第一話:光る竹と小さな客人(まれびと)第一章:竹取の翁、黄金の山へ
古都の喧騒から北西に数里。山々の懐に抱かれたその場所には、常に清涼な空気が満ち、竹の葉が擦れ合う「さやさや」という音が、まるで神域の囁きのように響いていた。その山あいに、一軒の立派な竹細工工房を構える家がある。
軒先に並ぶのは、単なる生活道具ではない。丁寧に編み上げられた「風の音籠」、月光を透かすほどに薄く削り出された飾り扇、そして緻密な模様が施された竹の箱。それらは「竹取の翁」と呼ばれる男、**翁**の手によるものだ。
「やれやれ、この『風の音籠』も、都へ持っていけば、また若者たちが奪い合うようにして買っていくじゃろうて」
翁は、仕上げたばかりの籠を愛おしそうに撫でた。彼の作る品は、伝統を重んじながらも、どこか現代的で洗練された「和風モダン」の極致。都では今、この翁の竹細工を身につけることが一種のステータスとなっており、彼らの暮らしは、この山奥にありながら極めて裕福であった。
その工房の経営を一手に担うのが、翁の妻、**媼**である。 「おじいさん、そんなに自画自賛ばかりしていないで。ほら、都の商人たちから次の納品を急かす文が届いていますよ。孫たちへの仕送りも、今月は多めに送ってやりたいですからね」 媼はそう言って快活に笑い、筆を走らせて帳面を整理する。二人の間には、長年連れ添った夫婦ならではの、竹の節のように硬く、しなやかな絆があった。
しかし、翁がこれほどの成功を収めている理由は、その腕だけではない。彼には、誰にも真似できない「素材の調達法」があった。
「よし、今日も山へ入るとするか。あそこの竹でなければ、わしの求める『気』は宿らん」
翁は愛用の鉈と背負い籠を手に、工房の裏手に広がる広大な竹林へと向かった。そこは、地元の村人たちが「神隠しの山」と恐れ、決して足を踏み入れない禁域である。
山道を進む翁の足取りは、老いを感じさせないほどに軽い。かつて都で武芸を極めた伝説の流派「泰然流」の呼吸法が、彼の四肢に絶えず活力を送り込んでいるのだ。
しばらく歩くと、前方から「ズゥゥン……ズゥゥン……」と地響きのような音が聞こえてきた。普通なら、ここで命の危険を感じて逃げ出すだろう。だが、翁は足を止め、口角を上げた。
「よお、権太。今日も精が出るな」
竹藪の中から現れたのは、漆黒の毛で覆われた、一丈(約三メートル)はあろうかという巨躯。この山の絶対的な支配者、巨熊の権太である。権太は翁の姿を認めると、猛獣特有の獰猛な眼光を和らげ、低く「グルル……」と喉を鳴らした。
かつて、権太がまだ親を亡くしたばかりの子熊だった頃、罠にかかり瀕死の重傷を負っていたところを救ったのが翁だった。翁は泰然流の秘術で権太の経絡を整え、薬草を与え、冬を越せるまで世話をした。以来、権太はこの山の「守り神」となり、翁にだけは、極上の竹が生い茂る最奥の聖域への立ち入りを許しているのだ。
「ありがたいことじゃ。お前が見回ってくれるお陰で、わしはこうして最高の竹を分けてもらえる」
権太は翁に寄り添うように歩き、時折、鼻先で翁の肩を突く。その仕草は、まるで巨大な犬のようでもあった。権太が周囲を警戒してくれるため、翁は誰にも邪魔されず、竹の「声」を聴くことに集中できる。
翁は、立ち並ぶ竹の一本一本に手を触れていく。 「……これはまだ若い。……これは、少し根が弱っておるな。……おお、これだ」
彼が選ぶのは、単に形が良いだけの竹ではない。土から吸い上げた大地のエネルギーが、天に向かって真っ直ぐに、淀みなく流れている「命の竹」だ。翁が鉈を振るうと、竹は心地よい音を立てて倒れる。その切り口からは、微かに甘い、大地の香りが漂った。
しかし、この日の山は何かが違っていた。 権太が、急に立ち止まり、竹林のさらに奥――普段は彼らでさえ踏み込まない「最深部」を向いて、低く唸り声を上げたのだ。
「どうした、権太。何かおるのか?」
権太の背の毛が逆立っている。それは外敵への怒りというよりは、得体の知れない「大いなる力」に対する、本能的な畏怖のように見えた。
風が止まった。 竹の葉の擦れ合う音さえも消え、山全体が息を潜めたような、異様な静寂が支配する。
その時だ。竹林の奥から、一筋の細い、しかし強烈な光が射し込んできた。それは夕陽の赤とも、月の白とも違う。溶けた黄金を流し込んだかのような、神々しいまでの「輝き」であった。
「……なんじゃ、あれは」
翁は、吸い寄せられるように光の源へと歩き出した。背後で、権太が躊躇しながらも、主を守るべく、地響きを立ててついてくる。
そこにあったのは、一本の竹であった。 周囲の竹が青々と茂る中で、その一本だけが、まるで内側から満月が燃え上がっているかのように、煌々と輝いていた。光は竹の節々から溢れ出し、周囲の苔を黄金色に染め上げている。
翁は息を呑んだ。 竹細工師として数万本の竹を見てきた彼でさえ、これほどの「気」を放つものに出会ったことはない。
「これは……天がわしを呼んだのか」
翁は、震える手でその光る竹に近づいた。すると、竹の根元に、ふわりと柔らかな白い布に包まれた、小さな塊があることに気づいた。
「……赤子?」
光り輝く竹の傍らに、音もなく寝かされていたのは、一人の赤子であった。赤子は泣くこともせず、ただ澄んだ瞳で、翁を――あるいは、翁の背後に広がる広大な天を見つめていた。その肌は月の雫を固めたかのように白く、纏っている布には、見たこともない高貴な金糸の刺繍が施されている。
翁が赤子に手を伸ばそうとしたその瞬間、権太が激しく咆哮した。 「ガアァァァッ!」
それは、翁に向けられたものではなかった。 竹林の背後の闇から、音もなく、数人の影が舞い降りていた。顔を布で隠し、手には月光を不気味に弾く短刀を握った、血の匂いを纏う「刺客」たちである。
「……見つけたぞ。それが『災いの種』か」
刺客の一人が、冷徹な声で呟いた。その殺気は、この平和な竹林を一瞬にして戦場へと変えた。
翁は、赤子を守るようにその前に立った。その瞳から、老竹細工師の温和な色は消え、かつて「泰然流」の達人として戦場を駆けた、鋭い剣客の輝きが戻っていた。
「……この小さき客人を、一歩たりとも渡さん」
黄金に輝く竹の下で、翁、巨熊、そして刺客たちの、運命の激突が始まろうとしていた。




