかけて「カッセル汽船」を立ち上げた。


そのようにして豊かな財力を手にした者が、次に欲するのは「名誉」だ。

だが、彼らのような成り上がりの階級が、おいそれと手にできるものではないということは、じゅうぶん承知していた。

事実、一八六六年に第一院と第二院の二院制議会が始まるまでは、貴族・聖職者・市民(商工業者や弁護士などの中産階級(ブルジョワジー))・農民によって分けられた四身分制の議会が、国王陛下のもと歴然と存在していた。

自分たちが叶えられないのであれば、せめて子どもたちには——そう考えた彼らは、我が子の「教育」に力を注いだ。


しかしながら、娘たちに(ほどこ)す「女子の教育」となると、教会での日曜学校か、または機織(はたお)りなど伝統的な手仕事(スロイド)を教わる職業訓練的な場くらいしかなく、父親たちが望む「どんな晴れやかな場に連れて行っても恥ずかしくない、洗練されたマナーを身につけた淑女(レディ)」に育成してくれそうなところは、どこにもなかった。

そもそも、貴族階級の令嬢たちは幼き頃より、まだ見ぬ夫のために「()き家庭人」となるべく、雇い入れた住み込みの女性家庭教師(グヴァナント)から、行儀作法のほかダンスや刺繍などを学ぶのだ。

二人の父親は、そちらを(なら)うことにした。



「……いよいよ、今月だわね」

エマが頬を紅潮させて夢見るように言った。すると、途端にリリの(かんばせ)の色が陰る。

「あら、リリはご自分の結婚式が楽しみではなくて?」

午後のひととき、リリの邸宅の応接間(ドローイングルーム)には二人だけしかいない。


けれども、家庭教師(グヴァナント)によってしっかりと躾けられて育った彼女たちは、向かい合って置かれた長椅子(ソファ)のそれぞれに「淑女(レディ)」として浅く腰掛け、決して姿勢を崩すことなく背筋をすっと伸ばし、お行儀よく珈琲(フィーカ)を飲んでいる。

その長椅子はAlmedahls(アルメダールス)の布地を使うように申し付けて特注された、今英国で流行(はや)りのヴィクトリア様式を模したものだ。

高緯度地域に属するこの国は、一年の半分が冬と言っても過言ではない。だから、雪に閉ざされ気軽に外出できないその間を凌ぐため、(やしき)の内装や調度品に気を配り(ぜい)を凝らす。

特に、邸の女たちが同性の客をもてなすために設けられたドローイングルームは、当主(あるじ)の妻のセンスも問われることから、いっそう力が入る。(ちなみに、男たちはシガレットルームを応接間として使って同性の客をもてなす。)


エマが無邪気な灰緑色グレイニッシュグリーンの目をリリに向けた。

「まさか、そんなことはあるはずないわよね?だって、あなたの旦那さまになるお方は——あの、グランホルム海軍大尉だもの」


——その「グランホルム海軍大尉」が、問題なのだわ。

リリは盛大にため息を吐きそうになるのを、必死で(こら)えた。


リリの婚約者はビョルン・シーグフリード・グランホルムといって、今年十九歳になる彼女に対し二十五歳になるスウェーデン王国軍の海軍大尉だった。

海軍で指揮を()る武官は上から「~将」「~佐」「~尉」と続き、それぞれに「大」「中」「少」(スウェーデンの軍隊では将官のみ少将の下に准将)がある。

彼の年齢でKapten(大尉)という地位まで駆け上がったのは、その実力もさることながら「家柄」も大いに関係していた。

男爵・グランホルム家の二男としてこの世に生を受けた彼は、領地と領民を持つ「有産階級(貴族)」出身だ。


この国にまだ王国軍ができる前、スウェーデン騎士団が加わった北方十字軍のあった時代より、兵を率いる役目を担っていたのが貴族の子息たちだった。

その発端は、国王陛下に対して「剣となり盾となる」軍事的奉仕をすれば、納税の義務が免除されたことからである。


この国の貴族社会は、国王陛下を頂点として「Hertig(大公)」「Furste(公爵)」「Markis(侯爵)」「Greve(伯爵)」「Friherre(男爵)」「Riddare(士爵)」と続く。(スウェーデンでは子爵の爵位はない。)

だが、それも一八六五年の四身分制議会の廃止によって、永らく議長の職を独占してきた高位貴族がLantmarskalk(執行官)の座を失い、それに伴って下位貴族たちの「政治的特権」も(つい)えてしまった。

その後、栄華を極めた彼らが衰退し没落していくさまは、火を見るよりも明らかだった。

ただ、王国軍においてはかろうじてその威光は健在のようで、貴族の子弟——特に領地・領民を相続できない二男や三男の多くは、相変わらず入隊して武官の道を歩んでいた。


グランホルム大尉もそのうちの一人だ。

しかしながら……実はグランホルム大尉には、なにも軍隊に入って国王陛下に「命」を捧げなくてもじゅうぶん生計が立てられる道があった。



「……ちょっと、それは聞き捨てならないね」

ふと、ドローイングルームの入り口から声がして、リリとエマは同時に振り向いた。

「私のエマ……あなたは、私よりもグランホルムにご執心なのかな?」

リリの兄でエマの婚約者でもある、ラーシュ・シェーンベリはそう言って、苦々しげに微笑んだ。


「……ドローイングルーム(ここ)は、私たち婦人が気兼ねなくおしゃべりに興じるためのお部屋よ。突然押しかけてくるなんて、私の兄といえども不躾(ぶしつけ)だと思わなくて?」

いきなり「乱入」してきたラーシュを、リリは(たしな)めた。


「私の愛する人を、私の妹が独占して離さないものだから仕方なく来たんだよ。そしたら、彼女の口から信じられない言葉を耳にしたものでね」

リリと較べると灰色がかった金色の髪(アッシュブロンド)であるが、まるで紺碧の海を思わせるディープブルーの瞳を持つ美しい青年は、まったく気にも留めず部屋の中央までつかつかとやってきた。


そして、エマの隣に身を落ち着けるのかと思ったら、長椅子(ソファ)肘置き(アームス)に腰を掛けて長い脚を組み、姿勢良く座るエマの後ろの背凭(せもた)れに片手を置いた。

「まぁ、英国のパブリックスクールとやらでは、そんな不安定なところも椅子として認めるのね?」

リリは形の良い眉を片方だけ持ち上げ、皮肉たっぷりな口調で(とが)めた。


「あらあら、二人とも……もう()してちょうだいな。ラーシュ、確かにグランホルム大尉はご立派で素敵な方だと思うけれども、私の旦那さまになるのはあなた以外には考えられないわ」

エマがふふふ…と笑いながら制する。

ラーシュの婚約者になって、初めてこのような光景を見たときにはさぞかし肝を冷やしたものだが、今ではすっかり慣れた。

この兄妹は(じゃ)れ合っているだけなのだ。


いくら「それなりの教育」を受けて紳士(ジェントルマン)淑女(レディ)の顔をしていたとしても、彼らはやはり貴族たちがいうところの「金はあっても庶民の端くれ」だった。

到底、Hedrande(貴族の子女)にはなれない。

愛しくてたまらないというふうにエマを見つめるラーシュと、そんな彼を屈託なく見つめ返し幸福そうに微笑む彼女。


それぞれの父親にとって「商売」の益になるために縁組された二人だが、今では互いに心の底から愛し合っているのはだれの目から見ても明らかだ。

彼らは来月、結婚式を挙げる。



それまで家庭内や教区の教会などで読み書きを教えていたスウェーデンでは、一八四二年に民衆教育令が発布され、国が各地域に「学校」を設けることになった。

それに伴い、男子の初等教育に関しては徐々に充実してくるようになるのだが、さらに「その先」の教育となると依然として「身分の壁」によって阻まれていた。


新興の商工業者の家に長男として生まれたラーシュ・シェーンベリであれば、初等教育を修了()えた後は、農家の青年を主体とした|Folkhogskola《民衆成年学校》に行くのが当時としては一般的な進路だった。

そんな折、父親の取引先の英国商人より、かの国には貴族でない子弟にも門戸を開いた「パブリックスクール(中等教育学校)」なる学校があることを知る。

そして、父子でいろいろと検討した結果、一五〇九年に開校されて伝統のある男子のみの全寮制「セント・ポールズ校」で学ぶことになった。


一方、男爵・グランホルム家は、この時代のほかの貴族と同様に斜陽の憂き目にあった。

それを救ったのはリリの父親、オーケ・シェーンベリだ。

彼は英米に輸出する木材に、男爵家が所有する領地に生育する 唐檜(スプルース)を求めた。

スプルースはマツ科の針葉樹で水に耐性があるので、建物だけでなく造船の用材としても向いている。

シェーンベリ商会の業績がうなぎ登りに上昇するにつれ、男爵領も「恩恵」を受けることになる。

北極圏に面したスウェーデン北部の針葉樹林帯に林業での新たな雇用が生まれ、おかげで当代男爵であるグスタフ・シーグフリード・グランホルム卿は、領地経営が安定するのはもちろん、二人の子息の教育にも惜しみなく注ぎ込むことができた。


時を同じくしてその頃、偶然にも男爵家では二男のビョルン・シーグフリード・グランホルムがセント・ポールズ校で学びたいと言い出した。

山間(やまあい)にある片田舎の領地ではなく、王都・ストックホルムのタウンハウスで育ったビョルンは、家庭教師による指導と並行して、王都に新設され庶民の子どもたちが通うFolkskola(民衆学校)でも初等教育を受けていた。

その後は男爵家の子弟であれば、わざわざ外国(イギリス)なんかへ行かなくても、ウプサラやルンドなどの中世の時代から続く名門大学で学ぶことが可能だ。

事実、ビョルンの兄で男爵家の長男であるアンドレ・グスタフ・グランホルムは、ウプサラで勉学に励んでいた。


しかし、父であるMin herre(閣下)は爵位の継げぬ「二男」が将来、庶民を相手に「実業」の世界で身を立てる気でいるのだなと心得て、世界でもいち早く産業革命を成功させた「先進国」英国へ、快く送り出すことにした。


同年齢だが身分の差もあって面識のなかったビョルンとラーシュであるが、言葉の違う異郷(英国)では心細かろうという学校側の計らいで、寄宿舎では同室になった。自然と交流は深まった。


だから、パブリックスクールを卒業したあとは、だれもがビョルンはシェーンベリ商会の伝手(つて)で実業の世界へ飛び立つものだと思っていた。

さらに、ラーシュの父・オーケは、林業で儲けた資本を元手にして、今度は国の基幹産業であるスウェーデン鋼(鉄鋼)の分野への参入を虎視眈々と狙っていたため、息子とは反対側の良き片腕になる人材を欲していた。


ところが——ビョルンが選んだ進路は、スウェーデン王国の海軍だった。


そもそも、セント・ポールズ校を選んだ理由は、「仕立て屋の息子」という一庶民に生まれたにもかかわらず「英国海軍の父」と呼ばれるまでになった、サミュエル・ピープスの母校だったからだ。

彼には「商人」になる気など、露もなかったのである。



——あぁ、私も「同じ階層」の相手がよかった。きっと、グランホルム大尉もそうに違いないわ。

念願叶って軍人になり、これで「シェーンベリ商会」からは(のが)れられたと思いきや、今度は「二男」に生まれついたがために下賤な娘を妻に押しつけられるのだ。


それが証拠に、彼らは結婚するにもかかわらず、数えるほどしか会ったことがない。

——なぜなら、貴族である彼とは生まれも育ちも「違いすぎる」から……


結局のところ彼は、自身の父が抱えるシェーンベリ商会への(しがらみ)から、どう足掻(あが)いても抜け出せないでいるのだ。

そんな彼が、リリには気の毒に思えてならなかった。


だから、こんな二人の結婚生活が、愛のない形ばかりのものになるのは、今から目に見えていた。

妻である自分に求められるのは「()き家庭人」として子どもを産み育てることだけで、夫である彼の方は子どもさえもうけられれば、やがて貴族の感覚では「常識」の、家の外で「恋愛を愉しむ」ようになるのであろう。


——やっぱり『ご自分の結婚式』なんて、一生来ない方がいいのだわ……

そう思った彼女は、とうとう今晩「決行」することにした。



゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜



時流に乗って急成長を遂げるシェーンベリ商会の創業者が構えた邸宅の食堂(ダイニングルーム)には、中米から英国に輸入されたキューバンマホガニーを取り寄せて、優美な曲線が麗しいヴィクトリア様式で作らせた、リボン杢の見事な大きなテーブルが備えられている。


ところが、日々の食事でこの一家がそのダイニングテーブルに着くことはない。

当主・妻・息子そして娘のたった四人で使用するにはそのテーブルがあまりにも長すぎて、互いに離れすぎたからだ。

それでも、そんな「距離」の中で黙々と食事を取るのがあたりまえの「貴族」であれば、至極当然の光景だ。

だが、一家にはどうにも落ち着かず、イェーテボリで一番格のあるホテルから引き抜いた料理人がどんなに腕を振るったメニューであっても、その場所では一向に「食べた気」がしなかった。


結局のところ、(ぜい)を凝らした食堂を使うのは、晩餐をともにする客が訪問してきたときだけとなった。

早速、料理人たちが食事の支度をする台所(キッチン)の隣にあった「配膳用」に設けられたさほど広くもない部屋に、ありふれた直線的なデザインのアカマツのテーブルが置かれた。

そして、家族それぞれが四辺のいずれかに腰を下ろし、適度におしゃべりしながら日々の食事をすることになった。


やはり、どれだけ富を得ようとも、彼らは「庶民」であった。



その日も、表面上は——少なくともリリ以外の家族は、いつもどおりの夕餉(ゆうげ)であったはずだ。


しかし、彼女だけはいつになく皿の上のものを次々と胃の中に流し込んでいた。

なにを口にしても、まるで砂を噛んでいるみたいで、まったく味がしない。たとえそれが、彼女の苦手な豚の血を固めたブラッドプディングであってもだ。


「あら、めずらしいわねぇ。いつも顔を(しか)めて、いかにも(いや)そうに食べるのに」

母親のヘッダ・シェーンベリが、息子と同じ紺碧(ディープブルー)の瞳を見開いて言った。その鮮やかな金の髪(ブロンド)は娘が譲り受けている。


「いつまでも子どものように好き嫌いなんか言っていられないさ。いくらKapten(大尉)が爵位を継がぬとはいえ、リリはHedrande(貴族の令息)の妻になるのだからな。それに、彼の海軍の部下にも示しがつかないだろうよ」

父親のオーケが、妻の言葉を受けて満足げに応じた。彼は娘と同じ翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳に、息子と同じ灰色がかった金色の髪(アッシュブロンド)を持っている。


リリの咥内を突然、豚の血の生臭さと(えぐ)みが襲った。味が戻ってきたのだ。

——一刻も早く、言わなければいけない。


しかし、リリが焦れば焦るほど、言い出すきっかけがないままに、食後の珈琲(フィーカ)になってしまった。

裕福になるとともに、すっかり料理をしなくなったヘッダだが、珈琲だけは今でも(おの)ずから淹れている。


「あぁ、そうだ……グランホルムから、軍務が忙しくて間近にならないとこちらには来られないと便りが来たよ。みんなによろしく伝えてくれ、って」

ラーシュは母の淹れた珈琲を味わいながら、今日届いた手紙の内容を告げた。

彼は「学友」を名ではなく(ファミリーネーム)で呼んでいる。イギリスの紳士(ジェントルマン)の間柄では、ままあることらしい。


「大尉はカールスクルーナからイェーテボリ(こちら)へ?それとも、ストックホルムからか?」

オーケも妻の珈琲をじっくりと味わいながら尋ねる。

先程のリリの結婚の話はさほど広がりもせず、いつの間にかこの界隈の噂話に移っていたのだが、ラーシュの一言でまた話題が戻った。


本来ならば、やんごとなき方々(貴族階級)の結婚式は、彼らのタウンハウスが集まる首都・ストックホルムで挙げるべきであろうが、大尉が嫡子でない二男であることやシェーンベリの本拠地があることから、イェーテボリになった。

よって、シェーンベリ関係の参列者がグランホルム家よりもずっと多くなってしまうのは確実だ。


母が目の前に置いてくれた珈琲を(うつ)ろな気持ちで見つめていたリリは——今だわ、と決意した。

「……私……グランホルム大尉とは……結婚……できないわ……」


「い、いきなり……な、なにを言い出すの?」

ヘッダが、青ざめた顔に唇を震わせて娘を見た。


「おかあさま……私は本気よ」

リリは、母親をまっすぐ見据えて告げた。


「だって……そんな……結婚式は今月なのよ?」

グランホルム大尉とリリの挙式は今月末の Midsommar(夏至祭)の一週前に予定されていて、それはあと二週間後に迫っていた。


「ごめんなさい……でも、どうしても……私には無理なのよ……」


先ほどまでの穏やかで和やかな雰囲気は、今やすっかり過去のものとなっていた。

「まさか……好きな男でもいるのか?」

ため息とともに、ラーシュが問うてきた。


「そんな(ひと)なんて、いないわ」

リリは、即座に否定した。

そもそも、異性に出会う機会すらないのだ。貴族の子女と違って「社交シーズン」がなく、教会での礼拝や奉仕活動(ボランティア)以外には街へ出かけることもない。

日々、(やしき)の中で本を読んだり縫い物や編み物をしたりして過ごす生活をしている。


「だったら……なぜ……今になって……」

ヘッダは消え入りそうな声でつぶやいた。

嫁ぐ前は父親に、嫁いだ後は夫に従って、家族のために生きることに何の疑いも持たぬ彼女には、父親の意向に(そむ)こうとしている娘の「所業」がさっぱり理解できなかった。


「本当の理由はなんだい、リリ?……どうして、グランホルムとでは『無理』だと思うの?」

今度は(なだ)めるような感じで、ラーシュが尋ねてきた。


「だって……住む世界が違うわ。彼はHedrande(貴族の令息)だもの」

「『住む世界』って……彼は爵位も継がないし、HedrandeというよりはSoldat(軍人)だけどねぇ……」

「彼がどういう人なのかなんて、私にはわからないわ。なぜなら、婚約が決まったあとも、ほとんど顔を合わせたことがないのだもの。彼の方こそ、私のような商人の娘などと結婚なんかしたくないのではなくて?」

「確かに、彼は軍功をあげるために、この三年間ほとんど賜暇に目もくれず、軍務に没頭していたことは否めないけれどね」


「だったら……いっそうのこと私なんかより、軍の中でもっと出世できそうな上司の息女とでも結婚なさった方がよろしくて?」

リリはその翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳を(かげ)らせて、じっと兄を見つめた。

「これは……彼のためでもあるのよ」



「——リリ」

それまで黙っていたオーケが、口を開いた。

「覚悟はできてるんだな?」


リリは自分を励まして、父親の方へ向き直った。

「理由はどうあれ、こんな間際になって結婚を取りやめようと言うのだ。しかも、相手は貴族であり軍人でもある。顔を潰すことはもちろん、向こうのプライドも粉々になるだろうな」

貴族や軍人にとって、自尊心(プライド)が粉砕されるのは、なににも増して屈辱であろう。


「もちろん考えもなしに、こんな大それたことは言えないわ。おとうさまがこれまでに築き上げてきた信頼を失墜させることも……家族には心配だけでなく、多大なる迷惑をかけることもわかっているつもりよ。エマとの結婚を来月に控えたラーシュのことも気がかりだわ。……それでも」


そして、リリは父に向かってきっぱりと言い切った。

「私は修道院に入って、イエス様の花嫁としてSister(修道女)となるわ。そして、その後はグランホルム大尉に日々懺悔をし、また世の中の人たちのために毎日マリア様にお祈りをして、私にできうるかぎりの奉仕活動をしながら生きて行くつもりよ」


「おぉ……リリ、だめよ……駄目だわ……そんなの……いけないわ……」

とうとうヘッダの紺碧(ディープブルー)の瞳から、はらはらと涙が溢れ出した。


「おかあさま、もっと早くに言うべきだったわ。でも、許してちょうだいな。もう、Nunna(修道女長)にはすっかりお話をして、私をスウェーデン修道会に受け入れてもらう手はずになっているの」

「……そんな……いつの間に……」

ヘッダは崩れるようにテーブルに突っ伏した。ラーシュが駆け寄って、そっと母の背に手を置いた。


「私は、自分のたった一人しかいない娘に、そんな決意をさせるために旧教(カトリック)から新教(プロテスタント)に改宗しなかったわけでも、今まで修道会に多額の寄付をしてきたわけでもないのだがね」

オーケは苦々しくそう言ったあと、重い息を吐いた。彼らは、スウェーデンではめずらしくカトリックのキリスト教徒である。


贖宥状(しょくゆうじょう)を購入すれば、教会から犯した罪が(ゆる)されるというローマ・カトリックに対し、ドイツのマルティン・ルターが抵抗(プロテスターリー)して始まった宗教改革によって、この国のキリスト教徒の多くが福音ルター派(プロテスタント)に宗旨替えしたのだが、彼ら一族は相変わらず旧教徒だった。


オーケは若かりし頃、新教徒であるヘッダとの婚姻の際に改宗しようかと、かなり迷った。

だが、彼女の方がすんなり旧教徒になったことと、同じ宗教改革の立役者でもスイスのジャン・カルヴァンのように物を生み出さずに金銭だけを動かして儲ける(あさ)ましい存在として見られてきた商工業者に光を与えてくれる宗派であればいざ知らず、農民のためにドイツ農民戦争を闘ったルターは商工業者に対しては旧教とさほど変わらない見解であったから、彼は結局そのままでいた。


しかし、このときばかりはそれを後悔していた。

新教であれば修道会がないため、そもそも生涯独身であることを義務付けられたMunk(修道士)Nunna(修道女)もいない。たとえ聖職者(牧師)であろうと婚姻は自由だ。


リリにとって、グランホルム大尉との結婚に抗いたい理由の一つに、この宗教上の問題が大きくあった。


男爵・グランホルム家は福音ルター派に属していた。

福音派ルターの信徒にとって信仰の指針となるのは「聖書に書かれている」ことのみである。「聖書に書かれていない」聖母マリアを信仰することは「聖書に(そむ)く」行為となる。


カトリック教徒であるリリは結婚式の直前に改宗することになっている。

それは、彼女が心より信奉するマリア様への信仰の証である、肌身離さず身につけているロザリオを手放さねばならないことを意味する。


それが——リリにはどうしてもできなかった。


「——そこまでの決意があるならば、大尉に会って自分自身でこのことを申し入れ、その理由を(つまび)らかに説明し、あとはひたすら誠心誠意、謝罪を尽くさねばならない」

オーケは、リリに向かってきっぱりと命じた。


「えっ……?」

リリは言葉を失った。

貴族(むこう)の慣例により、他家との間でなにかを決める際には、必ず使者を立てて互いの意見を擦り合わせることになっていた。

彼らにとっては、両家が面と向かって子細をあれこれ述べ合うというのは、無粋で非常識ないかにも「庶民的な」所業なのだ。


——親同士ですら、直接話し合うことはないのに、私が自身でグランホルム大尉に申し上げるの?


「そうだね。彼の気性からみても、間に立った使者から聞かされたところで納得しないだろうしね」

ラーシュも父親の意見に賛同した。

「とはいえ、私たちも仕事があるからね。急に言われても都合がつかないよ。だからと言って、いくら断る側といえども、嫁入り前のリリを彼の住むカールスクルーナへ一人で行かせるわけにはいかないからなぁ。彼は結婚式の間際にならないと、イェーテボリには来られないと言っていたけれど、仕方ないね。……それでは、一刻も早くこちらに来るように、と彼に便りを出すよ」


婚約者同士であるはずの大尉とリリには、手紙でのやりとりはほとんどなく、二人が会見する手はずはいつも、兄の手に委ねられていた。


「……そんな……どうして……こんなことに……」


その後は、未だテーブルに突っ伏したままのヘッダのすすり泣く声だけが、ほんの先刻(さっき)まで家族の団欒の場であったはずのこの部屋に響いた。




◇ Kapitel 2 Dans på balen/かつての舞踏会にて



グランホルム大尉と婚約した年、たった一週間ほどであったが、リリは彼の生家のタウンハウスがあるストックホルムに滞在したことがあった。


貴族たちの社交シーズンの真っ只中で、彼らに婚約者として「御披露目」される機会でもあった。



゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜



その日の晩、シェーンベリの財力をここぞとばかりにふんだんに使った翡翠(ひすい)色のイブニングドレスを纏い、リリは舞踏会へ赴いた。


今シーズンの英国の社交界で一世風靡しているという、全体的には身体(からだ)にフィットしたラインだが、ヒップの部分だけはふっくらと盛り上がったバッスルスタイルの最新デザインだ。

また、そんなシンプルなドレスに合わせた小振りの帽子に、たっぷりと結われた彼女の黄金の髪(ブロンド)が会場となった某伯爵家の大広間(ホール)にある荘厳なシャンデリアの光に照らされて、宗教画に描かれる神話の女神のごとき輝きを放っている。

さらに、帽子にもドレスにもさりげなく散りばめられた(しかし、とんでもなく上質で高価な)金剛石(ダイヤモンド)が彩りを添える。


今夜のリリコンヴァーリェ・シェーンベリ嬢は、たとえ英国のヴィクトリア女王陛下がご臨席の宮廷舞踏会であっても、ほかの英国貴族の令夫人や令嬢たちに遜色のないどころか、間違いなく彼らから羨望の眼差(まなざ)しで見つめられることであろう。


……ところが、ここは英国のロンドンではなく、スウェーデンのストックホルムだった。


『——みなさま、「あの方」をごらんあそばせ。このような場にあのように貧相な…… あら、ごめんあそばせ。「堅実」なドレスでお越しになるとは』

『ずいぶんと襟元が詰まっていらしてよ。お袖も張り付いたようにぴったりとしているし』

『お胸に自信がないからではないのかしら?けれども、後ろの……なぜか恥ずべきところだけが盛り上がっていてよ?』

『まぁ、なんて品性を問われるデザインなのかしら』

『それに、あのお帽子をごらんあそばせ。頭の上にちょこんと乗せていらっしゃるけれど、子ども向けでも首を傾げざるを得ない大きさなのでは?きっと、私たちの間で流行(はや)っているお帽子をご存知ないのね』


『……あの方、グランホルム大尉の婚約者だそうよ?』

『あら、そうなの?あの方が、大尉のお相手?どのような方なの?』

『確かあの方の父親は、イェーテボリの木材商人だと聞いたわ』

『まぁ、大尉は同じ家格の令嬢と縁組なされなかったの?」

『なんでも、大尉のご生家の領地にある材木を、その木材商人が商売の(かて)にしているそうよ』

『ではそれを盾にして、自分の娘を由緒ある男爵家と縁組みさせた、っていうこと?』

『本当は長男のアンドレさまを、ということだったのが、すでに男爵・ヘッグルンド家のウルラ=ブリッド嬢とご婚約なさってるでしょう?』

『それで、二男のビョルンさまに?』

『そんなあんまりだわ。あまりにも、大尉がお気の毒すぎるわ』

『おぉ、嘆かわしいわ。そのような(ひと)が、グランホルム大尉の婚約者だなんて……』

『ほんと、大尉がお気の毒でならなくてよ』

『だけど、「商人」であったら、さぞかしあり余るほどの資産があるでしょうに』

『宝石も、ずいぶんかわいらしい大きさのものばかりね。 ドレスもお帽子も装飾品(アクセサリー)も、みな「堅実」なものばかりだわ』

『さすが「商人」の「お見立て」ね。きっと、私たちが見倣(みなら)うべき「倹約家」に違いなくてよ——』


孔雀や駝鳥(ダチョウ)の羽根で縁取った大きな扇で口元を隠しながらひそひそと話す彼女たち——錚々(そうそう)たるスウェーデン貴族の令嬢たちは、だれもが大きくて華やかな帽子を得意げに被っていた。(実際に、ほかのだれよりも大きくて華やかなものを、と競い合っている。)

そして、揃いも揃ってドレスの(ひだ)の部分をまるで釣鐘のように膨らませるために、その下に針金で枠組みを作ったクリノリンを身につけていた。

さらに、フランス菓子のボンボンのようにふっくらとさせた重厚感ある袖とは対照的に、胸元はぱっくりと開かれていて、そのためコルセットで持ち上げられた乳房のほとんどが(あら)わになり、あともう少しでその「先端」が見えそうだ。

おそらく、ダンスを踊る際にはお相手となる殿方にはその「恥ずかしい蕾」が上から覗けるのではなかろうか。


とにもかくにも——彼女たちの「最新ファッション」が、英国の上流社交界では「前世紀の遺物」であることに間違いはなかった。


令嬢たちの声は、慣例により一曲目に婚約者(パートナー)のグランホルム大尉とダンスをしたあと、vinbä saftスグリのジュースで喉の渇きを潤していたリリの耳にも入ってきた。

当然、隣でbrännvin(蒸留酒)を含んでいた彼にも聞こえていることだろう。

しかし、二人の間には会話がなかったので、彼がどのように思っているかは彼女には測りかねた。


すると、そのとき——

『ごきげんよう、ビョルン。こんな隅にいたのね?まるで壁の花ではないの』

黒みがかった栗色の髪(ブルネット)榛色(ヘイゼル)の瞳の美しい女性が、長身の男性にエスコートされてやってきた。


『こちらが……あなたの婚約者になった方よね?私たちに紹介してちょうだいな』

石榴石(ガーネット)色のそのイブニングドレスは、ヒップの部分がふっくらと盛り上がったバッスルスタイルで、リリと同じ最新デザインだった。

ちょこんと乗った帽子も小振りで、たっぷりと結われた髪も同じだ。


『……リリコンヴァーリェ・シェーンベリ嬢だ』

グランホルム大尉は大広間(ホール)を巡る給仕から差し出されたfläder saftニワトコのジュースを受け取り、それを女性の方に渡しながら(かたわ)らの婚約者の名前を告げた。

『リリコンヴァーリェ嬢、私の兄のアンドレとその婚約者である男爵・ヘッグルンド家のウルラ=ブリッド令嬢だ』

そして今度は、婚約者に彼らの名前を告げる。


『グランホルム閣下、ヘッグルンド令嬢、この度はお二方(ふたかた)相見(あいまみ)える光栄に至り、感謝の意とともに、今後ともどうぞお見知りおきを……』

Hedrande(貴族の子女)ではないリリが先んじて、形式に(のっと)った「カーツィ」をする。

重たいドレスで片足を後ろに引き、その膝を床につくぎりぎりまで深く折るお辞儀のため、バランスを取るのが難しい体位(ポーズ)であるにもかかわらず、彼女の姿勢はいっさい(かし)ぐことはなかった。


『あら、堅苦しいご挨拶はお()しになって』

ウルラ=ブリッド令嬢が開いた扇子で口元を隠しながらも、朗らかに笑った。

小さいながらも繊細なレースに一見絵画のような刺繍が施された、技巧を凝らし尽くした扇子だった。

これもまた、リリと同じだった。


『リリコンヴァーリェ嬢、私たちはこれから姉妹になるのではなくて?私には弟しかいないから、今から待ち遠しく思っているというのに』

澄んだ彼女の声が伯爵家のホールに響いた。


今までちらちらと見ながら噂話をしていた令嬢たちの目が、一斉にこちらを向いた。

すると、「あの方」とほぼ同じスタイルをして現れたウルラ=ブリッド令嬢が視界に入り、みなぎょっとした顔になった。


『私はまだ父から爵位を譲られたわけではないからね。それに、たとえ爵位を持っていたとしても、弟の妻になる人から「閣下」と呼ばれるのは勘弁してほしいね』

答礼としてリリの手を取ったアンドレ・グランホルム氏は、彼女の白い手袋の手の甲に触れるか触れないかの優雅な口づけをした。

令嬢たちの刺すような視線を、リリは感じた。


『私たちの婚約者たちは「殿方のお話」があるそうよ?……ねぇ、少しばかり外へ出てみない?こちらの伯爵邸のお庭はとてもすばらしくてよ』

『そうだね。ぜひ、ウルラ=ブリッドと一緒に散策するといいよ』

ウルラ=ブリッド令嬢の「提案」に、彼女の婚約者はまさに「貴公子」というふうに気品高く微笑んで後押しした。


それでも決めかねるリリは、隣にいる自身の婚約者を仰ぎ見た。

すると彼が肯いたので、彼女は『それでは……』とウルラ=ブリッド令嬢と庭に出てみることにした。


リリは大広間(ホール)を去るとき、並んで立つグランホルム家の兄弟をちらりと見た。

白金の髪(プラチナブロンド)琥珀色(アンバー)の瞳を持つ彼らは、とてもよく似ていた。

だが、二人ともこの国の男たちによく見られる長身ではあるけれども、兄の方がほんの少しだけ高く、学究肌であるためかすらりとしていて、弟の方は軍隊で鍛えられたのか、がっしりとして身体(からだ)に厚みがあった。


『ビョルン、その仏頂面は失礼だぞ。……あのように美しい婚約者だというのに』

兄が弟を(たしな)める声が聞こえてきた。


しかし、そのあとに発された弟の言葉は、突如始まったダンスを(いざな)う楽団の調べ(ワルツ)にかき消されて、聞こえなくなった。



某伯爵邸の庭園に降り立つと、すっかり夜の(とばり)が下りる時刻ではあるが、今はMidsommar(夏至祭)の季節なので、まだまだ陽が高い。

この時季は、真夜中を過ぎても太陽が地平線よりも深く沈まず、いつまでも薄暮の空が続くのだ。


『……こちらにおいでになって、リリコンヴァーリェ嬢』

ウルラ=ブリッド令嬢から手招きされて、リリはイブニングドレスの裾を注意深く(さば)きながら、いそいそとあとをついていく。


迷路のような庭園にもかかわらず、迷わずにどんどん進んでいく令嬢を追って、リリも歩みを早めていくと、いつしか庭園の片隅にlusthus(四阿)が現れた。

冬になると雪深くなるこの地では、四阿(あずまや)といっても風通しを考えた吹き(さら)しの造りではなく、きちんと四方を木材で囲った壁があるため、ちょっとした小屋のようだ。


彼女たちは中へ入って、大きく切り出された窓から、外の景色を見た。

すると、眼前の一角には可憐な白い花房たちを枝垂(しだ)れさせたliljekonvalj(鈴蘭)が、今を盛りに咲き誇っていた。

一年の半分が冬だと言っていいこの国では、リリコンヴァーリェの開花が、長い長い冬が終わり待ちに待った夏の到来を告げる、なによりもうれしい報せである。


『いかがかしら?私、ビョルンにあなたのお名前を伺ったときから、こちらにお連れしたかったのよ』

ウルラ=ブリッド令嬢が朗らかに笑った。もう扇子で口元を隠してはいなかった。


『まぁ、なんて見事な……しかも、美しくてかわいらしい……それに、もうすっかり『夏』が来たのね……』

リリは思わず、吐息とともにそう漏らした。自分の名を冠した花——谷間の姫百合(リリコンヴァーリェ)が、もちろん大好きだ。


ウルラ=ブリッド令嬢に向き直り、この場に案内してもらったお礼として、リリが改めてカーツィをしようと膝を折ろうとしたそのとき——


『お待ちになって、リリコンヴァーリェ嬢。……お礼を申さねばならないのは、私の方だわ』

そう言って、ウルラ=ブリッド令嬢は膝を深々と折り、リリに対してカーツィをした。

「これぞ、男爵令嬢のカーツィ」というお手本のような、綺麗なだけではない気品と威厳を保った「完璧なカーツィ」であった。


『……あの……ヘッグルンド令嬢……?』

リリは訳がわからず、たじろいだ。

『あなたのご尊父オーケ・シェーンベリ氏には、我が父である男爵 ヨアキム・ヴァルデマル・ヘッグルンドおよび男爵領マーロウ領民になり代わり、私 ウルラ=ブリッド・ヘッグルンドが厚く感謝の意を申し上げるわ』


『いいえ……そんな……もったいないお言葉……』

リリは恐縮しながら、答礼のカーツィを返した。


『我がヘッグルンド領・マーロウは、北極圏に面した土地のため農業に適さず、かと言って近隣のシェレフテオのように鉄鉱石などの鉱産資源が採掘できるでもなく……本当に、森林しかないところなの。だから、男爵・グランホルム閣下のご紹介で父がシェーンベリ氏とのつながりを得て、我が領地でも林業に活路を見いだせて、おかげで貧しかった領民たちに仕事を与えることができたのよ』


シェーンベリ商会では、スウェーデン北部のヴェステルボッテン地方にあるグランホルム領ノーショーの木材だけでは賄えないときは、その隣にあるヘッグルンド領マーロウからも木材を搬出していた。

グランホルム領にしろ、ヘッグルンド領にしろ、「新事業」への新たな従事者の多くは、このスカンディナヴィアの北極圏に古来より住まう民、サーミ人だった。

昨今、この国の政府は彼らに対して、トナカイを遊牧させながらコタと呼ばれる移動式のテントで寝起きして暮らす生活をやめさせて、町に出て職に就いて定住する「同化政策」を推し進めていた。


『それから……あなたの「お相手」が、アンドレでなかったことにも、御礼申し上げるわ』


当初、男爵・グランホルム家とシェーンベリ商会との間に「婚姻」話が持ち上がったとき、嫡男・アンドレ氏とリリコンヴァーリェ嬢との縁組のはずであった。

シェーンベリとの「絆」をより強固なものにするためなら、アンドレ氏とウルラ=ブリッド令嬢が幼少の頃から結んでいた婚約など反故にしてしまっても構わないと、男爵・グランホルム閣下は思っていたからだ。

貴族階級では「当家の事情」により「相手が変わる」のはよくあることだ。


しかし、中産階級(平民)であるリリの父は「生木を裂くように二人を別れさせて(リリ)を割り込ませても、おそらくだれも幸せにはなれないだろう」と考え、まだ婚約者のいなかった二男のビョルン氏を望んだ。


『いいえ……私は……本当になにも……ただ、父の意向に沿っただけで……』

リリは恐縮しきりであった。


『それにね、今夜のこのドレスも帽子も扇子も、あなたのお父様が「貴族様のパーティに慣れない娘のためにお力添えを賜りたい」とおっしゃって、私に贈ってくだすったのよ。英国で今、とても流行(はや)っているデザインなんですってね?』

そう言って、ウルラ=ブリッド令嬢はうっとりと自分の石榴石色(ガーネット)のバッスルスタイルのイブニングドレスを眺めた。


装飾品(アクセサリー)の宝石類だけは、男爵・ヘッグルンド家に代々受け継がれているものをつけていたが、あとはすべてシェーンベリによって用意された「最新の英国スタイル」だった。

『クリノリンの不要なドレスがこんなにも快適だなんて、思いもよらなくてよ』

ウルラ=ブリッド令嬢は快活に笑った。

『私ね、子どもの頃から乗馬が大好きなのよ。普段はしょっちゅう乗馬服でいるものだから、堅苦しいドレスは苦手なのだけれども、こういうデザインなら、軽くて動きやすいからいいわね。……あなたは、乗馬をなさって?』


『いいえ、わたしは……』

リリは首を左右に振った。

「貴族の御令嬢」には乗馬を(たしな)む人がいると家庭教師(グヴァナント)に言われて、何度か試してはみたのだが、馬上があまりにも高く感じられて怖くなってしまい、すぐに降りていた。


『あら、そうなの。でも、これからはおやりになった方がいいわ。ビョルンも子どもの頃から乗馬が大好きなのよ。あなたも始めたら、喜んで遠乗りに連れて行ってくれてよ?』

——グランホルム大尉が望まれるのなら、たとえ怖くても、また挑戦するしかなさそうね。


『アンドレだけではなくて、ビョルンも私にとっては幼なじみなの。だから、彼のことでなにか知りたいことがあったら、なんでも聞いてちょうだいな』

ウルラ=ブリッド令嬢は悪戯(いたずら)っ子のような笑みを浮かべた。


だが、しかし——

『物心がついたときにはもう、私とアンドレは婚約者同士だったけれども……あなたが現れて、人間の人生って、なにがきっかけとなって、どう転ぶかわからないものだと思ったわ』

ウルラ=ブリッド令嬢は一瞬、遠い目をした。

『もし、あなたがアンドレと結婚することになって、彼と私の婚約が解消されていたとしたら……』


一人の(ひと)と永い間婚約していた彼女が、相手側からいきなりそれを破棄されたとしたら、その後はかなり不利になることだろう。

おそらく、同年代の青年貴族の妻になるのは望むべくもない。

格だけはうんと上の貴族であろうと、かなり歳上の寡夫(やもめ)後妻(のちぞえ)におさまるのが関の山だろう。

もしくは、破棄した側が「責任を取る」というかたちで——


『私の新しい婚約者には……ビョルンがなっていたかもしれないわね』



『探したよ……こんな庭の外れにいたのか』

ふと声がして、四阿(あずまや)の出入り口に目を向けると、グランホルム兄弟が立っていた。


『ビョルンが見当をつけて探していたから見つけられたものの、いくら陽が高い時季といえ、もう夜の九時を過ぎているんだ。こんな人目につかない場所で、女性二人きりでいられる時間ではないよ』

兄のグランホルム氏が、婚約者に右手を差し伸べながら(たしな)める。


『あら、心配をかけてしまったわね。ごめんあそばせ、アンドレ』

ウルラ=ブリッド令嬢は、悪戯(いたずら)が露見したおさない子どものように肩を(すく)めた。

『リリコンヴァーリェ嬢、それぞれにお迎えも来たことだし……そろそろ戻りましょうか』

婚約者の手を取った彼女は、ふふふ…とリリに向かって微笑んだあと、ちらりとグランホルムの弟の方を見た。

すると、彼も自分の婚約者に右手を差し出した。リリはカーツィをして、恭しく彼の手を取った。


彼らは四阿(あずまや)をあとにした。

グランホルム氏とウルラ=ブリッド令嬢が腕を組んで歩き、谷間の姫百合(リリコンヴァーリェ)の咲き誇る一角から、広間(ホール)へと戻る小径(こみち)に出る。

グランホルム大尉とリリも、彼らの後方で同じく腕を組んで歩く。


前を行く二人は仲良さげに顔を見合わせながら、話題に事欠くことなく会話が続いていた。

だが、後ろの二人は互いにむっつり押し黙ったままだった。


『あ…あの……グランホルム大尉……』

とうとう沈黙を破って、リリは話しかけてみた。

大尉がリリを見る。

彼女は女性の中では背の高い部類ではあるし、今は(かかと)が相当高い履物なのだが、それでも頭半分くらいの身長差があるため、彼が見下ろす形になる。

『先ほど、ヘッグルンド令嬢から伺って……大尉は、乗馬がお好きだとか……』


そして、リリは思い切って顔を上げ、大尉に訊いてみた。

『あの……それで……これを機会に、私も乗馬をやってみようかと……』


『…………ない』

即座につぶやかれた大尉の声はくぐもり、至近距離のはずのリリにさえ聞き取れなかった。

『はい?……申し訳ありません。うまく聞き取れなくて……』


すると、今度は、はっきりと告げられた。

『あなたが乗馬など、する必要はない』



大広間(ホール)では、しばしダンス(ワルツ)を中断して主宰である某伯爵が企てた「余興」として、サーミの民の少女がJojk(ヨイク)を歌っていた。

ヨイクとは、彼らサーミの民に古来より伝承されてきた歌唱である。

彼女の歌は、楽団の伴奏を必要としなかった。それでも、たったひとりの少女から放たれた澄み切った声が、ホール全体に木霊(こだま)のように響き渡っていた。

それはまるで、真冬の極夜の空を彩る光のカーテン——Aurora(オーロラ)を思わせる、天より「降ってきた」聖なる声だった。


『あら、あの子近頃評判の歌い手じゃなくて?確か……リサ、って名前だったと思うわ。最近、国内を巡って歌う宣伝のために写真を撮ったそうよ』

ウルラ=ブリッドが彼女を見て言った。

『画家に姿絵を描かせるのではなくて、技師に写真を撮らせたの?』

グランホルム氏が驚いた。最先端の「写真」は、なかなかの高額なのだ。


リサと呼ばれた歌い手の少女は、遠くOrient(東洋)の民の血が混じっている言われるサーミの民の特徴からか、ずいぶんと小柄で「美しい」というよりは「愛らしい」というべき幼い顔立ちをしていた。

鮮やかな青と赤で彩られたフェルト地に細やかな刺繍の細工が施されたコルトという膝丈の民族衣装を着て、トナカイの皮で作られたヌツッカートという爪先が羊の(つの)みたいにくるんと巻き上がった長靴を履いていた。


『——あら、(いや)だ。ごらんあそばせ、辺境(ラップ)人じゃなくて?』

『まぁ、本当。(伯爵)も酔狂だこと。なにゆえ、このような華やかな場にあのような下賤な者を?』

『嘆かわしいわ。卿の悪ふざけも、ここまでなさるとさすがに過ぎていてよ』

「高貴な」令夫人や令嬢たちが眉を(ひそ)め、大きな羽根の扇で口元を隠してひそひそと(ささや)き合った。興が醒めた、とホールを退席する貴族も少なからずいた。


ところが、少女(リサ)は最後の歌の♪Den blomstertid nu kommer(花の咲きこぼれるあの季節がやってくる)まで、高らかに歌いきった。

この時季にぴったりな、そしてこの国の民が愛してやまない、夏への讃美歌である。


大いに盛り上がったところで彼女は退き、そのあとはまた楽団がダンスを(いざな)う調べを奏で始めた。

しかし、聞こえてくるのは三拍子の調子(リズム)をきっちりと守る格調高き円舞曲(ワルツ)ではなく、同じ三拍子のはずなのにどこか変速的に聴こえるPolska(ポルスカ)であった。


ポルスカとは、もともとは「ポーランド風の音楽」という意であったが、今ではこの国スウェーデンの市井(しせい)の民が愛する庶民的な音楽のことを指すようになった。

幼い頃から親しんだ陽気でやんちゃな曲調(メロディ)に煽られて、一代貴族である Riddare(士爵)の家の若者たちが、次々とダンスフロアへと飛び出して行く。


リリも正直いって、内心うずうずしていた。

生まれ育ったイェーテボリの街では、毎年行われるMidsommar(夏至祭)の際には、明るく軽快なポルスカの調べに乗って、いつまでも明けぬ白い夜の下、ほぼ夜通し踊るのだ。

そこに、人々の貴賎はない。老いも若きも、富める者も貧しい者も、みな無礼講で一晩中踊り狂うのだ。


『……失礼、あなたをポルスカ(ダンス)にお誘いしても?』

不意に、士爵を名乗る青年がリリに手を差し出してきた。

一瞬、思わずその手を取りかけたリリであったが、すぐ隣にはそうはさせない存在があった。

いくら舞踏会とはいえ、近い将来男爵家の一員になる予定の娘が踊るダンスとしては、不適切なのは火を見るより明らかだ。

——グランホルム大尉の御名に傷がつくことはできないわ。

『ごめんあそばせ。私には婚約者(パートナー)が……』


その夜、リリがその手に限らず、だれかの手を取ってダンスフロアでポルスカを踊ることはなかった。




◇ Kapitel 3 Återförening/再会



昼餐を終えた昼下がり、「珈琲、飲まないか?(Ska vi fika?)」とリリを誘ったラーシュが、珈琲(フィーカ)を飲みながら言った。

「……グランホルムへの手紙に『仕事が立て込んでいるのはわかるが、(リリ)がこれからのことについて話したいと言っている』と書いて送ったら、彼から『でき得る限り早く仕事に段取りをつけて、イェーテボリに出向く』と返事が来たよ」


「そう……ありがとう、ラーシュ」

兄に礼を述べたあと、リリもRörstrand(ロールストランド)のカップを持ち上げ、中の珈琲を含んだ。

「私はそれ以上のことは書き記してないからね」


つまり——グランホルム大尉は、リリの話がどういうものなのかをよく知らずに彼女の(もと)へやってくる、というわけだ。

彼がいつ到着するかなんて、まだまったく予想もつかないにもかかわらず、リリに緊張が走った。

家同士のつながりに重きを置く、彼の属する貴族社会では考えられない、本人——しかも女性の方から直接婚約破棄の申し出をするという、その特異さと重大さを、彼女は改めてひしひしと感じた。


「……後悔しないように、おやり」

そうつぶやいて、ラーシュはまた珈琲を飲んだ。


テーブルの皿の上に盛られたkanelbulle(シナモンロール)は、ひさしぶりに彼らの母親が(おの)ずから作ったものだった。

いかにも家庭の主婦が作ったという素朴な見た目と味だが、まだ兄妹が幼かった頃、競うようにして食べた思い出深いお菓子だ。


しかし、この日の二人は、とうとう手をつけずじまいだった。



゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜



そして、グランホルム大尉がリリを訪れる日が来た。


スウェーデン王国軍の海軍——Kangliga Flottan(王立艦隊)の本拠地である軍港の街・カールスクルーナから、船でイェーテボリに到着したグランホルム大尉は、その足でシェーンベリ邸にやってきた。


シェーンベリ父子との固い握手によって出迎えられた大尉は、ひとまず男性の訪問客のための応接間(スモーキングルーム)に通され、今般の世界情勢やそれにまつわる政治情勢などを、軍の機密に触れない程度に彼らと語り合って情報交換したのち、ようやくリリの(もと)へと姿を現した。


(やしき)の南側に造られた大きく張り出したアーチ状の屋根の下、広い庭園が一望できるよう窓が最大限に切り取られた温室(オランジュリー)に、リリはいた。

そこにはAlmedahls(アルメダールス)の布地がふんだんに使われた座り心地のよい長椅子(ソファ)が並べられ、晴れた日はもちろんのこと、雨の日も雪の降る日もどんな天候であろうと、珈琲(フィーカ)を飲みながら目の前の庭園をゆったりと愛でることができる談話室(サロン)ともいうべき場所であった。

だから、スモーキングルームやドローイングルームなどとともに訪問客をもてなす「応接間」の一つになっていた。


しかし、今の彼女にとっては、ちっとも居心地の良い場所とは思われなかった。

ついに——このときが来たのだ。


オランジュリーに入ってきたグランホルム大尉を、リリは緊張から青ざめた表情で見上げると、姿勢良く腰掛けていたソファから、すっ、と立ち上がった。

父や兄が気を利かせたのであろうか。人払いされ、この部屋には彼ら以外の者はいなかった。


「ごきげんよう……」

リリは形式に(のっと)ったカーツィをした。

「グランホルム大尉、この度は、わざわざお呼び立てして……」

濃紺のスウェーデン海軍の軍服を纏った大尉は、答礼として彼女の手を取り、その甲にぎりぎり触れぬ口づけをした。


「リリコンヴァーリェ嬢、あなたがこれからのことについて私に話があるという手紙を、シェーンベリ……あなたの兄からもらったのだが」

天候(形式に則った)の挨拶すらないままに、大尉は単刀直入に訊いてきた。彼の琥珀色(アンバー)の瞳が彼女をぴたりと見据えている。

まるで、尋問のようだ。

軍人らしく威圧感のあるその鋭い視線に圧倒されて、思わず目を逸らしそうになる。


けれども、心を励ましてリリは告げた。

「グランホルム大尉、このような直前になってからの私の申し出を、どうかお許しになって……」

ことの重大性と大尉に対する申し訳なさから来る罪悪感とで、その声は小さく、しかも(かす)れて上擦(うわず)っていた。


「私……あなたとの婚約を……解消させていただきたいの……」


重苦しい沈黙がしばらく続いたあと、グランホルム大尉の口が開いた。

「……ソファに腰掛けても?」

彼はオランジュリーに入った途端に、リリから「宣告」を受けた格好になっていた。つまり、まだ立ったままだった。


「まぁ、ごめんあそばせ、とんだご無礼……どうぞ、そちらにお掛けになって」

リリは非礼を詫び、あわてて相対(あいたい)する長椅子に彼を促した。そして、彼女も腰を下ろす。


そのあと、供された珈琲(フィーカ)を無言のまま飲み終えた大尉は、改めてリリの方へ目を向けた。

理由(わけ)を聞かせてくれないか?」

彼の琥珀色(アンバー)の瞳が、彼女を冷たく射抜く。ものすごい眼力だった。


「あなたの方から私に話があるというのは、初めてだからな。もしかして、不都合な話であろうことは予測していたが……」

彼は眉根をぐーっと深く寄せ、苦りきった表情になっていた。

——怒っていらっしゃるのだわ。それも、途方もなく。


「しかし、このような間際になって、あなたが婚約を解消したいというからには、余程の理由があってのことではないのか?」

——無理もないわ。私のような下賤の者から、こんな屈辱的な仕打ちを受けたのだもの。

リリはとうとう耐えきれず、大尉の強い眼力から目を逸らしてしまった。


「大尉、どうかお許しを……本当に、心の底から申し訳なく思って……」

庭園に向けて張り出した大きな窓の方へ目を(そむ)け、か細い声でつぶやくリリを——

「私はあなたから、謝罪の言葉を聞きたいわけではない。差し迫ったこの期に及んで、どうして私と結婚できないのかという、その理由を知りたいのだ」

大尉は即座に遮った。


仕方なく、リリは理由を話し始めた。

「……そもそも……こんなに生まれや育ちに隔たりのある私たちが婚約したこと自体……誤りだったのでは……?」

リリの澄み切った翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳が、みるみるうちに翳りを帯びていく。

「そんな私たちが結婚しても……幸せになるどころか、互いに理解(わか)り合うことすらできなくってよ……」


リリの言葉に、(にが)りきった顔の大尉の眉根に刻まれたシワがますます深くなっていく。

「つまり……あなたには、私との婚約を解消してまで添い遂げたいと願う——『生まれや育ちに隔たりの』ない男がいるということか?」


リリは仰天した。

「ま、まさか……そんなことあるはずが……」

——今の自分の言葉から、いったいどうしてそのような話になるというのだろう?


「あなたは、婚約不履行による違約金および慰謝料を気にして、『生まれや育ちに隔たりのない男』のことを否定するのではないのか?」

大尉は(いぶか)しげにリリを見た。


「私……そんな卑怯な真似はしなくてよ」

青白かったリリの頬に、すっと赤みが差した。

「万が一、私にそのような方がいるのであれば、あなたに正直にお話をして許しを乞うわ。……神に誓ってもよくてよ」

貴族階級から見れば下賤に映る商家の生まれであっても、矜持(プライド)というものはあるのだ。

「それに、今回の件に関して発生したあなたへの『お詫び』は、私自身が責任を持ってきちんとお支払いするつもりよ」


「リリコンヴァーリェ嬢、それを履行するのは『あなた』ではなく——『あなたの父親』なのでは?」

大尉は腕を組んで、冷ややかに問う。


「いいえ、『私』よ。私には、結婚する際に父から譲られる持参金があるもの。そちらをそっくりそのまま、あなたにお渡しするわ。あなたが私と結婚することで受け取れるはずだったものよ」

リリはきっぱりと言い切った。

——慰謝料として払った持参金の残りは、教会などへの慈善活動に寄付しようかと思っていたけれど、しかたがないわね。でも、ここまですれば、さすがに彼の男爵家も「納得」するでしょうよ。


「それでは、今後あなたが結婚する際の持参金がなくなるのではないのか?」

「ええ、そうね。でも、ご心配はご無用よ。私はもう、どなたとも結婚するつもりなんてないから」

一介の商人の娘が、式の直前になって貴族の子息との結婚を一方的に反故にするのだ。

今まで父親が地道にこつこつと積み上げてきた地位も名声も、大いに損わせるに違いない。


「多大なるご迷惑をおかけするあなたには、私にでき得る限りの謝罪をする覚悟もしているし、またその準備もできていてよ。だから、どうか私の父やシェーンベリの家に対しては、(とが)めないでいただきたいの」

——どのみち、このような娘にまともな縁談など、来るはずがない。

「私はもうすぐ……修道院へ入る手はずになっているの。そこで、修道女として神様に仕え、毎日あなたへの懺悔をしながら、世の中の人のために奉仕活動をして生きていくつもりよ」


「……修道院?」

険しい表情の大尉の眉の片方が上がった。


「シェーンベリの家は、代々ローマ・カトリックなの」

彼女はカトリック教会で幼児洗礼を受けた際に、かつて実在したスウェーデンの聖女・Katharina(カタリナ)の洗礼名を司祭から授けられていた。

リリコンヴァーリェ・カタリナ・シェーンベリが彼女の正式な名前である。


リリは肌身離さずつけているロザリオを手繰(たぐ)り寄せ、その十字架(メダイ)の部分を、そっとやさしく握りしめる。

「そして、私は特にマリア様を厚く信仰していてよ」

聖母マリアは、福音ルター派(プロテスタント)の男爵・グランホルム家では信仰の対象にはならない存在だ。

「だから、あなたとの結婚を取りやめたい理由の一つに、プロテスタントに改宗したくないのもあるわ」


リリはここまで話すつもりは毛頭なく、なるだけ穏便に済ませようと腐心してきた。

だがこの大尉には、はっきりと言わぬままでは(らち)が開かないと、ようやく気づいた。

この際——すっかり話してしまおう、と決意した。


「日頃から奉仕活動のお手伝いをさせてもらっているイェーテボリの修道院のNunna(修道女長)に、生まれた身分も環境も宗教観もまったく異なるあなたとの結婚に、不安を感じていることを相談したの。

慈悲深い修道女長は、私がこれからも変わらずマリア様への信仰を貫きたければ……私に、あなたとの結婚をやめて、すべてを捨てる覚悟があれば……いつでも修道院に迎えるとおっしゃってくだすったわ」


「……それで、あなたは私の妻になるより『神の花嫁』になろうとしているのか」

大尉は忌々しげに嘆息した。

「あなたは本当に、その修道女に入れ知恵されたとおりに、これから先の人生を、一生修道院で過ごす気なのか?」


「『入れ知恵』って……そんな言い方、ひどいわ……!」

リリは(たま)らず大きな声になってしまった。


「しかし……なるほど、あなたの考えはよくわかった」

大尉は普段声を荒げることなどないリリの叫びなど、物ともしていなかった。

「ならば——私もあなたとの結婚について、考え直さねばならないな」

淡々と、彼は告げた。


——あぁ、ようやく理解(わか)ってもらえたのね。

リリはホッとしたと同時に、喉の渇きを強く感じた。たぶん、大尉もそうであろう。

だから、ひとまず珈琲(フィーカ)の差し替えを命じることにした。


すぐに供された珈琲を互いに黙って飲みながら、彼女はあることに気づいた。

——そういえば、私、これほど大尉とお話をしたのって、初めてだわ。


婚約して以来、リリは大尉とは数えるほどしか会っていなかったが、彼はいつも不機嫌そうに怒ったような顔をしていて、余程の用がない限り、話しかけられることがなかった。

そして、生家の男爵家のために意に沿わぬ婚約相手を押しつけられ、きっとやりきれない思いを抱えているに違いないと(おもんぱか)り、彼女の方からも話しかけることもなかった。


——皮肉なものね。こうして初めてきちんとお話しするのが「最後」のときだなんて……



珈琲(フィーカ)を飲んで一息ついた大尉が、問いかける。

「リリコンヴァーリェ嬢、改めて……あなたにいくつか確認してもいいだろうか?」

リリはこっくりと肯いた。


「まず、あなたには私との婚約を解消してまで添い遂げたいと願う『生まれや育ちに隔たりのない男』はいないのだな?」

「もちろんよ。これから修道女になって一生を神に捧げようと決意している私に……そんな(ひと)いるはずがなくてよ」

彼女はきっぱりと言い切った。


「では、あなたは先刻(さっき)『こんなに生まれや育ちに隔たりのある私たちが婚約したこと自体、誤りだったのでは』『そんな私たちが結婚しても幸せになるどころか、互いに理解わかり合うことすらできない』というようなことを言ったと思うが。……どうして、そのように思うんだ?」


「あらそんなの、当然ではなくて?あなたは高貴な男爵家のHedrande(御子息)で、私は市井(しせい)のしがない新興の商工業者の娘だもの。とても釣り合わないわ」

リリの脳裏には、ストックホルムの某伯爵家で開かれた、あの夏の日の舞踏会のさまがまざまざと甦っていた。

「だから、グランホルム大尉……あなたの隣にはきっと、ヘッグルンド令嬢のような『生まれや育ちに隔たりのない女性』が、ふさわしいに違いなくてよ」


たっぷりと結った黒みがかった栗色の髪(ブルネット)に小振りの帽子をちょこんと乗せ、ヒップの部分がふっくらと盛り上がったバッスルスタイルの石榴石(ガーネット)色のイブニングドレスを——生まれながらの気品で着こなしていたあの女性が、リリの脳裏を掠めた。

——そうよ、首元を飾る先祖代々引き継がれた豪華な宝石にも勝るとも劣らない、きらきらと輝く榛色(ヘイゼル)の瞳を持つあの美しい(ひと)のような……


「私こそ——男爵家に生まれたとは名ばかりの爵位も継げぬ『しがない』海軍軍人なのだがな」

大尉が腕を組んで、ぼそり、とつぶやいた。

「だから、妻には貴族の娘など(はな)から望んでいなかったのだが。いや、むしろ貴族の娘ではない方がいいと考えていた」


——えっ?

リリは、対面に座する彼をまじまじと見た。

今まで、はしたなく思われるのを危惧したのと、そもそもなんだか怖くて近寄り難かったのとで、こんなふうに彼を見つめることはなかった。


白金色の髪(プラチナブロンド)は、今はきっちりと整えられているが、少し癖があって実はまとまりにくいかもしれない。

不機嫌な表情しか目にしてこなかったため気づがなかったが、意外にも少年っぽさが残る丸顔気味の輪郭だった。

やや目尻の上がった、アーモンドのように大きな瞳は、琥珀色(アンバー)だとばかり思っていたけれども、どうやらずっと色素は薄く、まるでミルクをたっぶりと入れた珈琲(フィーカ)の色をしていた。

そして、すーっと通った高い鼻梁から感じられる冷淡さとは裏腹に、ちょっと厚めの唇は、もし触れられるものなら、温かくてやわらかいのかもしれない……


「……あなたは、私と結婚してカールスクルーナで暮らさねばならないことをどう思っていた?」

リリは大尉との結婚後、生まれ育ったイェーテボリを離れて、彼の住むカールスクルーナへ移ることになっていた。


スウェーデン随一の軍港を抱えるカールスクルーナではあるが、「海軍の町」しか言うべき特徴のない、ただの田舎町だった。

軍事機密を保持するためには人々の出入りは最小限に抑えることが最優先で、特に町として発展する必要がないからだ。


「住み慣れたイェーテボリを離れるのに不安はないか、と問われれば、それはないとは言えないけれど、カールスクルーナに赴くことに関しては別に……」

「だが、貴族の女たちは、そうはいかないらしい。彼女たちは華やかな社交界なしでは生きていけないからな。シーズンオフに自分たちの領地へ引き下がることはやぶかさでないが、ほぼ一年中、片田舎で無粋な野蛮な軍人たちに囲まれた生活をするには耐えられないそうだ」

大尉は口の片端を(かす)かに上げて苦笑した。


「あなたが言う『あの美しいヘッグルンド令嬢』——ウルラ=ブリッドも所詮そういう女の一人だ。ストックホルムを離れて暮らすことなどできないよ。

……そもそも私は、あんな暴れ馬のような女を妻にするなんてごめんだな」


——暴れ馬?

リリは不可解な顔をして鼻白んだ。


「ウルラ=ブリッドは貴族の娘にしてはいささか型破りな——要するに、じゃじゃ馬的な気質があるんだ。ストックホルムの社交界を離れられないのは、彼女の唯一貴族的なところだな。

私の兄とは幼い頃からの許婚(いいなずけ)同士だが、彼女は家のための政略結婚はしたくないと言って、自分たちは互いに愛し合っているから恋愛結婚だと言い張っている。また、結婚後子どもが生まれたら、乳母の手に委ねず自分自身で育てると、今から宣言しているよ。

それに……彼女は乗馬に夢中でね。自ら馬房に入り込んで馬の世話をしているくらいだ」


「あぁ、そういえば……かつてお会いした舞踏会の際に、馬が大好きだとおっしゃっていたわ」

リリはそのときの様子を思い出した。

常日頃から彼女は乗馬服を愛用しているらしく、リリの父が用意させて贈ったバッスルスタイルのドレスを、クリノリンの不要なドレスがこんなにも快適だなんて、といたく気に入っていた。


「あなたも子どもの頃から乗馬がお好きなのでしょう?彼女から、そう伺ったわ。そして、『あなたも始めたら、喜んで遠乗りに連れて行ってくれてよ』って勧められたの。だから私、あなたが望まれるのなら、たとえ怖くても挑戦するしかなさそうねと思って……」

「だから、あのときあなたは乗馬を始めるなどと言ったのか」

大尉は険しい顔を崩さず、苦々しげに言った。


「だけど、あなたからは『乗馬など、する必要はない』って、きっぱりと言われてしまったわ」

リリは肩を(すく)めた。

なんだか、あのとき受けた衝撃(ショック)が甦ってきそうだった。


「それは……」

彼は一瞬、言い淀んだが——

「危ないじゃないか。大人になっていきなり乗馬なんかを始めて、もしあなたが馬から振り落とされでもしたらどうするんだ」

あとは一気に言い切った。


——えっ?

リリは虚を衝かれた。

——もしかして、大尉は私のことを心配して、あのようなことをおっしゃったの?


「修道女だけではなく、ウルラ=ブリッドからも『入れ知恵』をされていたとは……」

大尉は軍人らしい節くれ立った指で顳顬(こめかみ)を押さえながら、唸るようにつぶやいた。


「……リリコンヴァーリェ嬢」

大尉は突然、改まった口調でリリの名を呼んだ。

「私の生家は確かにあなたが思うとおり、生粋の『貴族の家』だ。ゆえに、我がグランホルム家では婚姻関係を結ぶ目的は子孫を遺して血筋を守るため以外には考えられない」

軍人らしく感情をいっさい取り除いて淡々と告げるその冷徹さに、リリはなんだか圧倒されて思わず背筋を正した。

「私の両親は、家同士のつながりだけの政略結婚で、兄と私の息子二人をもうけたあとは互いに愛人を持っている。嫡男とその代替要員(スペア)をもうけたのちに大手を振って『恋愛』を愉しむ、という典型的な『貴族の生き方』だな」


リリの目が見開く。確かに、庶民が持つ貴族階級に対するイメージそのものではあるが……

——「最後」の日だから、大尉は私にここまでお話しなさるのかしら?


「父の『相手』は貴族や文化人たちが集まるサロンに君臨するKurtisan(高級娼婦)で、母の『相手』は息子たちとさほど歳の変わらない駆け出しの画家だよ。彼らは社交シーズンにはストックホルム(王都)のタウンハウスにいるが、それぞれの相手としょっちゅう逢引していてね。かと言って、シーズンオフにはノーショー(領地)に滞在するのもそこそこに、連れ立って旅行ばかりしているよ」

大尉は乾いた笑みを浮かべていた。

「……あなたの両親には、到底考えられないことだろうね?」


リリは静かに肯いた。彼女の両親は仲睦まじかった。

なにより母親が、夫の愛情による庇護がなくては生きていけなさそうな人なのだ。

また、周囲を見渡しても、にわかに「成功者」となり金回りが良くなった新興の商工業者の中には、糟糠の妻とは別に若い女を囲う者もいなくはなかったが、一般庶民の間では貴族階級とは違ってそれは外聞が悪く、面と向かって言われなくても陰では蔑まされ、()しざまに(そし)られていた。

むしろ一般庶民の方にこそ、離婚を「神との信頼関係を壊す背徳」として禁じている旧教(カトリック)信者にしろ、比較的離婚に対して寛容な新教(プロテスタント)信者にしろ、夫婦として神に誓う相手は互いに一人だけで、夫が並行して他の相手をも妻にすることは許されず、それは聖書が禁じる姦淫にあたる、という社会規範があった。


「だが……私は自分が持つ家庭は、我が生家のように冷え切った仮面夫婦などではなく、できればあなたの家のような形を望んでいた」

思いがけない大尉の言葉に、リリはびっくりしてしまった。


「セント・ポールズ校であなたの兄と同室になって以来、彼の家族の話はよく聞かされていたからね。だから、あなたとの結婚話が出たときは——自分の結婚後はそう悪くないかもしれない、という希望が持てたよ。

それに、私がKangliga Flottan(王立艦隊)で率いる部隊は平民から成っているのだ。彼らとの親睦を深めるために、結婚後の家庭に招いてもてなさねばならぬ必要も出てくるあろうが、そのとき取りすました『貴族令嬢』が女主人では、彼らはさぞかし気後れして心を開かぬことだろう」


——ま、まさか……そんな……

リリは呆然となった。

「わ、私……てっきり大尉から……庶民の出であることを……(うと)んじられてるとばかり……」

(かす)れた声で、かろうじてそうつぶやく。


「なぜ、私があなたを疎んじる必要が?私は未だかつて、あなたにそのようなことを言った覚えはないのだが?」

大尉が怪訝な顔になる。

「もしも、私があなたとの結婚が(いや)なのであれば、そもそも了承すらしていないが?」


「で、でも……婚約をしても、あなたは素っ気ないままでいらしたわ。私を疎んじていらっしゃるのか、ほとんどお会いする機会もなかったし、ストックホルムの舞踏会にだって、たったの一度しか私を呼んでくださらなかったわ。私なんかを、貴族の方々がいらっしゃる場へ連れて行かればならないのは、恥ずかしくお思いになったからではなくて?だからいつも……私を避けていらっしゃるのではなくて?」

リリの脳裏に、大尉と婚約してからの味気ない日々が甦る。


「あなたに対する素っ気ない態度は……申し訳なかった。私は昔からこういう性分なんだ。子どもの頃からいつも一緒にいた(アンドレ)とウルラ=ブリッドが社交的で、その反動からか正反対になってしまった。また、軍人にはよくある気性だから、今まで特に改める必要がなかったのも(あだ)となった」

大尉は苦渋に満ちた表情ではあったが、リリが疑問に思っていたことを次々と弁明していく。


「それから、私があなたと会う機会がほとんどなかったのは——軍事機密に当たるから詳細は言えないが、任務のためにここ何年か、カールスクルーナを離れる許可がなかなか下りなかったのだ。決して、あなたを疎んじているからではない。……どうか、信じてほしい」

大尉はリリの翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳を見つめて、真摯に告げた。


今世紀初頭に勃発した第二次ロシア・スウェーデン戦争によってロシアに敗したスウェーデンは、フィンランド領およびオーランド諸島を割譲することとなり、以後ロシアとの関係は緊張を強いるものとなっていた。彼はその対ロシアに関わる任務にあたっていたのだ。


「私は、私たちが互いのことを知るにはこれから時間はたっぷりあるのだから、結婚後にでもゆっくりと理解(わか)り合っていけばいいと、愚かにも甘く考えていた。……アンドレからは、あなたに対する態度を改めろと、幾度となく説教されていたんだがな」

大尉は自分自身に対して(あざけ)るように苦笑した。


「それに……驚いたな。あなたはあのような不毛な舞踏会でも、また行きたいと思っていたのか?」

大尉はリリの心の(うち)を、慎重に探るような目で尋ねる。

「あの日以来、あなたをあのような場へ連れて行かないのは、もちろん私自身が好まないというのもあるが……没落している現状を決して直視せぬ、見栄を張るしか能のない、貴族の女どもの不躾な視線や口さがない厭味(いやみ)から、あなたを守りたかったからだ。だから伯爵邸でも、なるだけ目立たぬようにダンスも控えて壁際にいたんだがな」


——ええっ?もしかして、大尉は……私のことを(まも)ってくだすっていたの?


確かに、大広間(ホール)にいるときの大尉は、知人たちと出会っても会話に興じることなく、リリを婚約者だと紹介して簡単な挨拶をするだけで、ずっと彼女の(そば)から離れなかった。


その後、ウルラ=ブリッド令嬢に誘われて庭園に出て、外れにある四阿(あずまや)にいると、わざわざ迎えにきてくれた。

そういえばその際に、グランホルム(アンドレ)氏が『ビョルンが見当をつけて探していたから見つけられた』と言っていたではないか。


「あなたはどうやらダンスが得意のようだったな。私にとって……あんなにリードしやすいパートナーは、初めてだったよ」

大尉は遠くを見る目でそう言った。そのときの様子を思い浮かべているようだ。


——大尉はあの一度きりの私との円舞曲(ワルツ)を、そんなふうに思って踊っていらしたの?


実は、リリにとってもあんなに踊りやすくリードしてもらえるパートナーは初めてだった。

不機嫌そうな表情は相変わらずだったが、リリに触れるその手はやさしく、()つ洗練されていて、まさしく英国仕込みの「紳士(ジェントルマン)」だった。

それでいて、彼女を大胆にリードしつつ、ダンスフロアを優雅な足捌き(ステップ)で自由自在に動いた。


無骨に見える軍人の彼だが、さすがは幼い頃から貴族として育てられてきた「貴公子」だ、とリリは大尉と初めてダンスをする緊張も忘れて、夢見るようなうっとりした気分で踊ることができた。

だから、たった一曲きりで、あっという間に終わってしまったダンスを、リリは名残惜しくて……寂しくて……哀しく感じていた。


「私のような者は、錚々たる貴族方がお集りの舞踏会などへは、もう二度と御免(こうむ)りたくてよ」

リリはそう答えて肩を(すく)めた。


「でも……あなたとのダンスは楽しかった。だから、私……あなたともう一度、舞踏会で踊ってみたかったの」


大尉の、ミルクのたっぷり入った珈琲(フィーカ)の色をした瞳が、かっと見開かれた。

「リリコンヴァーリェ嬢……それは……」

しかし、次の瞬間、彼は気まずそうに目線を落とした。

「だが、私は……あなたをまた舞踏会に誘うどころか、ようやくあなたと会える機会が与えられても……あなたを避けるようになってしまっていた」


「グランホルム大尉……」

リリは目線を落とした彼と、なんとか視線を合わせようとして彼の顔を見た。


すると、不意に彼の視線が上がった。二人の目が合う。

「リリコンヴァーリェ嬢、すまない。実は私は、あなたのような美しい女性とは……なにを話していいのか、皆目わからないんだ」

彼の表情は、苦痛に耐えるがごとく歪んではいたが、心なしか、その耳が朱に染まったように見える。


「あなたとの縁談が持ち上がり、あなたの写真が送られてきたとき……私はあなたを、なんて美しい女性(ひと)なんだろうと思った」


大尉には、画家に描かせたリリの肖像画ではなく、技師に最新の写真機で撮ってもらったリリの写真を送っていた。肖像画では、どうしても画家が「親切心」から「欠点を抑えて」美しく描いてしまうからだ。

リリは「夫」になるかもしれない男性(ひと)には、最初からできるだけありのままの容姿を見てもらいたかった。


「顔合わせで初めて会ったときには、写真以上に美しい女性だとびっくりしたよ。だから、実際に話してみて、あなたに……『つまらない男』だとは失望されたくなかった。私には……アンドレみたいに、女性が喜ぶような気の利いた話題は提供できないからだ。そして……」

大尉はそこで一瞬、言い淀んだ。

「グランホルム大尉……?」


しかし、意を決して彼は告げた。

「あなたに……結婚相手がなぜ、男爵家の嫡男の方ではないのか。海軍の軍人というだけの男と結婚しても、男爵の令夫人に——貴族にはなれないではないか。『(ビョルン)』よりも『(アンドレ)』の方がよかったのに、と思われたくなかったんだ」


突然、対面の長椅子(ソファ)から立ち上がった大尉が、リリの前にやってきた。

「……リリコンヴァーリェ嬢」

そして、その場で片膝をついて(ひざまず)く。


「グランホルム大尉、いったいなにを……?」

驚きのあまり口を覆おうとしたリリの手を、大尉がすかさず取る。

今まで大尉は、リリとの挨拶の際には、必ず彼女の手の甲にぎりぎり触れないところで形だけの口づけをしていた。

だが、今は違った。リリの手の甲に、彼がしっかりと自分の唇ををつけたのだ。

しかも——手袋をつけていない素肌に……


その瞬間、リリの手の甲が燃えるようにカッと熱くなった。

「……グ、グランホルム大尉⁉︎」


大尉がソファに座るリリを見上げた。ミルクをたっぷり含んだ珈琲(フィーカ)のような瞳の色だ。

なぜかそのとき、リリの心臓がどくり、と音を立てたような気がした。

とたんに、彼女の頬がカーッと火照(ほて)った。


「私がもし、プロテスタントに改宗などせずにカトリックのままでいいと言えば、あなたは修道院に入って神の花嫁になることを諦めて、もう一度私の妻になることを考えてくれるだろうか?」

やや目尻の上がった、アーモンドのように大きな瞳が、リリをまっすぐに見据える。

あまりにも眼光が鋭すぎて、彼女はたじろいだ。


「……グランホルム大尉……そ、それは……」

——まるで……プロポーズではないの?


グランホルム大尉とリリは、最初から「結婚相手」として出会ったため、求婚(プロポーズ)の「儀式」を経ることなく、双方の家によってすでに結婚することも、その結婚式の日取りまでもがすでに決まっていた。

そのときのリリは「政略結婚」なのだから、自らが生涯の伴侶と定めて結婚するのとはわけが違うのだから、と諦めていた。


だが——やはり、憧れていなかったかと言えば、それは「憧れていた(Ja)」である。


「何度も言うが、私は貴族の生まれであっても、爵位を持たぬ一介の海軍軍人に過ぎない。だから、たとえ私と妻の宗派が違ったとしても、気にするほどの血筋ではないのだ。どうかこれからの日曜礼拝は、イェーテボリの修道院ではなく、カールスクルーナのカトリック教会へ行ってもらえないだろうか」


「まぁ、そんな……いけないわ……グランホルム大尉……」

リリは大尉に取られた手を引っ込めようとした。

しかし、彼はその手をきゅっと握って、決して離すまいとした。


「まだ、ほかに私と結婚できない理由でも?そういえば……確かあなたのミドルネーム——カトリックなら洗礼名になろうが……カタリナ、であったな?」

リリはこくりと肯いた。とたんに、大尉の顔が歪んだ。


リリの洗礼名のカタリナは、十四世紀の昔、スウェーデン国内に女子修道院を創設したビルジッタを母に持ち、自身も一心に神に仕えたことから、母子二代で教会から「聖女」として叙されていた。


「まさか……あなたはあの(・・)聖女カタリナのように、たとえ私と結婚したとしても、なにがなんでも『純潔』を守るつもりだったのではないだろうな?」


カタリナは父の命令でドイツの青年貴族と結婚をしたものの、母の創った修道院で「神の花嫁」として一生を過ごす夢が諦めきれず、夫に懇願してそのような取り決めをしたという。

そして、その夫が早世したこともあって、彼女は無垢な身体(からだ)のまま、その生涯を修道院で(まっと)うしたと伝えられている。


「いくら気にするほどの血筋でないとはいえ……さすがに、初めから子を持たぬ取り決めをするのは……」

青ざめた顔で大尉はつぶやいた。

「だが、あなたがどうしても、というのなら……」


「あの……大尉、いつまでもそのように(ひざまず)かれては落ち着かなくて……どうぞ、こちらにお座りになって……」

リリは自分の気を落ち着けるためにも、彼を長椅子(ソファ)に促した。大尉は言われるまま、すぐ隣に腰を下ろす。

しかし、二人の間はあまりにも近かった。舞踏会で踊ったダンスのときと変わらないくらいだ。


なので、リリが思わず後退(あとずさ)りして距離をとろうとすると、大尉はすぐさま彼女の両手をその手に取って、やさしく包み込んだ。

「リリコンヴァーリェ嬢、私はあなたが望むことなら、どんなことでもすべて叶えるつもりだ」

ミルクのたっぷり入った珈琲(フィーカ)のような大尉の瞳が、いつの間にか熱のこもった深い琥珀色(アンバー)に変わっていた。


「……それでも、私たちはもう互いを伴侶と呼ぶことはできないのか?」

吸い込まれそうなほど、強いつよい眼差(まなざ)しだった。


「そ、それは……この期に及んでこの結婚を取りやめるなんて……あなたの自尊心(プライド)(ゆる)さないからおっしゃっているのだわ……」

リリは目を逸らしながら、苦し紛れに言った。


そのとき、リリはすっぽりとなにかに包み込まれた感覚がした。

すると、目の前に、グランホルム大尉の厚い胸板が来た。

——どうして? 私は今……大尉の腕の中に、閉じ込められている?


「リリコンヴァーリェ嬢、あなたはまだそんなふうに私のことを思っているのか?」

頬が当たる、彼の胸から聞こえてきた。舞踏会で踊ったダンスのときですら、こんなに近くからは聞こえてこなかった。

リリの心臓が早鐘を打つかのごとく、高鳴った。

——大尉に、聞こえてしまうかもしれない……


だが、その大尉の胸からも、早鐘のような慌ただしい心音が聞こえてきた。

——えっ?まさか、大尉も……


そう思った瞬間、リリのくちびるに、ふわりとやわらかなものが落ちてきた。

大尉の少し厚めのくちびるだった。


彼女にとっては、初めてのくちづけだ。

——グランホルム大尉が、こんなことをするなんて……⁉︎



くちびるが離れたあと、リリはびっくりして彼を見上げた。


「私たちは確かに、互いのことをなにも知らない。だから、互いを知って理解(わか)り合うのはこれからにはなるが……それでも、私はどうしても……」

大尉の頬が朱に染まっていた。それどころか、彼の耳までもが、真っ赤に色づいていた。

「あなたを私の伴侶としたいのだ。どうか……わかってほしい」


意を決して、彼はリリの薔薇色に輝く頬を、その大きな手のひらでそっと包んだ。

彼にとっては、どんなに敗色濃厚な海戦の最前線へ赴かねばならないときよりも勇気と度胸が試されるような気がした。


「どうか……あなたのこの可憐なくちびるで、私に『Ja(Yes)』と(こた)えてくれ……」

大尉の無骨な親指が、リリのくちびるをつーっとなぞる。


「私のことを『Kapten Granholm(グランホルム大尉)』ではなく、あなたの夫として『ビョルン』と呼んでくれ……」

リリの翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳を見つめる彼の琥珀色(アンバー)の瞳が、哀しいほどせつなげだ。

「そして、あなたのことを……『|Fröken Liljekonvalj《リリコンヴァーリェ嬢》』ではなく、私の妻として『リリ』と呼ばせてほしい……」


それから、大尉は言い淀みながらも——

「あ、いや……でも……やはり……可能であれば……あなたに、私の子を産んでほしい」

どうしても妥協できない一点を述べた。


リリはしばらく逡巡したのち、厳かな面持(おもも)ちで彼を見た。

「——グランホルム大尉」

そして、きっぱりと告げた。


「私……やっぱり、イェーテボリの修道院へ行くわ」


「あぁ……やはり、あなたは……」

グランホルム大尉の端正な顔が、絶望のあまり大きく歪む。


「だから……あなたも一緒に行ってくださる?」

リリはこともなげに平然と頼んだ。


だが、そのうちにだんだんと、してやったり、と彼女の口元が(ほころ)んでいく。

「……えっ⁉︎」

彼はワケがわからず、アーモンドの大きな瞳を何度も(しばた)かせた。


リリは今までさんざん、大尉の「不可解」な言動に、哀しくていたたまれない思いを味わわされてきたのだ。

このくらい——(ゆる)されるだろう。


「修道院に伺って、私が改宗せずにこれからもマリア様を信仰し続けることができるようになったことをNunna(修道女長)に報告しなければならないの。できれば、あなたからも私が修道女になれなくなった『理由』を説明していただきたいから、ご足労だけれども、ご同行していただけないかしら?それから、カールスクルーナのカトリック教会への紹介状もお願いしなくてはならな……」

みなまで言い切ることなく、いきなりリリは大尉に抱き寄せられた。彼の胸板に、彼女の頬がとんっ、と当たる。


「もちろん行くよ。私が責任を持って、あなたを渡せないことを彼らに説明し、そしてきちんと詫びよう」

彼の心臓の鼓動が、どくどくどく…と聞こえてきた。先刻(さっき)よりもずっと早い。


「あぁ……リリコンヴァーリェ嬢……あなたは『Ja(Yes)』と言ってくれるんだね……?私の妻になってくれるんだね……?」

大尉はしみじみと噛み締めるように言いながら、リリをその腕に閉じ込め、かき(いだ)いた。

……もう、決して離さない、とでもいうように。


「あら、あなたは私を『リリ』と呼びたいのではなかったの?……ビョルン」

リリは大尉の腕の中から彼を見上げた。

彼女の翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳は、すっかりいたずらっ子のそれになっていた。


「あぁ、そうだったな。……リリ」

まるでいたずらがバレた少年のように、大尉は気まずそうにはにかんだ。


今日は彼の初めて見る顔ばかりだ、とリリは思って、ふふふ…と笑った。

そして、リリもまた、今まで彼に見せていた「貴族令嬢並みの教育を施された淑女」ではない、家族や親しい友人だけに見せる「ありのままのリリ」になっていた。


きっとお互い、これからいろんな「知らない顔」を見せ合うことになるのであろう。

リリも、ビョルンも——二人はまだ「知り合った」ばかりだ。



゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜



かくして、男爵グランホルム家の二男でスウェーデン王国軍の海軍士官ビョルン・シーグフリード・グランホルム大尉と、木材商「シェーンベリ商会」創業者オーケ・シェーンベリ氏の娘であるリリコンヴァーリェ・カタリナ・シェーンベリ嬢は、 Midsommar(夏至祭)の一週間前、予定どおり花嫁の故郷にあるGustavi Cathedral(イェーテボリ大聖堂)にて結婚式を挙げた。


その後、晴れて夫婦となったグランホルム大尉夫妻は、Kangliga Flottan(王立艦隊)のあるカールスクルーナで新居を構えるべく、かの地へと赴いた。











「もうすぐ結婚式ですが、あなたのために婚約解消したいのです」〈 Slutet ()


最後までお読みいただき、誠にありがとうございましたm(._.)m

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