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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
一歩の先へ

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第88話 呼ぶ声

リビングに併設されたキッチンには

夜の静寂が薄く張りつめていた。


窓の外から差し込む月明かりが

シンク脇のステンレスを淡く照らし

その光を受けて水面が細かな波紋を揺らす。


時也は流し台の前に立ち

ケーキを食べ終えた皿を

お湯に浸したスポンジで丁寧に撫でていた。


泡立つ洗剤の白が、皿の縁に沿って滑り

指先に伝わる陶器の感触が

ささやかな日常の確かさを教えてくれる。


──その時だった。


(⋯⋯時也⋯⋯)


頭の内側で、小さく

しかしはっきりと、声が響いた。


耳朶を打つというより、胸の奥を掠めるような

ごく馴染み深い響き。


自然に、顔が上がる。


カウンター越しに視線を向ければ

テーブルにはアリアが座っている。


湯気の薄れたコーヒーカップを唇に運び

静かな深紅の瞳に窓辺の月を映して──


その姿は、見慣れた

いつもの夜の一片に過ぎないはずだった。


「はい。なんでしょうか、アリアさん?」


皿をすすぐ手を止め

穏やかな声音で問いかける。


アリアはカップをソーサーに戻し

鳶色の視線を受け止めるように

一度だけ瞬きをした。


それから、ほんの僅かに首を傾げる。


その仕草には、呼びかけた心当たりのない者の

かすかな戸惑いが滲んでいる。


「──え?

今⋯⋯僕を、お呼びになりませんでしたか?」


問いを重ねると

アリアは伏し目になり、静かに首を振った。


その一連の動きには嘘も演技もなく

ただ〝呼んでいない〟という事実だけが

冷ややかに伝わってくる。


(⋯⋯時也⋯⋯)


再び、同じ声──

今度は一層強く、脳裏を擦った。


聞き間違いではない。


紛れもない〝アリアの声色〟であり

彼女の響き。


だが、目の前のアリアには

呼びかけた直後の余韻も

心の揺らぎすら──まるで感じられない。


静かな沈黙だけが、彼女の輪郭を縁取っていた。


「⋯⋯二階、から?」


口の内で零れた呟きと同時に

ぞくり──と、背骨を冷たいものが撫で上げた。


ここに、アリアは〝いる〟


その事実は

視覚も気配も匂いも含めて、疑いようがない。


しかし、呼ぶ声は──

明らかに、二階の方角からも響いていた。


一人のはずの存在が

二つの場所で同時に自分を呼ぶという矛盾。


そこから導かれる答えは、多くない。


「──まさか⋯⋯っ!」


胸の奥で、嫌な仮説が輪郭を得る。


冷や汗が背筋を伝い

藍の着物の布地が、じわりと肌に張り付いた。


アリアが心で呼びかけることなど

日常の一部と言ってよいほど当たり前だ。


だからこそ、いつもと同じように

何の疑念もなく返事をした。


──だが今、その〝当たり前〟が

音もなく崩れ始めている。


時也の瞳が鋭さを帯びる。


すぐ傍に佇む幼子の姿──青龍へと振り返った。


「青龍!貴方は、アリアさんのお傍に!」


「かしこまりました」


幼い肢体でありながら

青龍の声には寸分の揺らぎもない。


その小さな足が床を軽く踏みしめ

アリアの椅子の傍らへと位置を移す。


護りのために

一歩たりともそこから動かぬという意思が

その背筋の伸び方に表れていた。


その様子を目の端で確かめると同時に

時也は階段に向かって駆け出していた。


(もしや──レイチェルさんが、擬態を?)


心臓が、嫌な予感を鼓動として叩きつけてくる。


レイチェルが擬態の異能を持ち

その精度が常軌を逸していることを

時也はよく知っている。


特に──自分の姿へ擬態したあの日。


強制的に見せられた〝自分〟の記憶で

泣き続けたレイチェルの姿が

脳裏によみがえる。


あれほどの正確さが、今度は

〝アリア〟として発現しているとしたら──


「失礼します!」


もはや礼儀を整える余裕すらない。


短く声をかけただけで、ノックもせずに

レイチェルの部屋の扉を勢いよく開け放つ。


扉が壁に当たる鈍い音。


その直後、視界に飛び込んできた光景に

肺から息が抜け落ちることを拒み

喉で乾いた音を鳴らした。


カーテンの隙間から差し込む月光だけが

薄暗い室内を淡く照らしている。


その青白い光を受けて、ベッドの上に座る

一人の女の輪郭が浮かび上がった。


腰まで流れる黄金の髪が

月の光を集めるように淡く輝き

紅玉にも似た深紅の瞳が

冷たく、美しく、静かに伏せられている。


アリア──そうとしか呼べない姿。


だが、その足元にはもう一つの影があった。


床に跪き、彼女の足の甲へ唇を押し当てたまま

石像のように動かない男。


ソーレンだった。


額を床に近づけるように深く頭を垂れ

ただその足へと口づけを捧げている姿は

絶対者に忠誠を誓う騎士の礼にも似て

あまりに異様で──

あまりに禍々しい敬虔(けいけん)さを帯びていた。


喉がひどく乾き、言葉がうまく形を成さない。


「⋯⋯こ、れは⋯⋯っ」


理解しているはずだった。


目の前にいる〝彼女〟はアリアではなく

レイチェルの擬態に過ぎない、と。


頭では、そう分かっている。


それでも──ソーレンが、その足に

躊躇いなく口づけているという事実が

理性とは別の場所にある醜い嫉妬の棘となって

容赦なく胸を内側から刺し貫いてくる。


(⋯⋯違います。

今は、そのような感情を

抱いている場合ではない──!)


首を小さく振り、呼吸を整える。


心のざわめきを押し殺し

目の前の異常を、陰陽師としての目で見直す。


(擬態の発現から

どれほど時間が経過しているのか──

意識が戻らなくなる前に

早く引き戻さなければ⋯⋯!)


ソーレンは完全に魂を預けてしまったかのように

跪いた姿勢のまま微動だにしない。


アリアの姿をしたレイチェルもまた

凍りついたような表情で

ただソーレンを見下ろしていた。


「ソーレンさんっ!

聞こえていらっしゃいますか!?

ソーレンさん!!」


時也の声が、静まり返った部屋に鋭く響く。


だが、呼びかけにも、肩を揺する動作にも

ソーレンは反応を示さない。


ただひたすらに足元にひれ伏したまま

祈るように沈黙している。


焦燥が胸の内側で膨張し、喉元まで迫る。


その極限の静寂の中で──

かすかな囁きが、床に落ちる水滴のように

耳に届いた。


「貴女様に、非は無いと⋯⋯

私は⋯⋯存じ上げております。

この命⋯⋯貴女様の⋯⋯為に⋯⋯」


掠れた低音には、深い憧憬と

押し殺した慟哭が混じり合っている。


だが、その響きは

今ここにいるソーレンのものではなく

遥か昔に終わった誰かの祈りの残響──


(──駄目ですね⋯⋯!

意識が、完全に

前世の記憶へ引き込まれている⋯⋯)


時也は小さく息を吸い込み、姿勢を正す。


(このままでは

二人とも戻れなくなってしまいます⋯⋯!

先ずは、ソーレンさんを引き戻さなければ)


時也は右手に意識を集中させると

掌の中に小さな若芽が芽吹いた。


それは呼吸の間もなく伸び広がり

たちまちしなやかな蔓へと姿を変える。


床を撫でるように弧を描きながら

やがて一本の鞭のごとく

細く長い線となって手の中に収まった。


「失礼しますよ、ソーレンさん──!

かなり、痛みますからね⋯⋯っ」


短い警告だけを与え

躊躇いをすべて振り切るように

蔓を振り下ろす。


鋭い風切り音が空気を裂き、次いで

布越しに肉を打つ重い音が部屋中に響き渡った。


「──ぐぁ⋯⋯っ!!」


鈍く、肺を抉るような痛みが

背中を走り抜けたのだろう。


ソーレンは短く呻き声を上げ

その場に崩れ落ちるように

床へと身を投げ出した。


衝撃に揺さぶられた意識が

深い水底から急速に浮上してくる。


ぼやけていた瞳が

瞬きを重ねるごとに焦点を取り戻し──

荒い呼吸の中で

ようやく目の前の現実を捉え始めた。


「──ソーレンさんっ!!」


鋭い呼び声が

その意識を現世へと引き戻す(いかり)となる。


「──クソっ!」


痛みに顔を歪めながらも

ソーレンは勢いよく上体を起こした。


背中を焼くような痛みを無視して

ベッドの上──アリアの姿をしたレイチェルへと

目を向ける。


震える両手で、その肩を掴む。


掌の中で

細い肩が小刻みに震えているのが伝わる。


「レイチェル──おい!レイチェル!!

戻って来いって!!」


叫ぶようなその声に

アリアの姿がびくりと震えた。


次の瞬間、月光を湛えていた金の髪が

じわりと色を変え始める。


長く流れていた髪は短く縮み

深紅の瞳は縁の方から色を失って──

少しずつエメラルドグリーンへと戻っていく。


擬態の剥がれていく過程を

目の当たりにしながら

ソーレンはなおも肩を離さない。


爪が食い込むほどの力で掴み続け

もう一度、今度は名を確かめるように叫んだ。


「レイチェル──俺だ!分かるかっ!?」


完全に姿が元の少女へと戻った瞬間

レイチェルの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。


堰を切ったように、次から次へと涙が頬を伝い

顎の先から滴となって落ちていく。


「──っ、ソーレン⋯⋯っ!」


搾り出すような声が空気を震わせた瞬間

ソーレンの胸は強く締め付けられた。


言葉にできない何かが胸の内側で溢れ

考えるより先に、腕が動く。


レイチェルの細い身体を

衝動のままに強く抱きしめる。


レイチェルは、縋るようにその胸に顔を埋め

堪えきれない嗚咽を漏らした。


肩が震え

指先がソーレンのシャツを必死に掴む。


「⋯⋯悪ぃ⋯⋯遅くなっちまった!

レイチェル⋯⋯ごめん、ごめんな⋯⋯っ」


背中を撫でる手は、優しさと同じくらい

後悔と恐怖に震えている。


そのシャツの背には

先程の蔓が刻んだ一条の痕が紅く滲み

布地をじわじわと濡らしていた。


しかし、ソーレン自身は

その痛みをまるで意に介さない。


ただ、腕の中の少女の

泣き声だけを受け止め続けている。


時也は、手に握っていた蔓をそっと解き

植物を霧のように消し去った。


わずかに距離を取り、二人の背中を見守る。


(⋯⋯前世からの〝未練〟が──解消された?)


もう、先程までのような

前世の影はソーレンの中に見えない。


そこにいるのは、ただ

レイチェルを抱きしめる男の姿だった。


レイチェルは嗚咽の合間に

何度もソーレンの名を呼び──


ソーレンもまた「大丈夫だ」と

同じ言葉を何度も繰り返し囁く。


そのささやきが、泣き声と共に

少しずつ静けさへと溶けていくにつれ

張り詰めていた空気はゆるやかに緩み

部屋にはようやく、安堵の気配が満ち始めた。


二人の心が、再び同じ場所へと

結び直されたのを確かめるように──

時也は静かに、深く息を吐き出す。


(──ひとまずは、何よりです⋯⋯)


そう心の内で呟きながら

ただ黙って、その背中たちを見つめ続けた。


涙と血が混じり合いながらも

確かな温もりだけが

二人を包み込んでいるのが分かった。



先程まで胸を締めつけていた緊張が

ようやく解けていく──


早鐘を打っていた鼓動は次第にその速さを緩め

乱れていた呼吸も、静かに整い始めていた。


ベッドの縁に寄り添う二人の背を見つめながら

時也はそっと口を開く。


「どうしてまた──こんな事になったのです?」


できる限り声を和らげ

叱責の色を含ませぬよう、柔らかな調子で問う。


ソーレンが、腕の中のレイチェルの背を

ゆっくりと撫でている。


涙の跡がまだ頬に残る彼女は

震える指先で目元を拭いながら

か細い声を搾り出した。


「⋯⋯わ、私⋯⋯が、擬態の⋯⋯

ぅく⋯⋯練習に⋯⋯っ」


声が喉の奥で詰まり、言葉は途切れがちになる。


息を吸うたび

胸の内側の痛みが、また新しく裂けるのだろう。


レイチェルが言葉を継ごうとして

口篭るのを見かねて

ソーレンが短く息を吐き、代わりに続けた。


「レイチェルは、お前らの為にも

擬態に慣れようとしたんだ。

俺らん中で一番強いのは、アリアだ──

だが⋯⋯千年の記憶には、耐えらんねぇ」


苦々しい表情で、歯を噛みしめる。


顎に入った力が

そのまま自責の色となって滲み出ていた。


「三分で呼び戻してくれって頼まれたのに──

情けねぇ⋯⋯っ」


吐き捨てるような声に

レイチェルの肩がぴくりと震える。


堪えようと必死に押し殺していた涙が

また今にも零れそうに揺れた。


ソーレンの心の底には

彼女を守り切れなかった己への苛立ちと

自分を責める声が渦巻いている。


そのざらついた後悔も

胸の内で暴れるレイチェルの悲痛も──

読心術を通じて、時也にはよく見えていた。


レイチェルの中では、擬態によって流れ込んだ

アリアの記憶と悲しみが

暴風雨のように荒れ狂っている。


千年分の絶望と痛みが

繊細な心を裂き、引きちぎろうとしていた。


その暴風に飲まれまいと

必死に腕を広げて受け止めようとする

ソーレンの焦燥。


二人の心が絡まり合い

同じ嵐の中で藻掻いているその気配が

鋭く響いてくる。


「⋯⋯まったく、無茶をなさる⋯⋯」


時也は、小さく零すように呟いた。


困ったように口元を緩めるが

その微笑みには咎めよりも

切なさと共に滲む優しさが宿っている。


「ですが⋯⋯お心遣いに、感謝いたします。

アリアさんを救う為にご尽力いただきまして⋯⋯

ありがとうございます、レイチェルさん」


静かに告げられたその言葉が

柔らかな水音のように

レイチェルの胸に落ちた瞬間──

彼女は堪えきれず、わっと泣き出してしまった。


嗚咽に肩を上下させる彼女を

ソーレンは「おいおい」と苦く呟きながらも

乱暴にならぬよう気をつけて頭を撫で続ける。


ぎこちない手つきではあるが

その腕には決して離すまいとする

強い意志がこもっていた。


震える身体を、しっかりと抱き寄せる。


レイチェルの頭を胸元に支えたまま

ソーレンはちらりと視線だけを上げ

時也の表情を盗み見る。


先程まで平静を保っていたその顔が

どこか──苦しげに陰っていた。


触れたくない記憶の影が揺れたのを

感じたのだろう。


その変化を見逃さず、ソーレンが低く

珍しく気遣う色を滲ませて呟いた。


「⋯⋯お前、読心術で、しんどいだろ?

後は⋯⋯俺がやる。

すまなかったな、時也──助かった」


思わぬ言葉に、時也はわずかに目を見開く。

すぐに、その驚きを柔らかな笑みに溶かした。


「⋯⋯お気遣い、ありがとうございます。

ですが、ソーレンさん⋯⋯」


レイチェルが擬態によって覗き込んだのは

時也にとっても、決して癒えぬ傷──

トラウマとも言うべき記憶だった。


その記憶をなぞられることが

どれほどの痛みを伴うか

ソーレンにも解っているのだろう。


ソーレンが他人の心の傷に触れ

それを慮るような言葉を口にするのは

決して多くない。


だからこそ、その一言が、かえって重く響いた。


「いえ⋯⋯わかりました。

では、せめて救急箱をお持ちしますね」


背中に走る鞭痕から

じわりと血が滲み始めているのが見えていた。


その痛みを少しでも和らげようと

時也は静かに立ち上がろうとする。


だが、その動きを

ソーレンは片手を上げて制した。


苦笑に似た

どこか自嘲めいた表情を浮かべながら首を振る。


「こんくらい平気だって。

簡単に前世に呑まれちまった俺には──

ちょうど良い薬だよ」


軽口めいた言い方とは裏腹に

その声には濃い自責が張り付いている。


自らの弱さを

罰として受け入れようとするような、その響き。


時也は、しばらくその横顔を見つめていた。

やがて、少しだけ目を細めて、穏やかに微笑む。


「これは憶測ですが⋯⋯

〝愛〟を知った貴方に

前世の記憶が共鳴したのかもしれませんね。

他の転生者の方々と同じように

貴方の前世の未練も

ようやく解放されたのでしょう。

もう、惑わされることも──無くなるはずです」


その言葉に

ソーレンは驚いたように眉を上げた。


そして、すぐに視線を落とし

何かを噛みしめるように短く息を吐く。


「──そうか」


たった、それだけの返事。


だが、その一言には──

長い時間を経て

ようやく辿り着いた答えを受け入れる

静かな諦観の色が滲んでいた。


腕の中のレイチェルを抱きしめ直しながら

ソーレンはゆっくりと息を吐く。


その吐息は、先程までの荒い呼吸ではなく

少しだけ肩の力を抜いた

現世へと戻ってきた者の呼吸だった。


時也は、二人の姿をもう一度だけ見つめ

微笑みを残す。


「では、お言葉に甘えて──失礼しますね」


静かにそう告げて、扉へ向かう。


言葉は夜気に溶け、部屋には再び

三人分の呼吸だけが残された。


ソーレンは軽く頷き

腕の中のレイチェルの頭を

変わらぬリズムで撫で続ける。


指先は、不器用なほど丁寧に

震えの残る髪を梳いていた。


彼女の涙が枯れ落ちるその時まで──

決して手を離すつもりはないのだろう。


もう二度と、あの無力感に押し潰されぬように。


過去の亡霊の意思ではなく

己の意思として彼女だけを守ると

胸の奥で静かに誓いながら──


ソーレンはレイチェルの髪に

いつまでも優しく触れ続けていた。

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