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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
彷徨う紅

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第90話 咽び泣く声

部屋の中は

夜の静寂にすっかり呑み込まれていた。


わずかに開いたカーテンの隙間から

月の光が細く差し込む。


その一条の白さが

ベッドの上に寄り添う二人の輪郭を淡くなぞり

床には重なり合った影だけを

静かに落としている。


ソーレンは横向きになり

その胸元へレイチェルを抱き寄せていた。


彼女は、まるで

そこだけが世界の中心であるかのように

顔を深く埋めている。


耳元でかすかに震える吐息と

胸板に当たる細い指先の震えが

まだ消え切らぬ恐怖の残響を物語っていた。


ソーレンは

片腕で彼女の肩を包み込むように抱き

もう片方の手で柔らかな髪をゆっくりと梳いた。


月明かりが黒髪とエメラルドを淡く照らし

その度に、腕の中の温もりが

たしかな重みを持って伝わってくる。


「予定より──遅くなっちまって、悪かったな」


低く押し殺した声が、闇に滲む。


それは謝罪というより

自身の胸ぐらを掴んで引き寄せるような

ぎりぎりの悔いの滲む音だった。


腕の中の震えは、先程より幾分やわらいでいる。


それでもなお残る微かな痙攣を逃さぬよう

ソーレンは指先に力を込める。


指が髪を撫でるたび、掌に伝わる体温が

少しずつ、現実へと戻ってくる。


やがて、胸に押し付けられていた彼女の唇が

躊躇いがちに開いた。


「⋯⋯大丈夫。

私、アリアさんの千年分──

受け止めきってみせる覚悟、してるし」


月光に照らされた横顔がわずかに上がり

瞼の陰から覗いた瞳が

かすかに揺れながらも真っ直ぐだった。


そのひと言に宿る熱量に

ソーレンはほんの一瞬、息を忘れる。


「強いな、お前⋯⋯」


ぽつりと零れた声には、揶揄いも毒もない。


自分より小さな身体が

千年という途方もない時の重さを

呑み込もうとしている事実が、誇らしくて──

そして少し怖かった。


レイチェルは胸の前でそっと指を握り締め

息を整えながら続ける。


「ソーレンが、傍に居てくれるって思うからこそ

⋯⋯できた覚悟よ」


その言葉が

素肌よりも深い場所に触れた気がした。


ソーレンは、抱き締めていた腕に

わずかに力を込める。


胸元に押し付けられた頬の感触が

ひどく愛おしくて、落ち着かない。


「⋯⋯そうかよ」


視線を逸らしながら吐き出した短い返事は

照れ隠しの荒さを纏いながらも

どこか熱を帯びていた。


レイチェルはその声を聞くと、小さく笑って

さらに深く彼の胸へと身を寄せる。


瞼の裏では、なおもアリアの記憶が燻っている。


炎と血と祈り──

押し寄せる千年の光景が

時折、喉の奥を軋ませた。


それでも、耳元で規則正しく刻まれる鼓動と

包み込む腕の重さが

今ここにある〝現在〟を

確かな輪郭で縁取ってくれる。


少しの沈黙が落ちたのち

レイチェルがふと、囁くように声を漏らした。


「時也さんを離してくれて、ありがとうね⋯⋯」


闇の中で、ソーレンの眉がわずかに寄る。


すぐに先程の光景を思い出し

鼻で笑うように息を吐いた。


「あ?⋯⋯あぁ。

アイツ、一瞬──ひでぇ顔したからな。

直ぐに解ったよ」


ほんの一瞬、あの温厚な店長の顔から

血の気が引いた瞬間を思い出す。


あれを見てなお、レイチェルから離さずにいる程

自分は馬鹿じゃない──

そう言いたげな声音だった。


レイチェルは、くすりと喉の奥で笑う。


笑いながらも、その指先は

ソーレンのシャツの布をしっかり掴んだままだ。


その小さな仕草が、ようやく訪れた

安堵の脆さを、逆に雄弁に物語っている。


ソーレンはその感触を確かめるように

再び彼女の髪を撫でた。


指の間を滑る一房一房が

今度はしっかりとした重さを持っている。


先程まで部屋を満たしていた重苦しい空気は

もう無い。


代わりに、窓の外から忍び込む夜風と

カーテンが擦れる小さな音と

二人分の呼吸だけが、静かに重なり合っていた。


ソーレンの胸の中で

レイチェルはそっと瞳を閉じる。


長く細い吐息が

ようやく解かれた緊張を縫うように

彼の肌をかすめていく。


月明かりは、その寄り添う影の輪郭を

ひどく優しく照らし出していた──



レイチェルが見たアリアの記憶は

双子と引き離された直後の記憶だった⋯⋯



月明かりが、静まり返った庭一面に

冷たい薄布のように降り注いでいた。


風がひとすじ、夜気を攫い

満開の桜の枝をそっと揺らす。


皓々(こうこう)とした月が高みに懸かり

その澄んだ光が地面に淡く枝の影を刻んでいる。


アリアは、庭の片隅でひとり立ち尽くしていた。


白い着物の裾が風に揺れ

腰までの金の髪がふわりと浮かんでは

また静かに落ちる。


視線は夜空の月を捉えているようでいて

その深紅の瞳はもっと遠い場所──

届かぬどこかを見つめていた。


屋敷の奥から、微かな嗚咽が聞こえた気がした。


掠れた泣き声は、壁も廊下も庭も越えて

夜風に混じり、アリアの耳朶を震わせる。


誰の声かなど、考えるまでもない。


(⋯⋯時也)


胸の内でその名を呼んだ瞬間

心臓の内側が、指で掴まれたように軋んだ。


双子の寝室には、もはや誰もいない。


さきほど青龍が

エリスとルナリアを連れて行った──


あの小さな手も、温もりも

もうこの家のどこにも存在しない。


残されているのは

冷えた布団と、空になった枕。


それだけの光景が

どれほど時也の心を抉っているか──

アリアには痛いほど分かっていた。


足先が、一歩、前へ出ようとして止まる。


行かなければ──そう思う。


けれど、もし今、彼のもとへ歩み寄れば

〝どうなるか〟もまた、知っていた。


時也は、きっと自分を保とうとする。

自分より先に、アリアを案じる。


どれほど胸が裂かれようと

彼はまず妻を慰めようとし

己の傷を覆い隠してしまうだろう。


その優しさが、彼自身をさらに追い詰めることを

アリアは知っていた。


掛けるべき言葉が、ひとつも見つからない。


どんな慰めも、どんな理屈も

今の彼の前では空しく砕けるだけだと

分かっている。


責を一身に引き受け

己を責め続ける男の前に立って

何を差し出せばいいのか──


答えはどこにもなかった。


アリアは

月を仰いだまま、ゆっくりと瞼を伏せる。


(⋯⋯心を──殺せ)


胸の奥底で、自らに命じる。


感情を、沈めろ⋯⋯

涙も、嗚咽も、罪悪感も

すべて底の底へ沈めて、見えなくしろ。


自分が揺らげば、時也はまた、無理をする。


自分の悲しみを見せれば

彼はそれを背負おうとする。


それがどれほど彼の傷を広げるか

想像するだけで胸が裂けそうだった。


だから──今は近づかない。

ただ、ここから見守るしかない。


夜気に混じって届く嗚咽は

まだ止む気配を見せない。


それでもアリアは

桜の幹に静かに背を預け、微動だにしなかった。


幹の冷たさと、ざらついた感触が

かろうじて彼女をこの世界に繋ぎとめている。


ひとひらの花びらが

風に舞ってアリアの肩へと落ちる。


触れたかと思えば

すぐにまた夜風に攫われていった。


その瞬間、桜の枝の間から一筋の光がこぼれ

金の髪をやわらかく照らし出す。


月光が彼女の輪郭を包み込み

その場だけが──

静かに隔てられた聖域のように見えた。


「⋯⋯どこに居ても、想いは変わらない。

愛している⋯⋯」


唇が、誰に聞かせるでもなく、言葉を紡ぐ。

その声は風に溶け、誰の耳にも届かない。


時也にも、双子たちにも──誰にも。


けれど、そのひと言は紛れもなく真実だった。


心臓の底から滲み出る

アリアそのものの祈りだった。


遠くへと連れて行かれた双子──

エリスとルナリア。


今はどこにいるのかも分からないその娘たちに

せめてひとつだけ想いを投げかけたかった。


届かぬと分かっていても

それでもなお、投げかけずにはいられなかった。


(⋯⋯双子よ。母は此処で、祈っている)


月はさらに冴え渡り、光を強める。

桜の花弁が、銀の雨のように静かに舞い落ちる。


その流れの中で、アリアは一言も発することなく

ただ祈りを捧げ続けた。


時也の嗚咽は、まだ止まない。


その音を背に受けながら

アリアはそっと背を桜から離し

再び夜空を仰ぐ。


心の内側には、どうしようもない孤独が

黒い湖のように広がっていた。


それでも──その孤独を誰にも見せまいと

アリアは決めている。


痛みも、喪失も、愛しさも、果てしない恐怖も。

すべてを深く、深く沈め、静かに蓋をする。


それが時也を守るための

唯一の術だと信じて──⋯

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