第87話 夜の部屋は想い交じりて
レイチェルの部屋。
薄暗い照明が
天井の隅に柔らかな輪を描いていた。
淡く甘い香り──
洗いたてのリネンと
彼女が好んで焚くルームフレグランスが
ゆるやかに混じり合い
空気の温度にまで馴染んでいる。
棚にはお気に入りの雑貨が並び
ベッドの上には大小さまざまなぬいぐるみ。
生活の気配と、彼女らしい可愛らしさが
息の合った合奏のように
この小さな空間を満たしていた。
そのベッドの端に──
ソーレンとレイチェルは
肩が触れるか触れないかの距離で
並んで腰掛けている。
ベッドに二人で座ること自体は
初めてではない。
ここで夜更けまで話し込んだことも
何度もあった。
けれど今夜は──そのどれとも違っていた。
部屋に足を踏み入れた瞬間から
喉の奥がからからに乾き
心臓が、一拍ごとに輪郭を濃くして
胸の内側から何度も殴り叩くように暴れている。
(落ち着け、俺──落ち着けっての……っ)
心の中で幾度となく繰り返しても
身体は、言うことを聞く気など
さらさら無いらしい。
恋人になったばかりのレイチェルが
すぐ隣に座っている。
それだけのことが、今のソーレンには
場違いなほど重大な出来事に思えてならない。
肩の奥に力が入り、指先は不自然なほど強張る。
視線を逸らしても
隣から伝わる彼女の体温と、かすかな吐息の音が
否応なく意識に触れてくる。
静寂に包まれた小さな部屋で
その息遣いだけが、やけに艶やかに響いた。
ソーレンは、乾いた唇を噛みしめる。
(……クソがっ!
別に、女と初めてってわけでもねぇのに
……なんでだよ。なんで、こんな──っ)
経験がないわけじゃない。
けれど、こんな風に頭の中まで真っ白に
焼き切られたような感覚は──
生まれて初めてだった。
思考はぐるぐると渦を巻き
考えれば考えるほど
焦りばかりが膨らんでいく。
(普通に考えりゃ、誘われてる、よな?
……いや、待て、相手はレイチェルだ。
深い意味なんか、一切無ぇ可能性だって──)
視線だけで自分を持て余し
ソーレンの肩が無意識に小さく竦んだ。
ベッドに並んで座ってから
まだ数分も経っていないはずだ。
それなのに、時間だけが妙にねっとりと伸び
一秒ごとに意識を試されているような気がする。
隣のレイチェルの膝が
ほんの少し、自分の足に触れただけで──
肌の触れた一点から
全身の血が沸騰するような錯覚さえ走った。
「……あのね、ソーレン?」
柔らかな声が、夜の静けさにひそやかに落ちる。
それだけで、背中に細かな汗が滲んだ。
焦るな、落ち着け、深呼吸──!!
頭ではそう命じながらも
喉の渇きはひどくなる一方だった。
「な……なんだよ?」
口を開いた途端、思っていたより掠れた声が出て
ソーレンは、自分自身の動揺を思い知らされる。
恋人の部屋で、夜に、二人きり──
積み上がっていく条件の一つひとつが
甘い期待に火を点けていく。
(男なら
誘われたならリードすべきだろうが……!
なんでこう、肝が据わんねぇんだ、俺は……っ)
内心で自分を罵り、拳を握り込もうとした
その時だった。
「今夜はね──
〝擬態〟の練習に付き合って欲しいの!」
レイチェルの唇から零れた言葉は
ソーレンの予想を
呆気ないほど易々と飛び越えていった。
「…………は?
……練習?……擬態……?」
期待へと膨れ上がった胸の内は見事に粉砕し
思考が一瞬で白く塗り潰される。
そう、言葉の意味こそ理解できるのに
脳が現実として受け止めることを
拒否しているかのようだった。
困惑に眉根を寄せて視線を向ければ──
レイチェルは、きらきらとした瞳で
真っ直ぐこちらを見つめていた。
「そう!
いつ、ハンターが来るか分からないし──
不死鳥との闘いになった時にだって
ちゃんと役に立ちたいの。
だからね、今のうちに
慣れておかなきゃって思って!」
言いながら
膝の上で細い指をきゅっと絡ませる。
恥じらいと覚悟が入り混じったその仕草は
別の意味で心臓に悪く
ソーレンは余計に視線のやり場を失った。
「誰かに擬態した後って
その人の記憶に引きずられて……
どうしても泣いちゃうでしょ?
だから、傍に……居て欲しいの」
その〝いて欲しい〟の一言が
甘い誘いにも聞こえるから、始末が悪い。
ソーレンはしばらく黙り込み
ゆっくりと息を吸い込んでから
盛大に吐き出す。
「────っ、はぁ〜〜〜〜〜……っ」
床の隅に視線を落としながら
大きく、長く、情けないほど深い溜息を零した。
その音に、レイチェルがびくりと肩を揺らす。
「え?な、なにその……バカでかい溜息?」
責めるというより、純粋に驚いた声だった。
ソーレンは片手で顔を覆い
指の隙間から天井を仰ぎ見て、ようやく呟く。
「……お前なぁ⋯⋯
もう少し──〝男心〟ってもんを学べよ。
普通に〝夜〟の誘いだと思っただろうが⋯⋯」
ぽかんと口を開けたレイチェルの目が
数拍遅れて〝意味〟に追いつき──
瞬く間に
熟れた果実みたいな赤に染まっていく。
「よ、る……え?あ──っ!
ご、ごめんね……!?
その、そういうつもりじゃなくって……
あ、ちが、嫌とかって意味じゃ──っ」
謝り方まで本気で、まるごと真っ直ぐで──
その姿が可愛いと思ってしまう自分に
ソーレンは、内心でさらに頭を抱えた。
「……はぁ。勝手に勘違いしたのは、俺だ。
……で?練習ってのは──
具体的にどうするつもりなんだよ」
未だ残る気恥ずかしさを飲み込みながら
それでも、話を前へ進めるように問い返す。
レイチェルは頬の火照りを完全には隠せないまま
それでも、覚悟を宿した瞳でこくりと頷いた。
「今夜はね……アリアさんの練習をしたいの」
その名を口にする時
部屋の空気がわずかに張り詰める。
「ほら、擬態できたら……
わたしたちの中でアリアさんが最強でしょ?
わたし、皆を護れるくらい強くなりたい。
でも──千年分の記憶なんて
いきなり全部は絶対に耐えられないし⋯⋯
だから、時間をかけて
少しずつ、慣れていこうと思って──」
言葉を選びながら、ゆっくりと紡いでいく。
「今夜は、その……三分だけ。
三分経ったら、わたしを呼び戻して欲しいの。
ちゃんと、ここに戻って来られるように──」
〝アリアに擬態する〟ということが
どれほど重く、どれほど危うい決断か。
ソーレンには嫌というほど理解できた。
不死鳥を宿す魔女──
その千年の記憶に触れるということが
どれほどの痛みと絶望を伴うのか。
想像するだけで、背筋に冷たい感覚が走った。
それでもレイチェルは、怯えを押し殺して
真正面から、それを見据えている。
彼女は〝本気〟だ──
自分だけ何も出来ないまま
守られる側に留まり続けることを
彼女自身がもう許せないのだと
そのエメラルドグリーンの瞳が訴える。
胸の内側で、静かな確信が音を立てた。
ソーレンは視線をそらさず、静かに息を吐く。
「三分、だな?」
言いながら、自分の中の覚悟を
ひとつずつ並べ直していくような感覚になる。
「──わかった。
もし泣いても……
泣き止むまで、ずっと傍にいてやるよ」
約束というより、まるで誓いのようなその言葉に
レイチェルの瞳が大きく瞬き
やがてゆっくりと細められる。
「……ありがとう、ソーレン」
名を呼ぶその声は、震えを含みながらも確かで
その一言だけで、胸の奥が甘く疼いた。
恋人に向ける笑顔と、仲間としての信頼と──
その両方が入り混じった視線が
ソーレンの心臓を容赦なく撃ち抜いていく。
今この瞬間──
手を伸ばせば
簡単に抱きしめられる距離にいる恋人が
自分では到底触れられない
千年の孤独へと身を投じようとしている。
その横顔は、不器用なほど真っ直ぐで
愛おしいほど、強かった。
⸻
だが彼の心臓は──
別の意味で、再び早鐘を打ち始めていた。
レイチェルが
これから抱え込もうとしているもの。
それは〝千年〟という時を喰らった
魔女の記憶と痛みだ。
それに自分はどこまで彼女に寄り添えるのか──
ソーレンは
静かに視線を落とし、膝の上で拳を握りしめた。
(……いいか。
俺は、こいつの〝隣〟に居るって──
決めたんだろうが)
その瞬間、瞳の色がわずかに変わる。
さきほどまで甘さと戸惑いに揺れていた光が
静かな決意の翳を帯び、深く沈んでいく。
恋人の隣に立つ者として。
仲間の背を支える者として。
彼はようやく
腹の底から覚悟を引きずり上げたのだった。
レイチェルが
ゆっくりと擬態を始めようとする──
「じゃあ──やるね」
囁きにも似た決意の声とともに
レイチェルは長い睫毛をそっと伏せた。
小さく息を吸い込み
胸の奥まで空気を満たしてから──
ひと息、細く長く吐き出す。
そのたった一呼吸で
部屋の空気がわずかに震えたように感じられる。
ソーレンは、その変化を間近で受け止めた。
(……大丈夫だ。俺が傍にいる。
辛くて泣くんなら──
泣き止むまで、何度でも付き合ってやるだけだ)
そう言い聞かせるたびに
握りしめた拳に、わずかな震えが走る。
淡い照明に照らされたレイチェルの髪が
ゆっくりと、その色を変え始めた。
闇色に溶け込んでいたその一筋が
ほんのりと金の光を帯びる。
やがてその一筋が、束となり、流れとなり──
髪そのものが
光を孕んだ川のように色を変えていく。
甘い蜂蜜のような金が、背へさらりと流れ落ち
月光にも似た冷たい輝きを宿す。
ソーレンは、瞬きすら忘れて
その変化を凝視していた。
(……なんだ、この感じは……)
胸の奥に、説明のつかない圧迫感が生まれる。
胸郭の内側を、何か見えない手で
そっと押し広げられているような
息苦しくも──懐かしい感覚。
知らないはずの景色に
既視感だけが先に追いついてくる。
そんな矛盾した感覚が
じわりと心の中で滲み出していく。
やがて、金色に染まった長い睫毛が
花弁が綻ぶような静けさで持ち上がった。
その奥から現れたのは──深紅の瞳。
血潮のごとく、焔のごとく
鮮烈な紅が揺蕩っている。
その瞳が、まっすぐにソーレンを捉えた瞬間──
「っ……!」
どくん──
心臓が
内側から拳で殴られたように跳ね上がった。
次の瞬間には、全身の血管という血管が
そこから一斉に脈を打ち始める。
世界から音が消え
代わりに鼓動だけが耳の奥で膨れ上がった。
胸の内側が焼け付くように熱く
呼吸がうまく入ってこない。
(……なんっ、だ……これ……っ)
身体という器に
別の何かが流し込まれていくような違和感。
血が逆流し、そのまま渦を巻いて
頭のてっぺんへと押し上げられていくような
目眩にも似た感覚。
ソーレンは反射的に胸元を押さえ
必死に息を整えようとする。
だが、身体は言うことを聞かない。
膝が震え、視界の輪郭はぼやけ
まるで自分だけが
濃い重力の底へ沈められていくみたいに
身体が重くなっていく。
(踏ん張れ⋯⋯!倒れんな⋯⋯っ!)
視界の向こうでは、アリアの姿をした彼女が
ただ静かに佇んでいた。
その姿が、ソーレンの内側の何かを
無造作に掴み──引きずり上げる。
胸の奥底から、押し上げるように感情が溢れた。
深紅の瞳が
心の最も奥まった場所を見透かすように揺れる。
その視線を浴びた瞬間
ソーレンの理性に
蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
レイチェルの面影は、完全に消えていた。
そこにいるのは、気高く、どこまでも美しく
人ならざる静謐を宿した、不死の魔女。
ただそこに座しているだけで
この狭い部屋が
玉座の間にでも変わったかのように思えた。
神々しく、触れがたく
それでも⋯⋯痛いほど恋しい。
そして──底知れぬ寂寥を纏った存在。
その姿を前にした瞬間、ソーレンの唇から
意思を介さぬ言葉が零れ落ちる。
「貴女様に、非は無いと……
私は、存じ上げております……」
低く震えた声は
魂の底から掬い上げられた水滴のように
か細く脆かった。
自分の耳にさえ届かないほど小さなその言葉は
しかし確かにソーレンの喉を通って
世界へ放たれた。
(……今のは……俺が、言ったのか……?)
自分で発したはずの言葉を
自分自身が信じられない。
意識の輪郭がぼやけ
足場が霧に飲まれていくような感覚。
脳裏の奥で、誰か別の人物の感情が泡立ち
記憶と呼ぶには曖昧な残像が
ちらちらと浮かんでは消えていく。
自分が自分でない何かに
少しずつ塗り替えられていく──
そんな悪夢じみた感覚が
背骨を冷たく撫で下ろした。
(……くそ……っ!頭ん中に──
〝誰か〟が入り込んでやがるみてぇだ……!)
歯を食いしばり
ソーレンは必死に抵抗しようとする。
だが、アリアの姿はそれだけで
〝祈り〟と〝忠誠〟と〝渇望〟を呼び起こす
圧倒的な重みを孕んでいた。
その存在感は、重力よりも強い。
視線を逸らしたくても逸らせない。
身体の芯から引き寄せられるように
膝が勝手に跪こうとする衝動を
爪が食い込むほど拳を握り締めて堪える。
(クソ前世が──っ!
勝手に……俺の心を……
アリアで、塗り潰してんじゃねぇよっ!!)
喉元まで込み上げてくるのは
怒りなのか、悲哀なのか。
その両方がぐちゃぐちゃに入り交じり
胸の中で鋭い棘となって暴れ回る。
それでも、前世の残滓は容赦なく迫ってくる。
アリアの深紅の瞳が
ただ真っ直ぐにソーレンを見据えていた。
その視線を受け止めた瞬間
心臓が再び激しく跳ね
熱と眩暈が全身を支配する。
歯を食いしばっても、足は震えを止めない。
やがて──
自分でも気付かぬうちに片膝をつき
深紅の瞳の前へと、ゆっくり頭が垂れていった。
「……お慕い申して……おります。
……アリア様……」
胸の内側で誰かが泣き崩れ、誰かが祈り
誰かが縋りついている。
幾重にも折り重なった感情の残響が
一つの告白の形を取って唇から溢れた。
(ち……くしょう……っ!俺は……アイツを……
起こさなきゃ、なんねぇ⋯⋯のに……)
深く伏せた頭の中で、世界が遠ざかっていく。
アリアへの想い──
それが自分のものなのか、前世のものなのか。
境界線はすでに、どこにも見当たらない。
ただ、熱い。
ただ、苦しい。
ただ、どうしようもなく──愛しい。
喉元までせり上がってくるその感情は
涙と呼ぶには余りにも鋭く
悲しみと呼ぶには余りにも甘い。
今しがた自分が口にした言葉の意味すら
遠くへ離れていってしまう。
残されたのは、焼けつくような恋慕と
それに絡みつく、どうしようもない悔しさと──
理性では掬い切れないほどの
甘くて残酷な痛みだけだった。




