第94話 亡霊
丘の頂に、一本の桜の若木が立っていた。
風にしなることもなく
ただ静かに空を支えようと伸びた幹。
その根元には、土をわずかに盛り上げただけの
小さな塚が身を寄せるように建っている。
アリアはその前に立ち
花嵐の記憶を纏う梢を仰ぎ見て
わずかに瞳を細める。
「⋯⋯時也──」
零れた呼び名は
風に攫われれば消えてしまうほど、か細い。
彼が息を引き取ってから
いくつの朝が明け、いくつの夜が落ちたのか。
暦を繰って数えようとすればできたのだろうが
アリアはとうに、その営みを手放していた。
日付も季節も、彼女の内ではとうに意味を失い
ただ〝時也のいない時間〟という
ひとつの長い影となって、心の底に沈んでいる。
桜の幹へ伸ばした指先に
ひんやりとした樹皮の感触が触れたとき──
静かに、古い記憶が浮かび上がる。
──あの日。
アリアは血塗れのまま
狩人達に追い立てられていた。
焼けた村の臭い
血の夜気
渇望と俗欲
祈りと呪いが入り混じった叫び
走り抜けてきた土地はどこも似通っていて
もはやどちらの国境を越えたのかさえ
判然としない。
ただ、背後から迫る殺意だけが
彼女の足を前へ押し出していた。
やがて、追手の気配が遠のいたとき
足はふいに丘の頂、一枚の影の中で止まる。
見上げれば、空一面に広がる薄紅の樹冠。
枝という枝に
知らぬ形の五弁の花がびっしりと咲き誇り
風に揺らめきながら淡い光を零していた。
永い時を生きてきたアリアにとっても
その花は〝初めて〟見るものだった。
名も知らぬ一樹。
だが、その花弁の薄さ、その色の儚さは
全てを焼き払ってきた彼女の目には
あまりにも遠い世界のもののように映った。
世界が焼け落ち
血と灰ばかりになった後でなお
このような色が残っていたことが
ひどく不愉快であり、ひどく──眩しかった。
息を整えることも忘れ、ただ無心に
その見知らぬ花を見上げていた、そのとき──
空が裂けた。
「っ⋯⋯!」
風の流れが急に変わり、頭上で気配が翻る。
反射だけで身を低くした次の瞬間
藍色の何かが視界を掠め──
地面に叩きつけられた。
土が跳ね、花弁が舞う。
足元に倒れ伏したのは
藍色の異国の衣を纏った──青年だった。
黒褐色の髪は
汗と土で乱れながらも柔らかい艶を失っておらず
鳶色の瞳は、眩しさに細められたまま
しばし空と桜の境界を見つめている。
腰の帯、衣の縫い目、纏う空気──
そのどれもが、この近隣の国々のものとは
異なる様式を示していた。
アリアの眼差しは、無意識に
獣が獲物を測る角度になる。
絶望と殺戮ばかりを積み重ねてきた日々。
追ってくるのは狩人
捕らえようとするのは教会
求めてくるのは不死の血と涙の宝石──
血に塗れた女豹のように
彼女は当然の帰結として
この青年もまた敵であろうと判じていた。
脚に走る傷はまだ完全には塞がらず
内側では不死鳥の炎がじりじりと疼いている。
手にする刃も炎も
いつでも繰り出せる位置にあった。
だが──青年は、起き上がりもしなかった。
荒い呼吸を整え
それからゆっくりと身を起こすと
彼は恐怖に目を見張るでも、逃げ出すでもなく
ただ目の前の女を呆然と見た。
血に塗れた衣服
裂けた脚
あらぬ方向を向いた腕──
常の者であれば悲鳴を上げる光景を
青年はただ、真正面からその惨状を見つめた。
そして、次の瞬間
彼は自らの身を案じるより先に声を張り上げた。
「なんて酷い⋯⋯今、治療を──っ!」
アリアが目を細める間もなく
青年は長い袖を咥えて裂き
あろうことか、植物の異能を使ってみせた。
だが〝敵意〟の気配は──どこにもない。
あるのは、傷の状態を見極める冷静さと
微かな戸惑いと焦燥だけ。
彼はアリアの前に膝をつき
治療の手を止めない。
その手つきは焦燥に、ぎこちなさを含みながらも
明らかに慣れた者のそれだった。
そして──不死鳥の再生を見た。
焦げ付いた肉の下から、新しい肌が、ゆっくりと
しかし確実に芽吹くように現れていく。
その異様な光景を
彼は最後まで目を逸らさなかった。
驚愕はあった。
恐怖も、当然あっただろう。
だがそれらを
彼はひとつの言葉へと沈めていく。
「⋯⋯それが、貴女の〝悲しみ〟なのですね」
鳶色の眼差しが、真っ直ぐにアリアを捉える。
その声には、憎悪も嫌悪も含まれていなかった。
あるのは、理解しきれぬものを前にした困惑と
その向こう側に微かに宿る、誰かを案じる痛み。
アリアは無言で彼を睨み返す。
視線は刃にも等しく鋭く──
目前に立つ者の首を
幾度も落としてきた光を宿している。
それでも、青年は怯まない。
血に濡れた彼女の前で、わずかに口元を緩めると
ひどく〝不釣り合い〟な言葉を落とした。
「⋯⋯僕は、貴女に──
〝一目惚れ〟してしまいました」
空気が、一瞬だけ静止する。
何故、この状況で。
何故、この惨めな姿の自分に。
何故、魔女の異能を持つ身でありながら──
〝原罪〟である私を憎まないのか。
畏れられ、憎まれ
狩られ続けてきた彼女の理屈では──
決して導き出せない言葉だった。
欲望に塗れた眼差し
不死の血に群がる手
焔を恐れる祈り
血と炎に塗れた自分を前にして
この男は──そのどれとも違う
〝愛しさ〟と呼ぶべきものだけを
その瞳に湛えていた。
アリアの胸の奥で、何かが小さく軋む。
何故──
世界の理から外れたこの存在を
〝ただ一人の女として〟見ていられるのか。
アリアはただ、沈黙の刃を保ったまま
青年を見下ろし続けた。
それでも彼は退かない。
「貴女のお傍に⋯⋯居させて貰えませんか?」
その願いは、あまりにも不釣り合いで──
だからこそ、あまりにも真っ直ぐだった。
拒絶という言葉は、喉の奥で形を成しかけて
そこから先に進まなかった。
初めての感覚だった。
絶望しか知らぬ彼女に向けられた
分け隔てのない眼差し。
魔女のことも
不死鳥という呪いも、血の価値も
魔女狩りという同族殺しの罪も──
全て知らぬ青年だけが
アリアをただひとりの存在として見つめている。
気付けば──
彼女は、その異国の青年を受け入れていた。
魔女と教会、その因縁も
不死の血に纏わる欲望も
何も知らぬままに
彼だけがアリアの傍に立った。
それが、時也との──始まりだった。
(⋯⋯来世こそは──共に、生きよう⋯⋯時也)
現在の丘に、記憶の余韻が静かに溶ける。
アリアの睫毛の縁に、うっすらと光が滲む。
だが、それはもはや涙とは呼べない。
頬を伝ってこぼれ落ちることもなく
ただ乾いた瞳の奥で
ひとしずくの光として揺れただけだった。
彼女は静かに手を伸ばし
桜の幹に指先を滑らせる。
粗い樹皮の起伏を
確かめるように撫でるその仕草は
まるで眠る誰かの髪を梳く手付きにも似ていた。
この根の下に、時也の身体が眠っている。
もう二度と会えない──
その事実はとっくに理解している。
けれど指はなお、祈るように幹をなぞり続けた。
やがて、その手をゆっくりと離すと
アリアは背に沈めていた力を
ひとつ息を吸うように呼び覚ます。
背骨のあたりで、目に見えぬ炎が静かに孕み
次の瞬間
深紅の光が彼女の肩甲骨から溢れ出た。
炎の粒が羽根のように連なり
空を裂く二枚の翼を形作る。
紅蓮の光が、丘の上を
そしてかつて家族の暮らした屋敷を
淡く照らし出した。
アリアは振り返らない。
視線は桜から離れぬまま
炎の翼だけを、屋敷へと向ける。
一閃──
放たれた炎の奔流が、風に乗って滑るように走り
瞬く間に屋敷を包み込んだ。
ひと呼吸のうちに
見慣れた屋根が炎の舌に舐め尽くされ
壁が赤々と染まり、窓が内側から砕け散る。
共に笑った食卓も。
寄り添って眠った寝台も。
朝ごとに差し込む光を受けていた床も。
過ごした日々の一切が、熾火となって揺らめき
やがて灰へと還っていく。
「お前が、生まれ変わったら⋯⋯
また、逢おう⋯⋯」
桜を見つめる横顔のまま
アリアは静かに言葉を紡ぐ。
「それまで──さようならだ、時也」
燃え盛る屋敷を背に、アリアは丘を降り始める。
その顔からは、一切の感情が剥ぎ取られていた。
悲嘆も、慟哭も、嘆息も、そこには無い。
深紅の瞳だけが
乾いた光を宿したまま、遠くを見据えている。
「⋯⋯絶望など、してやるものか」
吐き出された声は
氷の刃を連想させるほど静謐だった。
「⋯⋯お前の糧には⋯⋯決してならんぞ。
不死鳥──」
名を呼ばれた神は、どこにも姿を見せない。
だが、アリアの瞳の奥で燃える光は
もはや祈りの炎ではなかった。
それは悲しみでもなく、怒りとも違う。
ただ一つ、夫の遺したものを絶やさぬために
すべての感情を刈り取り凝縮させた──
凍てついた覚悟の火だった。
炎の翼は、やがて役目を終えたように静かに萎え
粒子へとほどけて空気に溶ける。
再び丘には、冷たい風だけが通り抜けた。
絶望を殺し、希望をも殺し
喜びも悲しみも等しく断ち切って──
アリアはただ
桜を振り返ることなく、前へと歩を運ぶ。
その歩みは、心というものを置き去りにした
亡霊の行進のように──
静かで、冷たく、徹底して孤独だった。
桜の枝に残っていた最後の葉が
ひらりと空に舞い上がる。
行き場を失ったかのように宙を漂い
やがて燃え尽きた屋敷の残骸へと落ちて
白い灰の上に小さな色を残した。
丘を降りゆくアリアの姿もまた
宵闇に溶け込むように、その輪郭を失ってゆく。
それは、愛を失った魔女が──
永い孤独へと歩み出す、最初の一歩であった。




