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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
彷徨う紅

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第91話 仕組まれた絶望

夜風が、静まり返った庭を撫でていた。


満開の桜の枝がわずかに揺れ

その度、花弁が薄い紙片のように宙を漂い

静かに地へと落ちていく。


アリアは

その風の流れに身を溶かすように立ち

頭上の月を仰いでいた。


肌を掠める夜気に、冷たさはほとんど感じない。


それは不死の血が

この身を巡っているせいなのか──


それとも

内側から凍りついている心のせいなのか。


桜の幹に細い背を預け、そっと瞼を閉じる。


だが闇はすぐに

先程の光景を鮮やかに浮かび上がらせるだけ。


双子を連れ去られ

冷えきった布団の前で崩れ落ちる──

時也の背中。


肩を震わせ、咽び泣く気配。


心を殺せ、と命じ

自らを動かぬよう縛りつけた。


それでも、その涙の気配を瞼の裏に思い出す度

胸の奥で何かが、ぎしりと軋む。


しかし、胸を締めつけるのは

その光景の痛みだけではない。


どこか、拭いがたい違和があった。


双子との別れに

打ちひしがれているはずの時也の姿。


その中に、別種の苦悶が混じっている──

アリアは、その正体を知っていた。


布団の前で崩れ落ちた彼の身体。

抱え込んだ胸元から漏れた、小さな吐息。


あれは、ただの嗚咽ではないのだろう。


違和は、日常からも感じ取っていた。


胸を抑え込むような

塞がれた肺から絞り出される苦しげな息遣い──


その一瞬を、アリアの目は見逃さなかった。


時也は何かを隠している。

もはやそれは疑いではなく、殆ど確信だった。


普段通りを装い

いつもの穏やかな笑みを浮かべてはいる。


しかし、その額には薄い汗が滲む。

食卓に並ぶ料理にも、箸はほとんど伸びない。


あの人懐こい笑みの下で、頬はわずかに痩け

肩も、以前より細く見える。


廊下の影、部屋の隅──

ふとした瞬間に、胸を押さえ、息を殺す姿を

アリアは何度か目にしていた。


(⋯⋯彼奴(あいつ)は──病に侵されている)


そう認めながらも

その事を口に乗せることができない。


時也はいつも通りの笑顔で

どれほど追い詰められても穏やかに振る舞う。


その背中に貼りついて離れない

〝責任〟という名の重さが

彼自身を締め上げていることを

アリアは知っていた。


だからこそ、心の声すら迂闊には向けられない。

時也の読心術は──時として枷にもなる。


今この瞬間

自分の不安を心の底から響かせれば

それはそのまま彼の胸を刺す。


心配すればするほど

その想いが、彼をさらに追い詰めてしまう。


(⋯⋯彼奴は──

不死に成る事を、許してくれるだろうか)


沈めていた問いが

底の方から静かに浮上してくる。


不死の血を与えれば

時也もまた、この呪いに縛られる。


生と死の境界を失い

終わりなき時間を生きることになる。


そこにあるのは

救いではなく、耐え難い孤独と

終わらない責務だ──


それを誰よりもよく知っているのは

他ならぬアリア自身であった。


それでも⋯⋯


病に蝕まれ、いつか彼の命が尽きる日を

思い描こうとするだけで──

心の内側が冷たく凍りつく。


不死鳥の呪いを

宿主である自身だけでは飽き足らず

愛する者にまで触手を伸ばそうとしている。


その思考に、心のどこかで深い嫌悪が渦巻く。


だが、それと同じ場所で──

時也を失う未来を

一度として受け容れられない自分が

確かに息をしている。


(私は⋯⋯なんと、身勝手か)


唇の端に、嘲りにも似た微かな笑みが浮かぶ。

白い横顔を、月の光が淡く縁取った。


彼の〝人〟としての命を奪わぬためには

何ひとつせず──

ただその終わりを見送るしかない。


それが人の理であり〝正しさ〟なのだろう。


だが──

その選択をどうしても呑み込めない自分がいる。


永遠の命を与えれば

彼の苦しみもまた、永遠となる。


傷も責任も、終わりなく続いてしまう。


それでもなお、時也という存在が

この世界から消えるという未来だけは

受け入れ難い。


胸の奥に押し込めていた感情が

じわじわと形を変え、縁を滲ませはじめる。


時也が生きている──

それだけで、本来は救われるはずだった。


けれど今の彼は、あまりにも脆く見える。


痩せ衰え、胸の痛みに顔を歪める姿ばかりが

幾度も脳裏に焼き付いて離れない。


冷たい風が頬を掠める。

それでも、瞳からは一滴の涙も零れなかった。


心を殺さなければならない──

そうすれば、時也のためになる。


そう信じて、感情に蓋をし続ける。


それなのに、月の下に立ち尽くし

ただ祈ることしかできない自分の姿が

ひどく惨めに思えた。


桜の花がひとひら、ふわりと舞い降りて

アリアの肩に、静かに触れた。


薄い花弁が肌を伝うその感触は

凍える程の孤独をそのまま形にしたようだった。


庭に立ち尽くし、夜風に身を晒しながら

アリアは、なおも自らの心を締め上げ続ける。


双子を失い──

そして今、時也までもが

見えぬ病に蝕まれようとしている。


その現実をまっすぐ見据えながらも

感情を押し殺し

ただ耐えることだけを自らに許していた。


しかし、その胸のいちばん底では

言葉にもならぬ絶望が

ゆっくりと膨れあがっていく。


幾許(いくばく)の猶予もなく

時也を喪うかもしれないという恐怖。


それだけではない。


また、あの孤独が訪れるかもしれない──

という予感。


かつて味わったどの痛みよりも深く、冷たく

血の通った心臓そのものを

氷の手で掴み潰すような影が

じわじわと胸中を浸していく。


(⋯⋯私は──また

独りに、なってしまうのか⋯⋯)


微かに震えた指先を自らの手で強く握りしめる。


額を桜の幹に押し付けると

冷えた木肌のざらつきだけが

かろうじて自分を現世へと繋ぎ止めていた。


それでもなお、心はゆっくりと

底の見えない暗闇へと沈み込んでいく。


〝絶望〟

〝呪い〟──


その文字が脳裏に鮮やかに浮かび上がった瞬間

アリアはハッと息を呑んだ。


不死鳥が最も好むものは──宿主の絶望。


深紅の瞳が驚愕に見開かれ

胸の奥で冷たいものが音を立てて固まっていく。


(時也を蝕んでいるのは⋯⋯

病などではなく──不死鳥ならば⋯⋯?)


その考えが過ぎった刹那

全身の血が逆流するような戦慄が駆け抜けた。


もし、時也の胸を締め付けている痛みが

ただの持病ではなく──


自分の内に棲まう不死鳥の呪いに

〝魅入られた〟結果なのだとしたら。


彼の上に降りかかっている見えぬ災厄が

アリア自身を媒介として

静かに牙を剥いているのだとしたら。


「⋯⋯そんな⋯⋯」


乾いた声が

ほとんど音にもならぬまま唇から零れ落ちた。


信じたくない現実を

どうにか否定しようとするかのような

儚い呟きだった。


しかし、頭の内側で組み上がっていく仮説は

残酷なほど整合してしまう。


不死鳥は、絶望を糧として力を増す──


もし、時也の胸を蝕む痛みが

自分の心に降り積もった絶望に

反応したものだとしたなら。


愛する夫の絶望を育てているのは

〝自分自身の存在そのもの〟──


(⋯⋯私が⋯⋯彼奴を殺しているのか?)


胸の内で、恐怖と罪悪感が渦を巻き

荒れ狂う暴風となって吹き荒れる。


視界の端で桜が大きく揺れ

花びらが雪崩のように降り注いだ。


アリアは、もはや立っていることができず

その場に崩れ落ちる。


膝から力が抜け、地面に手をついたまま

肩だけが細かく震えていた。


絶望──


それを時也に与えているのが

不死鳥を宿す自分であるのだとしたら。


時也の命を、じわじわと削っているのが

この身に巣食う呪いと

自分自身の存在なのだとしたら。


愛すれば愛するほど、その愛が毒となって

彼を破滅へと追い込んでいるのだとしたら──


「⋯⋯私は⋯⋯」


震える唇から、掠れた声がかろうじて漏れる。

喉の奥には嗚咽がつかえたまま、音にならない。


自分が、時也を愛せば愛するほど

その想いが刃へと変わり

彼の心と命を削ってゆく。


その事実が、アリアの心を内側から抉り続けた。


(⋯⋯私が⋯⋯離れれば──

時也は⋯⋯救われるのだろうか⋯⋯?)


だが、その問いにすら

すぐさま否定の声が重なる。


今さら距離を取ったところで

不死鳥は時也を手放さないだろう。


彼女が傍を離れれば、それはそれでまた

別の形で彼の絶望を煽り立てるに違いない。


愛している。

彼と共に、生きていたい。


その願いを叶えた瞬間に

彼の命を奪ってしまうかもしれない──


途切れることのないその矛盾が

アリアの心を容赦なく裂き続ける。


夜風が冷たく吹き抜け

金色の髪を無情に揺らした。


桜の枝が軋む音が、耳に届くたび

それはまるで聞こえぬ誰かの悲鳴のようだった。


アリアは震える手で胸元を押さえ

どうすれば良いのか分からぬまま──

ただ地に座り込む。


(どうすれば⋯⋯私は⋯⋯時也を⋯⋯)


問いは形を取らないまま

胸の内で何度も反芻される。


涙は出ない。


感情を殺し続けてきた代償として

悲しみすらも、その形を失ってしまっている。


泣くことすらできない自分が

さらに自分自身を追い詰めていく。


アリアの絶望は

不死鳥の力をさらに深く濃く育てていく──


そのことを理解しながらも

止める術を持たないがゆえに

その無限の連鎖が

彼女という人格そのものを静かに蝕んでいた。


月が──

あまりにも冷ややかに天頂に浮かんでいる。


白い光の下で、アリアはただ

壊れかけた人形のように震えていた。


絶望と愛が、溶け合いながら濁流となって渦巻き

出口のない闇が

心の表面を覆い尽くしていく──⋯

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