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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
一歩の先へ

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第86話 甘き葛藤

リビングに漂う静けさを破るように

控えめに、扉をノックする音が響いた。


ソーレンとレイチェルは、びくりと肩を揺らし

弾かれたように、慌てて互いの身体を離す。


火がついたように頬を染めたまま

目だけが気まずそうに絡み合った。


そのとき、扉が少しだけ開き

申し訳なさそうな表情の時也が

ひょっこりと顔を覗かせる。


「その……

そろそろアリアさんが湯冷めしてしまうので……

お邪魔させていただいても、よろしいですか?」


困ったような声音に、苦笑を滲ませながら

軽く頭を下げた。


たったそれだけの言葉で

甘く蕩けかけていた空気は

あっという間に現実へと引き戻される。


レイチェルは、慌てて姿勢を整え

クッションを整え直しながら

わざとらしいほど明るい声を弾ませた。


「あ、あはは!そ、そうですよね!

湯冷めしちゃったら、大変だもんね!」


ソーレンも喉を鳴らし、照れ隠しのように

わざとぶっきらぼうな声を上げる。


「あ、ああ……悪かったな、時也」


その様子に、時也は困ったように微笑み

そのまま小さく溜息をついた。


「いえ、どうかお気になさらず。

むしろ……

二人の時間を邪魔してしまって、すみません」


そう言って軽く身を引きながら背後を見やると

幼子の姿をした青龍が

じっと二人を見上げていた。


山吹色の瞳には、わずかに呆れが滲んでいる。


「ふむ……

まったく、青春というものは騒がしい」


青龍は鼻を鳴らし

威厳めいた仕草で静かに部屋へ入ってくる。


その様子に、時也は苦笑しつつ振り返った。


アリアは肩に薄いストールを掛けたまま

無言で時也の袖を引いている。


その仕草一つで〝寒い〟と告げていることを

時也は即座に汲み取った。


「失礼しました。

すぐに、何か温かいものをお淹れしますね」


そう言ってキッチンへ向かおうとしたところで

ソーレンが気まずそうに声をかけた。


「……悪ぃ。俺がやる。コーヒーでいいだろ?」


レイチェルもすぐに立ち上がり

ぱっと笑顔を咲かせる。


「じゃあ、私も手伝うよ!

時也さんたちにも、チーズケーキ用意するね!」


その様子を見て、時也はようやく肩の力を抜き

穏やかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。

では……お願いしてもよろしいでしょうか」


ソーレンは

少し居心地悪そうに視線をそらしながらも頷き

レイチェルと共にキッチンへと姿を消す。


その背中を見送りながら

時也はふっと小さく呟いた。


「……だいぶ、距離が縮まりましたかね」


青龍は

苦笑とも安堵ともつかぬ表情で肩を竦める。


「あの不肖の弟子が

ようやく一歩を踏み出したようで……

良きことです」


アリアは小さく頷きながら

ずっと掴んでいた時也の袖を離さない。


そのささやかな温もりを確かめるように

時也は優しくその手を包み込んだ。


リビングには

再び穏やかな温度が満ち始めていた。


奥のキッチンからは、レイチェルの明るい声と

それにぶっきらぼうに返すソーレンの低い声が

交互に響く。


そのやり取りの一つひとつが微笑ましく

時也は思わず表情を緩めた。


夜風が窓の外をかすめ、

月明かりがカーテン越しに柔らかく差し込む。


愛が芽吹き

少しずつ温かさを取り戻していくこの場所で

五人の時間はゆっくりと流れていた。



ケーキを丁寧に切り分けながら

レイチェルはふと隣へ視線を流した。


ソーレンが無言のまま湯を沸かし

ミルで豆を挽いている。


その横顔は真剣そのもので

さっきまでの

照れと甘さを含んだ表情とは打って変わって

どこか落ち着かない緊張を滲ませていた。


レイチェルは、少しだけ勇気を喉に集めて

そっと声をかける。


「ねぇ、ソーレン?」


柔らかな呼びかけにソーレンの眉がぴくりと動き

わずかに視線が横へ流れた。


レイチェルは手を止めず、微笑みながら続ける。


「お風呂終わったら……

私の部屋、来てくれない?」


──ピシリ。


空気に見えないひびが走ったような緊張が走る。


ソーレンの手が止まり

コンロの上で湯が沸き続ける音だけが──

やけに大きく耳に届く。


数秒の沈黙。


その間に、ゴクリと喉が鳴る音さえ

二人の間ではっきりと響いたように感じられた。


ソーレンは何も言わぬまま視線を逸らし

表情を崩さないよう努めながら

そっと息を吐く。


頬に集まる熱を、どうにか隠そうとしながら。


レイチェルは、その反応に気付きつつも

それ以上は何も重ねず

静かに返事を待ち続ける。


やがてソーレンは

余計な言葉を添えることなく

ただ静かに──しかし確かに、頷いた。


「……ああ」


低く、短い返事。

それだけで充分すぎるほど、胸が甘く跳ねる。


レイチェルは嬉しそうに微笑み

何事もなかったかのように

ケーキの準備へと手を戻した。


ソーレンもまた、湯の様子を確かめながら

何事もないふりで動き始める。


会話は、そこで途切れた。


けれども、二人の間には

言葉以上に確かなものが流れていた。


ケトルの底で、湯がコポコポと音を立て始める。


その音が、次に訪れる時間の予感を含んで

静かなキッチンに響いた。


レイチェルが切り分けたケーキを皿に乗せ

笑顔でリビングへと運んでいく。


「じゃ、私もお風呂いただいてきまーす!」


明るくそう言い残し

レイチェルはバスルームへと姿を消した。


ソーレンはカップにコーヒーを注ぎながら

立ち上る湯気を、ぼんやりと見つめる。


湯気は揺れ、ほどけ、消え──

それでも胸の奥に残された甘いざわめきだけは

簡単には消えてくれそうになかった。



キッチンでのやり取りから

ソーレンの胸の鼓動は

何度呼吸を整えても静まる気配を見せなかった。


レイチェルの何気ない

しかし、決定的な〝一言〟──


『お風呂終わったら……

私の部屋、来てくれない?』


耳にこびりついたように何度も頭に反響し

意識すればするほど胸の奥で甘く疼き

落ち着こうとする思考すら拒む。


ソーレンは無意識に額へ手を当て

ひとつ深く息を吐き出した。


(……ああ、落ち着け、俺。

なんでこんな……緊張してんだよ……っ)


頭の中は熱に浮かされたように

同じ言葉を巡り続ける。


冷静になろうとすればするほど

さらに意識が燃え上がる。


胸の奥がじんわりと熱を帯び

掌には汗が滲み、呼吸さえ浅くなる。


そんなときだった──


軽やかな足音がぱたぱたと近づき

レイチェルがキッチンへふわりと姿を見せた。


淡い水色のルームウェアに着替え

乾ききらぬ髪が肩に落ち

頬は湯上がりの温度を含んで

薄く紅に染まっている。


その一瞬の光景だけで

ソーレンの喉は砂漠のように乾ききった。


「お風呂、使えるよ!」


レイチェルは笑顔でそう告げ

タオルで髪を拭きながらこちらを見上げる。


あまりにも無防備で──

息を呑むほど可愛らしい姿。


ソーレンは視線を逸らし

低く掠れた声で短く返した。


「……ああ、わかった」


自分の声の震えに、彼自身が驚いた。


レイチェルも一瞬だけ首を傾げたが

問いは口にせず、「じゃあね」と笑って

また部屋へ戻っていく。


その背中を見送っている間も──

鼓動はますます速さを増すばかりだった。


しばらく硬直したまま立ち尽くしたのち

ソーレンはようやくバスルームへと足を向けた。



廊下を歩きながら

思考はさらに混乱の渦へ落ちていく。


(部屋に来いって……これ、誘われてんのか?)


(待て、落ち着け。

あいつ……

キスだって恥ずかしがってたじゃねぇか。

だけど……わざわざ〝風呂のあと〟で

部屋に呼ぶってのは──)


考えれば考えるほど

答えはどこにも辿り着かない。


シャワーを浴びても、熱は一向に冷めない。


むしろ湯気に包まれた身体は余計に火照り

胸のざわつきを煽るばかり。


冷水で顔を洗っても

心の騒音は全く収まらない。


(……俺たち……恋人になったんだよな。

なら──?)


(いやいやいや。

レイチェルはそんな軽い女じゃねぇだろ!)


理由のつかめない焦燥が胸を締め付け

ソーレンは湯気に煙る浴室の壁へ手をついた。


(情けねぇ……

俺、こんなにビビってんのかよ……)


けれども

脳裏に浮かんだのはレイチェルの笑顔だった。


あの無邪気で、真っ直ぐで

誰の心にも遠慮しない──そんな笑顔。


(……レイチェルが俺を信じて……

誘ってくれたんだろ。だったら──)


ソーレンは拳を握りしめ

自分自身を叱咤するように、低く呟いた。


「……情けねぇこと考えんじゃねぇよ。

逃げんな……ちゃんと、向き合え──俺」



シャワーを浴び終え

濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら

鏡の前に立つ。


何度か深呼吸を繰り返し

鏡の中に映る自分を見つめる。


そこにあるのは、戸惑いと緊張

それでも──微かに灯り始めた、覚悟の色。


(俺が逃げてどうする。

レイチェルを、愛すると決めたんだろうが⋯⋯)


心の底から

引きずり上げるように言葉を噛み締め

ソーレンはバスルームを出た。


手の震えはまだ完全には収まっていない。

それでも、一歩を踏み出すには十分だった。


(よし──行くか……)


廊下は静かで、灯りが柔らかく足元を照らす。


レイチェルの部屋の前で足を止める。

一度、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。


それから、ドアへと手を伸ばした、その時──


すっとドアが内側から開き

レイチェルが顔を覗かせた。


「あ……!ソーレン、待ってたよ!」


その笑顔は、胸を一瞬で甘く締め付けるほどの

温度を帯びていた。


ソーレンは照れ隠しに乱暴に頭を掻き

視線を逸らして低く呟く。


「……お前、そんな顔で待ってんじゃねぇよ……

余計に緊張すんだろ……」


レイチェルはくすくすと笑い

そっと手を差し出した。


「大丈夫。私も……すごく緊張してるから。

だからね、一緒に──慣れていこう?」


その声音は

月明かりより柔らかく、甘い蜜より温かかった。


ソーレンは小さく息を吸い

その手をしっかりと握り返す。


「……ああ」


短い返事の中に

ソーレンなりの覚悟と甘さが滲む。


レイチェルの頬がまた可愛らしく紅に染まった。


手を繋いだまま、二人は一歩ずつ

部屋の中へと踏み入っていった。


距離は、まだ不器用で、まだぎこちない。


それでも確かに、ふたりの夜はここから

さらに深く、長く続いていく。


触れ合う手の温もりが

お互いの心にそっと輪郭を刻みつけながら

甘く、ゆっくりと──


一歩先の世界へと、導いていた。

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