表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/34

第三章:嵐の後の静寂、そして誓い

竹林を抜ける風が、急速に冷たさを増していく。 おきなは腕の中の赤子を冷やさぬよう、懐を広げてしっかりと抱き寄せ、山道を急いだ。背後では、漆黒の守護神・権太ごんたが、周囲の闇に鋭い視線を走らせながら、音もなく地を踏みしめてついてくる。先ほどの死闘の余韻か、山全体が異様な静寂に包まれていた。


やがて、木々の隙間から、温かな橙色の光が漏れる一軒の庵が見えてきた。 翁とおうなの住居兼工房である。


「おじいさん! お帰りなさい……って、まあ! その様子はどうしたのですか!」


工房の板間で、都の有力商人への返信を認めていた媼が、血相を変えて飛び出してきた。翁の着物は激しい立ち回りで泥に汚れ、袖口は鋭い刃物で裂けている。何より、その後ろに控える権太の殺気が、ただ事ではない。


「おばあさん、落ち着いて聴いてくれ。……これを見てほしい」


翁が懐から、そっと赤子を差し出す。媼は一瞬、息を呑んで硬直した。 「……赤子? なぜ、山の中に……」 「光り輝く竹の根元に、この子がいた。そして、得体の知れぬ刺客たちが、この命を奪おうと襲いかかってきたんじゃ」


媼は言葉を失い、翁の顔と赤子の顔を交互に見つめた。しかし、赤子が媼と目が合った瞬間、ふにゃりと無邪気な笑みを浮かべ、小さな手を伸ばした。その瞬間、媼の商売人としての冷静な計算や、突然の事態への戸惑いはすべて霧散した。


「……なんて、神々しい子。おじいさん、まずは中へ。この子を冷やしてはいけません。権太、お前も。今日はよく守ってくれましたね。裏に干し肉を用意してありますよ」


権太は「グルル」と短く喉を鳴らし、安心したように工房の軒下へと腰を下ろした。


庵の中、いろりの火がパチパチとはぜる。 媼は手際よく白湯を沸かし、清潔な布を温めて赤子の体を拭った。改めて灯りの下で見る赤子は、言葉を失うほどに美しかった。透き通るような白い肌は、まるで月光を練り固めたかのようで、その瞳には夜空の星をすべて収めたかのような深い輝きがある。


「見てください、おじいさん。この着物、ただの絹ではありません。都の最高級の織元でも、これほど細く、しなやかな糸は扱えませんわ」


媼の指が、赤子の胸元に残された「引き裂かれた巾着」に触れた。 「……これは」


翁も身を乗り出し、その刺繍を凝視した。 「やはり、見間違いではないな。この紋章……月の円環に、三本の竹の葉。これは古の時代、天との対話を司ったとされる『竹取の一族』の裏紋。そして、この引き裂かれた跡……」


巾着は、まるで何者かに無理やり奪い取られたかのように、縁がギザギザに裂けていた。対になるべき半分がどこかにあるはずだ。それこそが、この子の出自を示す唯一の鍵であり、同時に命を狙われる「呪縛」の正体でもあるのだろう。


「おじいさん、あなたは先ほど、刺客と言いましたね」 媼の表情が、商売の交渉で見せるような、鋭く、覚悟に満ちたものに変わった。 「都の商人たちが最近、不穏な噂を流していました。『失われた天の血脈が、地上に再臨する』と。もしこの子がその血を引いているのなら、これから訪れるのは、今日のような刺客だけではありません」


「ああ。都の権力者、あるいは人ならざる闇に住まう者たちが、この光を求めて押し寄せるじゃろう。わしらがこの子を育てるということは、平穏な職人生活を捨てるということかもしれん」


翁は、自分の節くれだった大きな手を見つめた。竹を削り、形を成すための手。しかし、先ほどは人の命を断つために使った手。


「わしは、武芸を捨てた。戦うことに疲れ、この静かな山で竹と対話することを選んだ。……じゃが、今日、この子を抱いた時、心の底から思ったんじゃ。この命を、わしの残りの人生すべてを懸けて、守り抜きたいと」


媼は静かに微笑み、赤子の小さな頬を撫でた。 「奇遇ですね。私も同じことを考えていました。都での名声も、商売の富も、この子の笑み一つには及びません。……私たちが、この子の本当の家族になりましょう」


その夜、二人は赤子に名前をつけた。 「光り輝く竹から現れた、天の使い……。名は『かぐや』、いや、**『なよ竹のかぐや姫』**としましょう」


翁は力強く頷いた。 「かぐや……良い名じゃ。かぐや、お前は今日から、わしらの宝だ」


翌朝、不思議なことが起こった。 かぐやが目覚めた瞬間、部屋全体が柔らかな黄金の光に満たされたのである。それだけではない。昨日、刺客を倒すために翁が激しく痛めたはずの腰や腕の節々が、まるで若返ったかのように軽くなっていた。


「おじいさん、見て! 工房の竹が!」 媼の声に導かれて外へ出た翁は、自分の目を疑った。 昨日、黄金の光を失ったはずの切り株から、一晩にして瑞々しい、銀色に輝く新芽が芽吹いていた。そして、その周囲には、見たこともないほど高品質な、加工せずともそのまま最高級品になるような「完成された竹」が数本、生え揃っていたのだ。


「かぐやが……さちを運んできたというのか」


だが、翁はその奇跡を素直に喜ぶことはできなかった。 幸運が大きければ大きいほど、それを奪おうとする影もまた濃くなる。翁は再び鉈を手に取り、権太と共に山を歩いた。今度は竹を採るためではない。庵の周囲に、泰然流の秘術を施した「罠」と「結界」を張り巡らせるためだ。


数日後。都から一人の使者が訪れた。 商工組合の組合長、**玄馬げんま**である。彼は翁の竹細工の独占権を狙い、以前からしつこく交渉を重ねていた男だった。


「翁殿、急に失礼する。……おや、何か良いことでもありましたかな? この家から漏れ出る『気』が、以前より遥かに清々しく、そして力強い」


玄馬の目は、商人の鋭さを超えて、獲物を探る獣のようだった。 「いや、何も変わりはせんよ。ただ、山が良い竹を恵んでくれただけじゃ」


翁は冷静に応じたが、玄馬の視線は、庵の奥で媼に抱かれている赤子――かぐやの姿を、一瞬たりとも逃さなかった。


「……ほう。それは珍しい、可愛らしい客人がおられるようで。翁殿、お互い隠し事はなしにしましょう。その子が、先日山に落ちた『黄金の流星』の正体ではありませんかな?」


空気は一変した。 翁の背後で、隠れていた権太が低く唸る。 玄馬は不敵に笑い、懐から一通の書状を取り出した。


「都では、すでに動きが始まっておりますよ。……お気をつけなさい。その光が、あなた方の幸せを焼き尽くす火種にならぬことを祈っております」


使者が去った後、翁と媼はかぐやを抱きしめ、沈みゆく夕陽を見つめた。 嵐は、まだ始まったばかりであった。


しかし、二人の心に迷いはなかった。 たとえ都が、国が、あるいは天が相手であろうとも、この小さき、しかし圧倒的な光を、守り抜く。その誓いこそが、これからの激動の歳月を生き抜く、二人の「極意」となったのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ