第95話 その愛は世界へ
アリアは、世界の上を歩いているのではなく
世界から〝零れ落ちた影〟だけが
どこへともなく漂っている──
そんな在り方をしていた。
時也を喪ったその瞬間から──
彼女にとっての〝時間〟は
完全に断ち切られていた。
暦だけが一方的に捲られ
季節だけが衣を替えていく。
だがアリアの中では
あの夜から一秒たりとも針が動いていない。
口に物を入れることもなく
水で喉を潤すこともなく
瞼を閉じることさえ、彼女には赦されなかった。
眠れば必ず
不死鳥が夢の中に腕を伸ばしてくるからだ。
それは、慈悲の欠片もない反芻だった。
細った指の冷たさ
裂けるような掠れる呼吸
彫像のように動きも柔らかさも失った胸
笑みを浮かべて凍る顔──
時也の死の一瞬一瞬を
別の角度から、別の距離から
何百通りにも組み替えて見せつけてくる。
その度に、胸の内側に残っていた柔らかなものが
少しずつ削られていく。
彼女は彷徨った。
目的も、行き先も、もはや持たないまま
風に押し出される枯葉のように
夜の街を、森を、荒野を、ただ通り過ぎていく。
人の気配のある場所では視線を避け
廃れた礼拝堂や廃村では
天井越しの空を眺めて夜をやり過ごす。
朝になれば、また歩き出す──
それだけだ。
けれど、そんな生き方を何年重ねようとも
アリアの容貌には一切の翳りが訪れない。
不死鳥の血が静かに巡り続ける肉体は
頬の張りも、金の髪の光も
深紅の瞳の冷ややかな輝きさえも
残酷なまでに完璧なまま保持し続けていた。
凍結しているのは、魂の側だけだ。
癒えることのない裂傷が
見えない場所でいつまでも軋み続け、血を流し
心だけが、とうに死んだように沈黙している。
ただ一つ──
桜が咲き満ちる頃になると、アリアの足は
いつの間にか、あの丘を目指していた。
意志で選ぶのではなく
身体のどこかに刻まれた記憶が
ほんのわずか残った
〝行きたい〟という感情を掬い上げ
歩みをその方角へと向けさせる。
時也の桜の根元だけが
彼女に眠りを〝許す〟場所だった。
枝が花で重たく撓り
薄紅の天蓋が丘を覆うその季節だけ
不死鳥の爪は
なぜかアリアの夢に触れることができない。
どれほど深く眠りに沈んでも
あの夜の光景に引きずり戻されることはなく
ただ、土の匂いと桜の香りの中で
静かに呼吸を繰り返すことができた。
眠るという
当たり前の行為すら奪われた彼女にとって
それは、唯一与えられた安息であり──
この世界に残された最後の聖域だった。
「⋯⋯また、春に。
お前だけを愛しているよ──時也」
花の盛りが過ぎ
花弁が風に攫われて土へ還っていくと
アリアは立ち上がり、再び彷徨いに身を戻す。
同じ場所に留まれば
すぐに匂いを嗅ぎつける者たちがいる。
不死鳥の血と涙を狙う狩人たちを
彼女は嫌というほど知っていた。
自分という存在そのものが
常に追跡され
値踏みされる獲物であるという自覚だけが
歩みを前へと押し出していく。
愛する者を失った悲しみだけでは終わらない
行き先も終点もない、逃亡の連なり──
それが、今のアリアに残された
〝生〟のかたちだった。
やがて──季節が幾度も衣を替え
気づけば二十年という年月が
彼女の頭上を通り過ぎていた。
アリアの内側では、時也が息を引き取った瞬間が
今もなお、昨夜の出来事のような鮮烈さで
脈打っているというのに。
外側の世界だけは
何事もなかったかのように姿を変えていた。
久方ぶりに辿り着いた桜の丘の麓──
丘の頂へ視線を上げれば
そこには、かつてよりも一段と太く
逞しく育った一本の桜が聳えていた。
あの日
彼女が土を掘り、彼の眠りを委ねた場所には
今も変わらず小さな塚が在るだろう。
ふと視線を巡らせて、アリアは気づく。
頂へと続く道の両脇に
新たな桜の木々が並び立っている。
いつ芽吹き、いつ育ったのかも知らぬうちに
細かった幹は立派に太り
自然と列を揃えて空へ伸びていた。
丘の頂へ向かう細い道を挟み込み
まるでそこへ辿り着く者を見守る衛士のように
静かに佇んでいる。
枝先には
まだ堅く閉じた蕾が群れをなしていた。
アリアが、一歩、丘へと足を踏み入れた瞬間──
ポン──⋯⋯ポン──⋯⋯
誰かが見えない琴線を一斉にはじいたかのように
桜並木が呼吸を揃え、次々と花を開き始めた。
硬い殻が解ける音が
耳に聞こえない微かな衝撃となって空気を震わせ
薄紅の花弁があっという間に枝々を埋めていく。
たった今まで冬の色を残していた道が
アリアの歩みに合わせるように色を変え
頭上には桜の天蓋が連なり
足元には淡い影の模様が敷かれていく。
ほんの数歩進むごとに
世界は少しずつ春の濃度を増していった。
「⋯⋯逢いに来た私を⋯⋯
迎えて、くれているのか⋯⋯?」
自然と漏れた声に、応える者はいない。
それでも、左右からせり出した枝々が
広げられた両腕のように
彼女を抱き締めようとしている姿に見えた。
道の果て、丘の頂にたどり着いた時──
最後に残っていた一輪のように
時也の眠る桜が、一際鮮やかに咲き誇った。
幹は大地に深く爪を立てるように根を張り
空を覆うほどの枝が四方へと広がり
その下には、幾重にも折り重なった花弁の絨毯が
やわらかな起伏を描いている。
アリアは、その歓迎を受け止めるように
ゆっくりと膝を折った。
塚のすぐ傍らに腰を下ろし、背を幹へと預ける。
長い彷徨いで固くなりきっていた肩が
ようやく、わずかに落ちた。
「⋯⋯お前は、こんな姿になっても──
まだ、私を愛してくれるのか⋯⋯」
胸の奥に沈めていた問いが
気づけば唇を通って漏れていた。
不死鳥の呪いに縛られたこの身とは反対に
時也の桜だけは、何の見返りも求めず
同じ仕方で春ごとに花を開く。
枝葉を揺らし、花を零し、香りを放ち──
そのすべてが、変わらぬ愛の証として
彼女に注がれているように思えた。
長く凍りついていた心の表面が
かすかにひび割れる。
笑うという動作を忘れていた唇が
ぎこちなくも、微かな弧を描こうとする。
梢を渡る風が、花の群れを撫でた。
ひとひら、またひとひらと花弁が舞い落ち
アリアの髪に、肩に、膝に──
やさしく触れて、留まる。
その軽さと温みが、かつて彼女の指先を包んだ
時也の掌の感触を鮮明に甦らせた。
「今この時は──お前の、傍に」
誰に向けるでもない囁きが
花の香りとともに空気へと滲んでいく。
この桜の根元だけが
アリアにとって安らぎを許された場所であり
時也と共に在ることを赦された
ただ一つの場所だった。
静かに呼吸を整え、彼女は瞼を閉じる。
まつ毛の上に落ちた花弁が
そのまま眠りへの重石となる。
枝の影と土の匂いと花の香りに包まれながら──
アリアは、ようやく深い眠りへと沈んでいった。
春の夜風が丘を撫で
時也の桜がささやかに揺れる。
舞い上がった花びらが渦を描き
眠るアリアの周りへと降り注いだ。
その光景はまるで──
地の下に眠る男が、目には見えぬ腕を伸ばし
静かに彼女を抱き寄せているかのようだった。
終わりなき孤独を背負わされた魔女と
桜の下に眠るひとりの男。
桜が咲き満ちるこの短い季節だけが
二人をこの世界に繋ぎ止める──
ただ刹那の時間だった。
花が散るまで──
アリアは静かに、時也の夢を抱いたまま
短い眠りに身を委ねていた。
桜の天蓋の下でだけ許されたその眠りは
夜と昼の境目のように儚く
それでも確かに彼女を生かし繋ぎ止めていた。
⸻
時也が眠る桜の丘。
長い年月が降り積もるあいだに
かつて丘の向こうに小さく見えていた村は
いつの間にか大きな街へと姿を変えていた。
商人と旅人が絶え間なく行き交い
掛け声と笑い声が交錯する市場には
色とりどりの布と香辛料が並ぶ。
異国の言葉が飛び交い
見知らぬ神々の名を刻んだ護符が軒を連ねる。
季節は巡り、春が訪れるたびに──
この街もまた路地の隅々にまで花の色を宿した。
ある日──
一人の旅商人が、風に導かれるように丘を登り
その頂に広がる桜並木を目の当たりにした。
淡い薄紅の花びらが
風にあおられて一斉に舞い上がり
春霞にも似た帳となって空間を満たす。
見たこともない光景に息を呑んだ商人は
そっと枝を一本手折り、故郷への手土産とした。
やがて、その土地にも桜は根を下ろし
季節が巡る毎に、人々の目を惹きつけていった。
美しさの噂は早い。
街から街へ、国から国へ──
誰かが苗木を携え、誰かが種を託し
桜は遠く離れた大地へと渡っていった。
ほどなくして
時也の眠る丘から遙か遠い異国の空の下にも
春になると薄紅の花を宿す並木が
現れるようになった。
その頃──
アリアは、知らぬ国の知らぬ都で
その桜を見上げていた。
地面の上に、降るように零れ落ちる花。
建物の屋根を縁取るように咲き誇る花。
風に揺れる枝を仰ぎ見たとき
彼女の唇に、自然と微かな笑みが灯る。
「⋯⋯此処にも──
お前の生きた証が、在るのだな」
掻き消えるような声で呟き
舞い降りてきたひとひらを指先に受け止める。
冷たいはずの花弁が
かつて自分の手を包んだ掌の温もりを
確かに呼び覚ました。
どれほど遠く離れた地であっても
桜が咲いていれば──
そこにもまた時也が息づいているように思える。
不死鳥の呪いに囚われ続ける長い長い旅路の中で
それは、彼女に与えられたわずかな救いだった。
花が咲く限り──
どこかで時也が、自分の行く末を見守っている。
そう信じることができるだけで
歩みは、ほんの少しだけ軽くなる。
やがて、また春が訪れる。
アリアは、いつものように
時也の眠る丘へと足を向けた。
桜が咲き満ち
風が吹くたびに花びらが雪のように舞う。
丘へ続く道の両側に並ぶ桜たちが一斉に花を開き
彼女を包み込むように枝を差し伸べる。
「⋯⋯ただいま、時也」
低く囁きながら
アリアは花のトンネルを歩いていく。
その歩みに合わせて木々がさやさやと揺れ
薄紅の幕が幾重にも降りてきて
彼女の肩と髪に柔らかな影を落とした。
丘の頂に辿り着くと──
時也の桜は、今年も変わらず
誰よりも鮮やかに咲き誇っていた。
ただ、一つだけ違うものがあった。
桜の根元には
もう静寂だけが横たわってはいない。
花を見上げながら語り合う人々。
笑い合い、杯を掲げる者たち。
舞い散る花びらを追いかけて駆け回る子供たち。
幹にもたれ、寄り添い合う若い男女の姿。
アリアはフードを深く被り
人混みの少し外側でその光景を黙って見つめた。
「⋯⋯お前も、寂しくなかろう」
ひとりごとのように落とした声に
自然と口元が、ほんの僅かに緩む。
孤独の象徴であったはずの桜が
いつしか人々の集う場となっていた。
春の訪れを祝う祭りのように
年ごとに人の輪は大きくなっていく。
やがて
アリアは人影の途切れた根元の一角に腰を下ろし
幹に背を預けた。
本当なら、この喧騒の中でさえなかったら
彼女は目を閉じ
そのまま眠りに落ちてしまいたかった。
だが、これほど多くの気配と声に囲まれていては
深い眠りは訪れてくれないだろう。
それでも──
ここまで辿り着けたのなら、それで良い。
「⋯⋯眠れなくても、いい。
お前が、愛され続けているのなら⋯⋯」
見上げた空は
花の白と薄紅で埋め尽くされている。
かつて一本きりで孤高に咲いていた桜は
今では多くの仲間と肩を並べ
枝を広げて人々の頭上に影を落としていた。
時也の両腕が、いつの間にか何倍にも増え
見知らぬ誰かの笑顔をも
包み込んでいるようだった。
人々の笑い声が、遠い潮騒のように耳に届く。
それは喧噪であるはずなのに
アリアには、心地よい子守歌のように響いた。
そっと瞼を閉じた瞬間
ひとひらの花びらが肩に落ちて
衣の上で静かに震える。
わずかなその重みが
いつか頬に触れた手つきと同じ加減であることに
彼女は気づいていた。
「⋯⋯また、春に──必ず、戻って来る」
囁きは風に紛れ
舞い上がった花びらとともに空へ溶けていく。
胸の奥を巡る不死鳥の血が
その時だけは不思議と穏やかな温もりを帯びた。
まるで、時也の心そのものが桜となり
世界中の空の下で花を咲かせているかのように。
(⋯⋯お前の花が、こんなにも愛されている──
それだけで、私は⋯⋯)
〝強く──在れる〟
言葉にならぬ思いが、静かに形を結んだ刹那
丘一面の桜が、同じ方向から吹き抜けた風に揺れ
柔らかな音を立てた。
それは、誰も知らぬ声で伝えられる
ひとつの挨拶のようだった。
──〝おかえりなさい〟
たしかに、そう囁かれた気がした。
アリアは微かに微笑み
根元に寄り添うように座ったまま
満開の桜を見上げ続ける。
人々の笑い声が響き
桜吹雪が絶え間なく舞い落ちる中で
時也の桜は、変わらぬ静けさで
すべてを見守っていた。
それが、アリアにとって
何よりの安息の時だった。
花が咲き続ける限り──
その愛が
この世界のどこかで永遠に息づいているのだと
彼女は信じていた。




