第9話 囚われた炎と桜
湯呑の縁に
ゆらりと立ち昇る茶の湯気が、ひとすじ。
静寂の中でそれだけが
命を持つかのように揺れていた。
レイチェルは自分で肩を抱くようにして
ゆっくりと俯いていた。
抱きしめる両の手は、ほんの僅かに震えている。
まるで自分の輪郭を確かめるように。
あるいは、心の内に巣くうものを
どうにか鎮めようとしているかのように。
そんな彼女の様子を見ながら
時也は再び口を開いた。
「……絶望した魂に味をしめた不死鳥は……
アリアさんの絶望をより深めようとしました」
その声は静かで、優しかった。
けれどその静けさは、柔らかさではなく──
鉛のように重い現実を伴ったものだった。
「……不死の身体を相伝させず、まるで──
生殺しにするかのように……っ」
苦々しく吐き出されたその言葉には
怒気が、鋭利な刃のように混じっていた。
時也の表情からは、穏やかさがすっかり消え
鳶色の瞳は、怒りにわずかに揺らぎ
その奥で赤い焔がちらりと瞬いている。
それは、ただの憤りではなかった。
長く、深く、心の奥底に根を下ろしたもの──
不死鳥という〝神〟への、燃え盛る怨嗟。
レイチェルの喉がひゅっと細く鳴る。
この人は──
(……前世で殺された私よりも
不死鳥を──憎んでる……)
胸の奥が
ぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
思い出すのは、アリアを刺した時の光景。
手に伝わる熱。
血のぬるみ。
そして──
自分ではない何者かの、強烈な激情。
レイチェルの前世は
確かにアリアによって焼き尽くされた。
それは紛れもない〝殺された側〟の記憶。
けれど──
目の前の男が抱いている憎悪は
それを遥かに凌駕しているように感じられた。
「……〝僕も〟」
時也の声が、また低く──
どこか遠くから響いてきた。
「僕も、不死鳥に心臓を蝕まれて……
少しずつ、わざと時間を掛けて──
殺されました」
その言葉は、深く、鈍く響いた。
レイチェルの心臓が
痛むように胸の中で跳ねる。
「不死鳥は
アリアさんが僕の死で苦しむのを……
楽しんでいたのでしょう」
その声音に込められたのは
哀しみと、怒りと、そして──悔しさだった。
時也は静かに目を伏せる。
その睫毛の影が長く落ち
頬に哀しみを色濃く添えていた。
「僕の死が
どれほどアリアさんの心を壊したのか──
今では、出逢った頃より……
感情も、言葉も、無くされてしまいました」
ぽつりと落とされた言葉。
その一言に、レイチェルの脳裏には
あの無表情の深紅の瞳が浮かんだ。
何の色も宿さない
どこか壊れたような──凪のような瞳。
(……殺された……?
じゃあ、時也さんも……転生者……?)
思わずそんな考えが浮かぶ。
けれど、次の瞬間──
「……いえ」
時也が微笑んだ。
心を読まれたのだと、すぐに分かった。
だが、驚きはなかった。
むしろ、ようやく少しだけ
慣れてきたと思える自分がいた。
その微笑みは──あまりにも、哀しかった。
そこに滲んだ哀しみの色が、胸に引っかかる。
「心を読む以外にも……
僕は魔女の異能を持っていますが
レイチェルさんのような転生者ではありません」
「……え?」
「アリアさんが──
墓標代わりにと、桜の木の根元に
僕の亡骸を埋葬してくださったのです」
時也の視線が、静かに窓の外へと移る。
その先に見えるのは
月明かりに照らされた庭園の──巨桜。
花弁がゆっくりと風に舞い、静かに落ちていく。
「彼女は、桜が永遠に咲くようにと……
ご自分の血を添えてくださいました」
レイチェルの眉が、わずかに動く。
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「アリアさんの血は、不老不死の力を齎します。
その血と、僕の亡骸を吸った桜は──
霊樹となり……」
時也の瞼が、そっと閉じられる。
「……前の記憶も、姿形もそのままに。
不老不死の身体となって──産まれ直しました」
「……産まれ、直した……?」
「ええ」
少しだけ照れ隠しのような
けれど、どこか苦い笑みが浮かぶ。
「僕は──桜の木に咲いた〝花〟として
再び、目を覚ましたのです」
レイチェルの指先が、思わず湯呑を握り締める。
花として咲いた──
その言葉は、どこか神話のようだった。
それでも、目の前の彼が
あの霊樹の花から、再び〝咲いた〟のだと
否応なく信じざるを得なかった。
「……時也さんも……不老不死……っ」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
ただ、胸の奥から零れ落ちた、心の実感。
(この人もまた──死ぬことができない)
愛する人が絶望に沈まないように。
たったそれだけの願いで
千年という孤独と向き合い
そして──この呪いに、共に囚われている
〝不死の夫婦〟
この話が、現実とは思えなかった。
だが、アリアを刺した自分の手が
それを何より証明していた。
あの深紅の瞳が血に塗れた記憶。
けれど──傷一つないその姿。
──嘘じゃない。
この世界に〝真実〟として存在しているのだ。
信じるしか、もはや、なかった。
次々に開かれていく、信じ難い真実。
それらが脳内で渦を巻き
思考がゆっくりと攪拌されていく。
(……この店の人達は、いったい……)
ふと、脳裏を過ぎったのは
あのぶっきらぼうなウェイターの姿。
窓をふわりと越えて現れ
またふわりと消えた──異常な身のこなし。
(……彼も──転生者、なのかしら?)
自然とそう考えていた自分に
レイチェルは内心で驚いた。
けれど──妙に腑に落ちてしまうのだった。
「時也さん」
恐る恐る口を開けば
時也は湯呑を持ったまま、穏やかに顔を向けた。
「私が〝第一号〟だって……
さっきの彼が言ってましたよね?
あの人も……もしかして、転生者なのですか?」
わずかに時也の表情が陰った。
「……彼の名は、ソーレン。
ソーレン・グラヴィスです」
「ソーレン──さん」
その名を繰り返した瞬間
あの琥珀色の瞳が頭に浮かんだ。
「貴女の言う通り。彼も魔女の転生者ですよ」
やっぱり──と、レイチェルは小さく頷いた。
「彼の能力は、重力操作。
非常に強力な異能です」
「重力……?」
その能力が、先程の
あの宙を歩くような異様な身のこなしを
可能にしているのだとすれば──
全てが合点がいく。
「僕が桜から蘇る前に
青龍がソーレンさんを見つけて育てたのですよ」
「……え?
青龍、くん⋯⋯って、さっきの、あの子が?」
──〝育てた〟?
「ええ」
時也がレイチェルの疑問を読み取ったかのように
優しく笑む。
「彼は子供の姿をしていますが
実際には人間ではありません。
〝式神〟という存在なのです」
「……しき……がみ……?」
また新たな未知の単語が飛び出し
レイチェルの脳内は軽く悲鳴を上げていた。
「……もう、ほんと。
信じ難い話が多すぎて……
まだ理解が追いつきません」
正直な気持ちを吐露するように吐き出すと
ふぅ、と深く息を吐く。
それを見ていた時也は、穏やかに微笑んだ。
「無理もありません。
今は、無理に理解しようとせず……
少しずつで構いませんよ」
その言葉に
レイチェルは目を閉じて深く呼吸する。
──まずは、自分の中から整理しよう。
アリアを傷つけた記憶。
前世の怒りや、怨嗟の叫び。
それらを胸の中に探る。
(……さっきまでのあの抑えきれない殺意は……
もう、湧いてこない)
深紅の瞳を思い出しても
心の中は、不思議なほど静かだった。
「……とりあえず。
私にはもう、アリアさんへの殺意は無いようで。
そこだけは、ホッとしてます」
言うと、時也の口元が柔らかく緩んだ。
「きっと、アリアさんに報復を行った事で……
魂の怨みが、和らいだのでしょうね」
「……そうかも、しれませんね」
胸の奥のどす黒い淀みが、少しだけ晴れていた。
「でも……」
レイチェルの瞳がふと、鋭くなった。
「……ソーレンさんはどうだったんですか?
彼も……
初めはアリアさんを、私と同じように……?」
その問いを終えるか否かのうちに──
「傷付けるより質が悪いですよっ!!」
時也の声が、明らかに一段階高くなった。
レイチェルが驚いて顔を上げたその時──
彼の瞳には、不死鳥への怒りとは違う種類の
苛立ちが滲んでいた。
「……え?」
「彼の前世
アリアさんに〝横恋慕〟してたんですよ!」
「よ……横……恋慕……?」
「しかも……この現代でもっ!!」
拳を握る音が、静かな室内にかすかに響く。
怒りを隠そうとしない声音に
レイチェルは直感的に理解した。
(……相当、神経を逆撫でしてるんだなぁ)
先ほどの二人の、皮肉混じりの応酬を思い出す。
「だから、あんなに?」
「……ええ」
時也は溜め息を吐く。
「おかげで、ソーレンさんとは……
どうしても馬が合いません」
その言葉に滲む、苦々しい嫉妬と
どうしようもない愛の重み。
愛しすぎるというのは
こういうことなのかもしれない。
「……それにしても……」
レイチェルは
湯呑の中の茶葉を見つめながらぽつりと呟いた。
「本当に、このお店は……
不可解なことが多すぎますね?
何だか私の悩みが、小さく思えてきましたよ」
言葉の最後に、少しだけ笑みを滲ませた。
時也は
その笑みに応えるように苦笑気味に微笑む。
だが──その瞳の奥には
ほんの一瞬だけ
拭いきれぬ複雑な影が揺れていた。
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ソーレン・グラヴィス
イメージ画像
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