表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
彷徨う紅

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/145

第94話 亡霊

丘の頂に、一本の桜の若木が立っていた。


風にしなることもなく

ただ静かに空を支えようと伸びた幹。


その根元には、土をわずかに盛り上げただけの

小さな塚が身を寄せるように建っている。


アリアはその前に立ち

花嵐の記憶を纏う梢を仰ぎ見て

わずかに瞳を細める。


「⋯⋯時也──」


零れた呼び名は

風に攫われれば消えてしまうほど、か細い。


彼が息を引き取ってから

いくつの朝が明け、いくつの夜が落ちたのか。


暦を繰って数えようとすればできたのだろうが

アリアはとうに、その営みを手放していた。


日付も季節も、彼女の内ではとうに意味を失い

ただ〝時也のいない時間〟という

ひとつの長い影となって、心の底に沈んでいる。


桜の幹へ伸ばした指先に

ひんやりとした樹皮の感触が触れたとき──

静かに、古い記憶が浮かび上がる。



──あの日。


アリアは血塗れのまま

狩人達に追い立てられていた。


焼けた村の臭い

血の夜気

渇望と俗欲

祈りと呪いが入り混じった叫び


走り抜けてきた土地はどこも似通っていて

もはやどちらの国境を越えたのかさえ

判然としない。


ただ、背後から迫る殺意だけが

彼女の足を前へ押し出していた。


やがて、追手の気配が遠のいたとき

足はふいに丘の頂、一枚の影の中で止まる。


見上げれば、空一面に広がる薄紅の樹冠。


枝という枝に

知らぬ形の五弁の花がびっしりと咲き誇り

風に揺らめきながら淡い光を零していた。


永い時を生きてきたアリアにとっても

その花は〝初めて〟見るものだった。


名も知らぬ一樹。


だが、その花弁の薄さ、その色の儚さは

全てを焼き払ってきた彼女の目には

あまりにも遠い世界のもののように映った。


世界が焼け落ち

血と灰ばかりになった後でなお

このような色が残っていたことが

ひどく不愉快であり、ひどく──眩しかった。


息を整えることも忘れ、ただ無心に

その見知らぬ花を見上げていた、そのとき──


空が裂けた。


「っ⋯⋯!」


風の流れが急に変わり、頭上で気配が翻る。


反射だけで身を低くした次の瞬間

藍色の何かが視界を掠め──

地面に叩きつけられた。


土が跳ね、花弁が舞う。


足元に倒れ伏したのは

藍色の異国の衣を纏った──青年だった。


黒褐色の髪は

汗と土で乱れながらも柔らかい艶を失っておらず


鳶色の瞳は、眩しさに細められたまま

しばし空と桜の境界を見つめている。


腰の帯、衣の縫い目、纏う空気──

そのどれもが、この近隣の国々のものとは

異なる様式を示していた。


アリアの眼差しは、無意識に

獣が獲物を測る角度になる。


絶望と殺戮ばかりを積み重ねてきた日々。


追ってくるのは狩人

捕らえようとするのは教会

求めてくるのは不死の血と涙の宝石──


血に塗れた女豹のように

彼女は当然の帰結として

この青年もまた敵であろうと判じていた。


脚に走る傷はまだ完全には塞がらず

内側では不死鳥の炎がじりじりと疼いている。


手にする刃も炎も

いつでも繰り出せる位置にあった。


だが──青年は、起き上がりもしなかった。


荒い呼吸を整え

それからゆっくりと身を起こすと

彼は恐怖に目を見張るでも、逃げ出すでもなく

ただ目の前の女を呆然と見た。


血に塗れた衣服

裂けた脚

あらぬ方向を向いた腕──


常の者であれば悲鳴を上げる光景を

青年はただ、真正面からその惨状を見つめた。


そして、次の瞬間

彼は自らの身を案じるより先に声を張り上げた。


「なんて酷い⋯⋯今、治療を──っ!」


アリアが目を細める間もなく

青年は長い袖を咥えて裂き

あろうことか、植物の異能を使ってみせた。


だが〝敵意〟の気配は──どこにもない。


あるのは、傷の状態を見極める冷静さと

微かな戸惑いと焦燥だけ。


彼はアリアの前に膝をつき

治療の手を止めない。


その手つきは焦燥に、ぎこちなさを含みながらも

明らかに慣れた者のそれだった。


そして──不死鳥の再生を見た。


焦げ付いた肉の下から、新しい肌が、ゆっくりと

しかし確実に芽吹くように現れていく。


その異様な光景を

彼は最後まで目を逸らさなかった。


驚愕はあった。

恐怖も、当然あっただろう。


だがそれらを

彼はひとつの言葉へと沈めていく。


「⋯⋯それが、貴女の〝悲しみ〟なのですね」


鳶色の眼差しが、真っ直ぐにアリアを捉える。

その声には、憎悪も嫌悪も含まれていなかった。


あるのは、理解しきれぬものを前にした困惑と

その向こう側に微かに宿る、誰かを案じる痛み。


アリアは無言で彼を睨み返す。


視線は刃にも等しく鋭く──

目前に立つ者の首を

幾度も落としてきた光を宿している。


それでも、青年は怯まない。


血に濡れた彼女の前で、わずかに口元を緩めると

ひどく〝不釣り合い〟な言葉を落とした。


「⋯⋯僕は、貴女に──

〝一目惚れ〟してしまいました」


空気が、一瞬だけ静止する。


何故、この状況で。

何故、この惨めな姿の自分に。

何故、魔女の異能を持つ身でありながら──

〝原罪〟である私を憎まないのか。


畏れられ、憎まれ

狩られ続けてきた彼女の理屈では──

決して導き出せない言葉だった。


欲望に塗れた眼差し

不死の血に群がる手

焔を恐れる祈り


血と炎に塗れた自分を前にして

この男は──そのどれとも違う


〝愛しさ〟と呼ぶべきものだけを

その瞳に湛えていた。


アリアの胸の奥で、何かが小さく軋む。


何故──

世界の理から外れたこの存在を

〝ただ一人の女として〟見ていられるのか。


アリアはただ、沈黙の刃を保ったまま

青年を見下ろし続けた。


それでも彼は退かない。


「貴女のお傍に⋯⋯居させて貰えませんか?」


その願いは、あまりにも不釣り合いで──

だからこそ、あまりにも真っ直ぐだった。


拒絶という言葉は、喉の奥で形を成しかけて

そこから先に進まなかった。


初めての感覚だった。


絶望しか知らぬ彼女に向けられた

分け隔てのない眼差し。


魔女のことも

不死鳥という呪いも、血の価値も

魔女狩りという同族殺しの罪も──


全て知らぬ青年だけが

アリアをただひとりの存在として見つめている。


気付けば──

彼女は、その異国の青年を受け入れていた。


魔女と教会、その因縁も

不死の血に纏わる欲望も

何も知らぬままに

彼だけがアリアの傍に立った。


それが、時也との──始まりだった。


(⋯⋯来世こそは──共に、生きよう⋯⋯時也)


現在の丘に、記憶の余韻が静かに溶ける。


アリアの睫毛の縁に、うっすらと光が滲む。

だが、それはもはや涙とは呼べない。


頬を伝ってこぼれ落ちることもなく

ただ乾いた瞳の奥で

ひとしずくの光として揺れただけだった。


彼女は静かに手を伸ばし

桜の幹に指先を滑らせる。


粗い樹皮の起伏を

確かめるように撫でるその仕草は

まるで眠る誰かの髪を梳く手付きにも似ていた。


この根の下に、時也の身体が眠っている。


もう二度と会えない──

その事実はとっくに理解している。


けれど指はなお、祈るように幹をなぞり続けた。


やがて、その手をゆっくりと離すと

アリアは背に沈めていた力を

ひとつ息を吸うように呼び覚ます。


背骨のあたりで、目に見えぬ炎が静かに孕み

次の瞬間

深紅の光が彼女の肩甲骨から溢れ出た。


炎の粒が羽根のように連なり

空を裂く二枚の翼を形作る。


紅蓮の光が、丘の上を

そしてかつて家族の暮らした屋敷を

淡く照らし出した。


アリアは振り返らない。


視線は桜から離れぬまま

炎の翼だけを、屋敷へと向ける。


一閃──


放たれた炎の奔流が、風に乗って滑るように走り

瞬く間に屋敷を包み込んだ。


ひと呼吸のうちに

見慣れた屋根が炎の舌に舐め尽くされ

壁が赤々と染まり、窓が内側から砕け散る。


共に笑った食卓も。

寄り添って眠った寝台も。

朝ごとに差し込む光を受けていた床も。


過ごした日々の一切が、熾火となって揺らめき

やがて灰へと還っていく。


「お前が、生まれ変わったら⋯⋯

また、逢おう⋯⋯」


桜を見つめる横顔のまま

アリアは静かに言葉を紡ぐ。


「それまで──さようならだ、時也」


燃え盛る屋敷を背に、アリアは丘を降り始める。


その顔からは、一切の感情が剥ぎ取られていた。

悲嘆も、慟哭も、嘆息も、そこには無い。


深紅の瞳だけが

乾いた光を宿したまま、遠くを見据えている。


「⋯⋯絶望など、してやるものか」


吐き出された声は

氷の刃を連想させるほど静謐だった。


「⋯⋯お前の糧には⋯⋯決してならんぞ。

不死鳥──」


名を呼ばれた神は、どこにも姿を見せない。


だが、アリアの瞳の奥で燃える光は

もはや祈りの炎ではなかった。


それは悲しみでもなく、怒りとも違う。


ただ一つ、夫の遺したものを絶やさぬために

すべての感情を刈り取り凝縮させた──

凍てついた覚悟の火だった。


炎の翼は、やがて役目を終えたように静かに萎え

粒子へとほどけて空気に溶ける。


再び丘には、冷たい風だけが通り抜けた。


絶望を殺し、希望をも殺し

喜びも悲しみも等しく断ち切って──


アリアはただ

桜を振り返ることなく、前へと歩を運ぶ。


その歩みは、心というものを置き去りにした

亡霊の行進のように──

静かで、冷たく、徹底して孤独だった。


桜の枝に残っていた最後の葉が

ひらりと空に舞い上がる。


行き場を失ったかのように宙を漂い

やがて燃え尽きた屋敷の残骸へと落ちて

白い灰の上に小さな色を残した。


丘を降りゆくアリアの姿もまた

宵闇に溶け込むように、その輪郭を失ってゆく。


それは、愛を失った魔女が──

永い孤独へと歩み出す、最初の一歩であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ