第93話 祈りは永遠へ──
その日──
空は、どこまでも鈍い鉛のように沈んでいた。
雨になることも
晴れることも許されないまま
ただ灰色の膜を張りつめた天蓋が
世界全体に垂れ込めている。
冷たく湿った空気が、肌に淡くまとわりつく。
指で払っても剥がれ落ちぬ薄い水膜のように
重く、暗く、離れない。
まるで──
世界そのものが、ひとつの巨大な喪服を纏い
静かに、深い悲嘆の中へと
沈み込んでいるかのようだった。
──屋敷の奥、寝室。
重い扉を閉ざしたその小さな空間だけが
外の曇天から切り離された〝密室〟のように
静まり返っている。
薄明かりの差す室内の中央。
布団の上には
冷たくなった時也の亡骸が横たえられていた。
いつもならば、柔らかな寝息と共に
胸が、静かな潮の満ち引きのように
上下していたはずだった。
今、その胸は
まるで時間そのものから切り離された
彫像のように、動かない。
アリアは、息を引き取った彼の胸元に
そっと身を寄せていた。
頬を布に預ける角度は
これまで幾度も繰り返した
甘やかな夜の寄り添いと寸分違わぬのに──
ただ一つ違うのは、耳を押し当てても
そこから何ひとつ音が返ってこないことだけ。
かつて規則的に跳ね
自分の名を呼ぶたびに速さを変えたその心臓は
今は静寂の闇の底で
完全にその仕事を終えている。
薄い布越しに伝わる肌の感触は
夜風に晒された石畳のように冷え切り
ひと欠片の温度も返してはくれない。
自分を幾度も抱き寄せ
温もりと共にその腕の中へ閉じ込めてくれた胸は
今や、石像の胸郭となんら変わらぬ硬さで
ただ、そこに在るだけだった。
アリアはその冷たさから逃れるように
しかし離れぬように
彼の胸に顔を埋めたまま、静かに瞼を閉じる。
(⋯⋯火葬にすべきか⋯⋯
土葬に、すべきか⋯⋯)
思考だけが、静けさの中を彷徨う。
火に還すか、土に還すか──
その二択すら
今の彼女には残酷な問いに過ぎなかった。
火葬にすれば、彼の身体は炎に還る。
しかし炎とは──不死鳥の系譜。
その想像だけで、胸の奥が軋んだ。
時也を蝕み、最後には奪い去ったあの炎が
今度は彼の亡骸を包み込む光景。
燃え上がる羽根の中で
骸さえ嗤いながら焼き尽くされていくような
悪夢にも似た情景が脳裏に滲む。
(⋯⋯そんなものは──耐えられない)
アリアは
微かに眉根を寄せ、ゆっくりと顔を上げた。
硬く冷たくなった胸から頬を離し
指先で彼の頬の輪郭をなぞる。
微笑と共にわずかに熱を孕んでいた肌は
今は氷の面を撫でるのと変わらぬ冷たさで
彼女の指を拒むことも、受け入れることもない。
「⋯⋯ならば、土葬にしよう⋯⋯」
掠れた声が、唇から零れ落ちる。
その言葉を受け止める者は
もうこの部屋には──誰もいない。
無意識のまま、指が彼の髪へと伸びる。
黒褐色の髪を、そっと掬い上げるように撫でた。
一本一本を確かめるように撫でるたび
掌には、かつて枕元で眠りに落ちていく彼を
同じようにあやした夜の記憶が、淡く蘇る。
柔らかく、少しだけ癖のある毛並みだけが
〝生前と何ひとつ変わらぬ〟感触で
梳くたびに指の間を滑り落ちていく。
その髪を繰り返し梳きながら
アリアは静かに決意を組み上げていく。
(⋯⋯時也が愛した場所に、眠らせよう⋯⋯)
彼は、植物を愛していた。
桜を、誰よりも。
初めて出逢ったあの桜の下へ──
その桜の傍にこの屋敷を建て
花びらが降りしきる木の下で
時也は枝を見上げ
あの薄紅をひどく愛おしそうに見つめていた。
(⋯⋯お前が愛した桜が
お前の墓標となるのなら⋯⋯)
それが、彼にとって最も相応しい形だと
アリアは思う。
「⋯⋯不死の血を添えれば⋯⋯
桜は、永遠に咲き続ける⋯⋯
不死鳥も、桜ならば⋯⋯拒むまい──」
囁くような声が、乾いた唇から漏れる。
その言葉に、自分自身がひどく遠く感じられた。
不死鳥の血──
それは、彼女にとって
何よりも忌まわしい呪いだった。
その血は、触れた命の灯火を永遠に引き伸ばす。
だが、一度消えた炎を再び灯すことはない。
死を超えた先へと連れ戻す力など
如何に生命の神だとて、与えられていない。
死の間際、アリアは不死鳥の力をもってしても
時也を救うことはできなかった。
心臓を捧げ、血を喰らわせても
病を癒すどころか
彼の命を不死に引き上げることはなかった。
不死鳥が──それを拒んだ。
当然だ⋯⋯
時也を蝕んだのは
他ならぬ不死鳥自身であり──
あの力は、最後の最後に至るまで
彼を救う意思を示さなかった。
彼女が差し出した心臓も、不死の血も──
結局は、時也の命を繋ぐどころか
削り取るだけの行為だったのかもしれない。
胸の奥で何かが軋む。
けれど、呻きも涙も、喉を越えてはこない。
アリアは、冷え切った唇の縁を指先でなぞった。
色を失った唇は
触れれば崩れてしまいそうなほど脆く見える。
あの声が⋯⋯恋しい。
(⋯⋯私は⋯⋯何を、している⋯⋯?)
不死である自分が
〝人〟として生きる彼を求め続けた。
同じ時間を、と願いながら──
一方だけが終わりを持たないまま
歩み寄ろうとしてしまった。
それでも彼は、最後に〝幸せだった〟と告げた。
その言葉は、優しい祝福のようでありながら──
アリアには、それすらも
今は〝呪い〟のように思えた。
彼がそう言ってしまったことで
自分が彼から奪ってしまったものの大きさを
決して忘れられなくなってしまったからだ。
彼女はただ、黙ってその唇から指を離す。
指先に残る冷たさが
ゆっくりと肌の奥へ沈んでいった──
顔を近付けると、冷えたその唇に
自分の吐息が僅かにかかるのが分かった。
(⋯⋯何かしらの形で⋯⋯
この世界に、永遠に残るのなら⋯⋯)
思考は声にならず
胸の奥で沈み込むように輪郭を失っていく。
アリアは静かに左手を持ち上げた。
袖の影から伸びた細い手首を
ゆっくりと自らの口元へと導く。
白磁のような肌に、薄く歯を立て
次の瞬間、躊躇いのない力で
鋭い牙が皮膚を食い破った。
微かな布擦れの音とともに
血の匂いが立ち上る。
裂けた皮膚の間から
濃く、暗い紅がにじみ出た。
ただ静かに溢れ出し
一筋の線となって手首を伝っていく。
紅い滴が落ちるより先に
アリアはその血を唇で掬い上げた。
不死鳥の血。
救いとも呪いともつかぬ
その灼けつくような味が、口内に広がる。
苦味とも甘味とも違う
鉄と炎と夜の混ざり合ったような奔流が
舌の上をゆっくりと流れていった。
やがて
アリアはその血を唇に含んだまま顔を傾ける。
瞼は穏やかに閉じられ
まるで短い午睡に落ちているだけのような
静けさを湛えている時也の顔に近づく。
アリアは
冷え切ったその唇に自らの唇を重ねた。
「⋯⋯⋯」
幼子に口づけるような
ひどく慎重な触れ方だった。
不死鳥の血が、二人の唇のあいだから
細い筋となって零れ落ちる。
白い頬を伝い
顎の先でひとつの滴に結ばれてから
ぽとりと胸元の布を染めた。
その行為に、涙は無かった。
泣くという機能そのものが
もうこの身から奪い取られてしまったかのように
両の瞳はただ静かに
乾いたまま時也を見つめている。
唇を離すと、不死鳥の血が彼の唇を濡らし
閉ざされた口端から、静かに流れ落ちていく。
その紅い筋はまるで
血となり永遠に傍にあるという
祈りを刻み付けるための
ささやかな刻印のようだった。
(生まれ変わるのならば⋯⋯
今度こそ、永遠に⋯⋯共にいよう⋯⋯時也)
心の内に生じた言葉は
決意というよりも、ひどく幼い願いに似ていた。
証拠も保証もない──
ただの、祈りであり
ただの、願い。
世界の断りに照らせば
何ひとつ約束はされない。
それでも、アリアはそれを否定しなかった。
否定すれば
本当に何も残らないと知っていたからだ。
「それまで⋯⋯さようならだ⋯⋯」
囁きは、ほとんど声にならなかった。
息とともに空気へと溶け
誰の耳にも届かぬまま、薄闇に消えていく。
アリアは、もう一度彼の頬に指を伸ばした。
冷たい皮膚の上を、指先が躊躇うように滑る。
かつては、彼女のその仕草に合わせて
時也は微笑みで応えてくれた。
言葉を持たぬアリアの代わりに、目元を緩め
掌で頬を包み返し、名を呼び
愛の一言を添えてくれた。
今は、何も返ってこない。
頬の下の筋肉も、瞼も、唇も、微塵も動かない。
もう二度と、彼が笑うことも
手を差し伸べることもないのだと
世界の方が先に、残酷な確信をもって告げる。
アリアは静かに立ち上がった。
布団から離れた瞬間
背中にまとわりついていた温度の幻が
すっと剥がれ落ちていく。
細い腕を差し入れ、彼の身体を抱き上げる。
信じられないほど軽い──と、一瞬だけ思う。
かつて幾度となく
自分を難なく抱きとめてくれた腕の主が
今は羽根のように華奢な重さに変わっている。
骨と皮ばかりになった体重が
削り取られた年月の証として腕に沈む。
アリアは何も言わず
その重さをそのまま受け止め
静かに寝室を後にした。
屋敷の庭へ出ると
空は依然として灰色に沈んでいた。
風に揺れることもなく
桜の枝はじっと空を仰いでいる。
花の季節はとうに過ぎているはずなのに
幹に残る傷や節のひとつひとつが
あの日の花嵐をまだ覚えているように見えた。
二人が出会った桜の木──
その根元に、アリアは膝をついた。
地面に指先を押し当てる。
土は冷たく、湿っていた。
指で掻き分ければ
すぐに爪の間を黒い土が汚していく。
ただその両手だけで、穴を掘り始めた。
繰り返し土を掬い上げるたび
指先の皮膚が薄く裂け
小さな傷口から滲んだ血が土と混ざり合う。
それでも彼女は止まらなかった。
深さも形も
墓として理にかなっているかどうかさえ
もう考えてはいない。
ただ、彼を桜の根のそばに眠らせたい
その一点だけが、アリアを動かしていた。
やがて、時也の身体をそっと横たえる。
土の匂いと、かすかに残る人の匂いが
一瞬だけ混ざり合う。
アリアは自らの手首をもう一度噛み切った。
開いた傷口から流れ出る不死の血が
桜の根元へと滴り落ちる。
赤い雫が土に吸い込まれ
その下に眠る男の亡骸へと
細い祈りの糸のように浸み込んでいった。
不死鳥の血は、本来ならば永遠を強いる呪いだ。
だがこの時、アリアの祈りはただひとつ──
せめてこの桜が
彼の眠りを見守るために永く在り続けるように
──それだけだった。
土を戻し、両手で静かに均していく。
盛り上がった土の上
小さな塚がひとつ、桜の根元に生まれた。
風も鳥も、この儀式を見届ける者はいない。
それでも、アリアにとっては充分だった。
それは、彼の魂が
どこかで安らぎを得ることを願う、ただの祈り。
ただの、ささやかな墓標。
「永遠に⋯⋯お前だけを、愛している⋯⋯」
アリアは立ち上がり、桜の幹に両腕を回した。
粗い樹皮の感触が、頬と掌に触れる。
まるで
その木そのものが時也であるかのように
彼女は幹を抱き締める。
冷たい幹は、抱き寄せても抱き返してはこない。
それでも、アリアは腕を解かなかった。
灰色の空の下、不死の魔女は
ただひとつの桜を抱きしめたまま──
もう二度と戻らぬ男の名を
心で静かに呼び続けていた。
❀2026.01.03──追加、描き直し




