第85話 隣り合う事の意味
リビングの空気には、甘やかなチーズの香りと
深煎りの豆が持つ香ばしさが
静かに折り重なっていた。
テーブルを挟むことなく、並んで座る二人。
わずかな肩の距離さえ
今夜だけはやけに意識される。
ソーレンは無言のまま
フォークで小さくケーキを切り分けると
それを口へ運び
舌の上でゆっくりと溶かすように味わった。
「……ん。美味ぇな」
短く、低く。
それだけの言葉だったが
そこに嘘は一つもなかった。
「うん!コーヒーとケーキ、めっちゃ合うね!」
レイチェルは、弾む声とともに笑う。
その笑顔の眩しさに
ソーレンの胸は思いのほか強く
きゅっと締め付けられた。
何かを返そうと口を開きかける。
だが言葉になる前に
喉の奥で引っかかって、音だけが消える。
代わりに、ソーレンはカップを持ち上げた。
縁に触れると、熱が指先から腕へと沁み
濃い苦味と香りが、舌から胸の奥へ
静かに降りていく。
落ち着くようで──落ち着かない。
それでも、心のざわめきが
ほんの少しだけ丸くなる気がした。
二人の間には、短い沈黙が降りた。
カップがソーサーに触れる、小さな音だけが
静かな部屋に溶けていく。
やがて、ソーレンは視線を伏せたまま
ぽつりと呟いた。
「……お前、さっきの話──マジなんだな?」
フォークを持ち上げかけた
レイチェルの手が止まる。
きょとんとした瞳が、素直に彼を見上げた。
「……俺のこと、好きって……」
ようやく絞り出されたその言葉に
レイチェルは一瞬目を見開き──
次の瞬間には、頬をほんのり染めて
はにかむように視線を落とした。
「……うん。
ぜんぶが〝恋〟かどうかなんて
まだ自信ないけど……
それでも、やっぱりソーレンが好きよ」
静かで、けれど、真っ直ぐに芯の通った声。
ソーレンは、思わず乱暴に頭を掻いた。
胸の奥で暴れる鼓動がうるさすぎて
照れ臭さと一緒に、どこか笑い出したくなる。
「バカ……っ
そんなストレートに言うんじゃねぇよ」
口ではそう言いながら
唇の端には小さな笑みが滲んでいた。
レイチェルは、その不器用な優しさを
ちゃんと受け取って、くすくすと笑う。
その笑い声は、ふわりと胸の内側に落ちて──
じんわりと広がる熱になっていく。
かつて、飾り立てた女たちが
酒の席で囁いた好意の言葉が
ソーレンの耳元を通り過ぎたことは
何度もあった。
だが、そのどれもが、心には触れなかった。
音だけが虚空に消えて
残ったのは冷めた倦怠だけ。
──なのに
同じ〝好き〟の一言が
レイチェルの口からこぼれた途端──
胸の内側が、これほど騒がしくなるのは
なぜなのか。
(きっと、あの女たちには……俺の感情なんざ
一ミリも乗っかってなかったから──
なんだろうな)
気まずさの隙間に、ソーレンは小さく息を吸う。
逃げ出さないように
カップをそっとテーブルに戻してから
思い切るように口を開いた。
「……俺も、たぶん……
お前が〝好き〟なんだと思う。
どうにもこうにも、気になって仕方ねぇし……」
レイチェルは、はっと顔を上げた。
揺れる瞳に、期待と不安が同時に浮かぶ。
「ほんと?ほんとに──?」
その震えを孕んだ声から目をそらしきれず
ソーレンは横を向きながらも
はっきりと頷いた。
「……ああ。
だから、その……〝隣〟に、いてくれ……」
辿々しく、言葉を選びながら。
それでも、誤魔化しのない告白だった。
レイチェルの胸には、その一言が
誰の甘言より重く
有り難いものとして落ちていく。
「うん。……ずっと、隣にいるね!」
弾む答えに、ソーレンは思わず息を吐き
諦めたような──
けれどどこか救われたような笑みを浮かべた。
「なぁ⋯⋯?手、繋いでも……いいか?
これから……ちゃんと慣れるからよ」
恐る恐る差し出された大きな手。
言葉と同じくらい、不器用で──真剣な仕草。
レイチェルは、そっと自分の手を重ねた。
指先と指先が触れ合い、絡まり合う。
静かで、けれど確かに温かい。
その温度に、ソーレンは思わず
少しだけ彼女の手を引いた。
カラリ──
レイチェルの指から滑り落ちたフォークが
テーブルの上で乾いた音を立てる。
引かれる手。
ゆっくりと近づいてくる、ソーレンの顔。
その顔の線、伏せた睫毛、
どこか怯えたような、けれど決意を宿した瞳──
目の前で
その全てがあまりにも色気を帯びていて
レイチェルの思考は
一瞬で真っ白に弾け飛んだ。
「──ちょ、待っ……!
それは!私が!慣れないっっっ!!」
慌てふためいたレイチェルは、反射的に
両手でソーレンの顔をぐいっと押し戻す。
ぐらついた体勢のまま
ソーレンの顔は真っ赤に染まり、声が裏返った。
「……お前っ……!
俺が……どんだけ、今っ
勇気出したと──思ってんだよ……っ!!」
半ば叫ぶような言葉。
押し戻されながらも、その声には
泣き出す寸前のような必死さが滲んでいた。
その滑稽さと、どうしようもない愛おしさが
一瞬で空気を変える。
次の瞬間──沈黙は訪れない。
二人は、ほとんど同時に吹き出してしまった。
「あははっ……!
ごめ……ごめん、ソーレン……!」
「……っは、バカ……!謝んな……!」
笑い声が、夜のリビングに柔らかく響く。
カーテン越しに差し込む月明かりが
その光景を淡く包み込む。
甘くて、少しだけ苦くて──
そして、ひどくじれったい。
それでも確かに
二人の恋が一歩を踏み出した瞬間だった。
笑いがようやく静まると
部屋には再び穏やかな静けさが戻る。
テーブルにはまだ
コーヒーの湯気がかすかに立ち上り
甘酸っぱいレアチーズケーキの香りが
ほのかに残っていた。
隣り合って座ったまま
ソーレンとレイチェルは視線を合わせることなく
そっと目を伏せる。
互いの手だけは、離さないまま──
指先から伝わる温もりだけを
確かめるように、ゆっくりと握りしめていた。
ソーレンは、手にしていたマグカップを
そっとテーブルへ戻し
胸の奥で渦巻くざわめきを吐き出すように
深く息をついた。
「お互い……いろいろと、慣れていこうな。
俺は多分……理解できなくて、傷つけちまう事も
かなりあると思うが──遠慮なく言ってくれ」
口にするたび
自分の声がわずかに震えるのが分かる。
心臓の鼓動が、耳のすぐ後ろで煩く鳴っている。
それがレイチェルにまで伝わってしまいそうで
ソーレンは自分を落ち着かせるように
膝の上で拳を握りしめた。
レイチェルは、その言葉に思わず顔を上げる。
照明に照らされたソーレンの横顔は
どこか照れくさそうに目を逸らしながらも
その瞳の奥には、真剣な色が宿っていた。
その不器用な誠実さがあまりに愛おしくて
レイチェルの頬は、じわりと赤く染まっていく。
彼女は柔らかく微笑み──
小さく、けれどはっきりと頷いた。
「ふふ!
なら……先ずはハグから、慣れても良い?
キスは、まだ恥ずかしいけど……
ソーレンになら……抱きしめられたい」
その一言に、ソーレンの喉がきゅっと詰まる。
いつもの無邪気さに混じる
わずかに大人びた響き。
意識してしまえばしまうほど
胸の高鳴りは加速していく──
「……お前さ
そんな可愛い顔で、言うなよ……」
小さく呟きながら
ソーレンはゆっくりと両腕を広げた。
戸惑いと
不器用な優しさをそのまま形にしたような──
ぎこちなくも精一杯の〝受け入れ〟の仕草。
レイチェルは
一瞬だけ躊躇うように瞬きをしてから
そっと、その腕の中へと身体を預けた。
広くて、熱を孕んだ胸板。
自分の体温が
その懐に吸い込まれていくような感覚。
抱き寄せられた瞬間
耳元で鼓動の音が一気に近付く──
心音が、互いの胸の奥でぶつかり合う。
どちらのものか分からない早鐘が
やがてひとつのリズムのように響き合った。
ソーレンはそっと腕を回し
レイチェルの背中に、ためらいがちに
指先を触れさせる。
彼女の小さな身体が
わずかに強張っているのが伝わる。
だが、ふわりと香る甘やかな匂いと
華奢な肩越しに伝わるぬくもりが
彼の心の棘を、ひとつずつ溶かしていった。
レイチェルはソーレンの胸に顔を埋め
震える息を吐きながら囁く。
「ソーレン……好き」
掠れた甘い音が、耳元で微かに震えた。
その瞬間──
胸の中心をぎゅっと掴まれたように息が詰まる。
ソーレンは衝動的に
レイチェルの髪へと顔を埋めた。
さらりとした髪が頬を撫で
くすぐったさと共に、微かな香りが広がる。
「……ばか。
また、キスするぞ?」
冗談めかした言葉とは裏腹に
声はどこか掠れていた。
ソーレンは片手をそっと上げ
レイチェルの頭を優しく撫でる。
指先が髪を梳く度に
レイチェルの肩がびくりと小さく震えた。
レイチェルもまた、腕をソーレンの背中に回し
ぎゅっと抱きしめ返す。
「やっぱり、がんばってみようかな?
うーん……でも、もうちょっとだけ……
ハグのままがいい……」
胸元からくぐもって響く声は
甘さと羞恥と幸福でいっぱいだった。
「……おう。
好きなだけ、抱きしめててやるよ」
ソーレンは小さく笑い
まるでこの世界から彼女を守る壁になるように
その腕で優しく包み込む。
窓の外では、夜気がひんやりと
冷たさを運んでいるはずなのに──
二人の周囲だけは温かい空気に満たされていた。
しばらくの間、言葉は要らなかった。
互いの体温と、寄り添う鼓動だけが
心と心を確かに繋ぎとめている。
少し冷えた夜の空気が、かえって
二人の近さを際立たせているかのようだった。
不器用で、たどたどしく、手探りだらけ。
それでも、確かに芽生えた恋の形。
ソーレンはレイチェルの髪を撫でながら
胸のざわめきをゆっくりと整えていく。
腕の中で感じる、小さく柔らかな存在が
たまらなく愛おしい。
(俺の愛の形は……
コイツの形をしてんのかもな)
レイチェルもまた、ソーレンの大きな腕の中で
心の奥がじんわりと
温かく満たされていくのを感じていた。
ぎこちなくても、うまくできなくてもいい。
ふたりで少しずつ、慣れていけばいい。
そんな想いが
窓辺から差し込む淡い月明かりのように
静かに──甘やかに、彼らの心を照らしていた。




