第84話 コーヒーとケーキと⋯
喫茶桜の一日の営みが静かに幕を下ろし
夕餉の余韻が、まだ淡く残る頃合いだった。
「──では、失礼しますね。
行きましょうか、アリアさん」
柔らかな灯が揺らぐリビングで
二人は寄り添うように席を立つ。
時也は、アリアの入浴に至るまで
甲斐甲斐しく手を貸すのが常であり──
その姿は、彼の生に深く根を張った
献身そのものだった。
(相変わらず──過保護な奴だな。
だが、それもアイツの言う
〝それぞれの愛の形〟ってやつか⋯⋯)
ソーレンの胸の奥に燻る熱は
言葉にも形にもならず
ただ微かに身の内を焦がし続けていた。
青龍の姿はない。
時也とアリアが席を外す時間帯には
裏庭の静寂を選ぶのが
彼にとっての習いとなっていた。
ゆえに、リビングには──
ソーレンとレイチェル
ただ二人だけが残される。
壁の時計が小さく呼吸するように刻を鳴らす中
ふとソーレンは椅子の背へ体重を預け
切り取られた夜の景色を映す窓辺に
視線を滑らせた。
残された二人の間を満たす空気は
どこか所在なく、どこか温い。
言葉にすれば壊れてしまいそうな
薄い膜のような静寂だった。
「……俺の特製コーヒー、入れてきてやるよ」
その静寂を断つように
ソーレンがぶっきらぼうな声音で立ち上がった。
レイチェルは、ぱっと花が開くように微笑む。
「うふふ!
じゃあ私も、デザート出しちゃおうかな。
レイチェルちゃん特製の
レアチーズケーキがあるのだよ!」
「──はは。そりゃ、いいな」
その素直な明るさに
ソーレンの内側の尖った部分が
少しだけ音を立てて崩れた気がした。
二人は自然にキッチンへ並び
湯気と甘い香りの立ちのぼる作業を
それぞれ始める。
ミルの歯が豆を砕く低い音が静けさの中で響き
ソーレンはふと横目でレイチェルを見る。
(……楽しそうにしてんな)
ケーキを盛り付ける小気味よい手元。
その表情の柔らかさに
自分が抱え込んでいた焦燥が
やけにちっぽけで馬鹿らしいものに思えてくる。
皿へケーキを滑らせたレイチェルが
ふとソーレンの手元へ手を伸ばした、その刹那。
──触れてぇ。
ほとんど無意識のまま、ソーレンの指先が
そっとレイチェルの手の甲へ触れた。
微かな、本当に僅かな──接触。
しかし、刹那は妙に引き延ばされ
まるで夜の帳に吊された星のように
瞬きながら留まって、彼の胸の内側を焼いた。
「──ん?どうしたの、ソーレン?」
レイチェルの首傾げる気配に
ソーレンは弾かれるように手を引く。
胸が熱い。
うまく呼吸が、できない──
「……あのさ……
俺、こんなんだけどよ……お前──」
ようやく搾り出した声に
レイチェルは丸い瞳を向ける。
「うん?」
「──っ、いや……何でも、ねぇ」
飲み込んだ言葉の苦味が舌に残り
自分の不器用さが、ほとほと情けなくなる。
(俺を……
〝男〟として見てくれるのか、なんて……
言えるかよ)
そんな彼の迷いを
レイチェルは真正面から見据え──
ふっと、春の気配のように微笑んだ。
「ねぇ、ソーレン?
私ね……
ソーレンのことが、好きなんだと思うの」
──その一言は、刃でも炎でもなく
ただ真っ直ぐな光として胸を撃ち抜いた。
「……⋯⋯は?」
「異能のことで悩み過ぎてて
恋愛とか考えたことなかったし⋯⋯
これが本当に〝恋〟なのか、まだ自信はないの。
でも──今言わなきゃって、思っちゃって。
ごめんね、急に」
真っ直ぐな瞳に射抜かれ、ソーレンは息を呑む。
「こんな……俺を?」
「うん。
そんなソーレンが、好きよ。たぶんね?
というか──ソーレンじゃなきゃ駄目なのかも」
琥珀の瞳を見開いたまま
ソーレンの肩が微かに揺れた。
照れとも困惑ともつかぬ息が、胸の奥で暴れ
喉の奥では気持ちがうまく動かない。
「……お前……馬鹿だろ」
ぼそりと落とした言葉だけを残して
コーヒーを持って歩き出す背は
どこか逃げるようで。
だが、その背中が震えていたのは──
きっと彼自身が気付いている。
「俺も……お前が、気になってる……」
掠れた声は、湯気に紛れるほど小さかった。
「え?なに?聞こえない!」
追いかけるように言うレイチェルに
ソーレンは振り返り、思わず怒鳴っていた。
「うっせぇ、バカ!
早くケーキ持って──〝隣〟に座れよ!!」
その言葉は
どこまでも不器用で、どこまでも真実だった。
レイチェルは目を輝かせ
幸福そのものの笑みをソーレンに向ける。
「ふふ。〝隣〟──で、いいのね?」
「……おう」
たった一語──
その短い言葉の端々まで
どうしようもない温度が滲んでいた。
「隣に居させてくれて、ありがとう。ソーレン」
その言葉が胸を締めつける。
甘さと苦味が、一度に押し寄せるように──⋯
(俺で良いなんて言う〝バカ〟が……
この世にいたなんてな……)
ソーレンは顔を背け
湯気の立つコーヒーを静かに啜った。
独りでは気付けなかった温もりが
じわりと満ちていく。
コーヒーとケーキのように──
苦さの奥に潜む甘さが
胸の奥の〝まだ名もない感情〟と
ゆっくり混ざり合って膨らみ
静かに、確かに、ソーレンを包み始めていた。
⸻
夜風は静かに庭を渡り──
裏庭の草木はわずかな葉擦れを奏でながら
まるで眠りの間際に身じろぐように揺れていた。
薄雲を透かして落ちる月光は朧でありながら
どこか慈しむように淡い蒼を
庭の木々と石畳へと降り注いでいる。
湯上がりのアリアは
その光の中でひとりベンチに腰掛けていた。
白い寝間着に薄いストールを掛け
肩へ流れ落ちた濡れた金の髪は夜風に触れ
月の指先に撫でられるように揺れている。
その傍らに、時也が静かに立っていた。
深藍色の着物の袂から煙草を取り出し
小さな炎が一瞬、アリアの横顔を淡く照らす。
すぐにその光は夜へ吸い込まれ
残されたのは微かな火の匂いと
月明かりだけだった。
「⋯⋯夜風がちょうど良いですね、アリアさん」
時也は紫煙を細く吐き
夜気の冷たさと溶け合うその白い筋を見送る。
アリアは言葉を発さぬまま瞳を閉じ
その静かな風をただ受け入れていた。
彼女の無言は
時也にとっては何より雄弁であった。
時也のすぐ横には、青龍が佇む。
幼子の姿でありながら、背筋は凛と伸び
唇には煙管が静かに咥えられている。
月明かりがその幼い頬を照らし
山吹色の瞳が昇りゆく煙を追って淡く揺れた。
「もう少し──このままでいましょう。
二人の邪魔をしたくはありませんしね」
時也の言葉に応じるかのように
アリアは薄く瞼を開け、ほんの僅かに頷いた。
その微細な動きの奥には
微かな安堵の温度が宿っていた。
青龍は煙管の火を静かに押し上げ
夜空を見上げながら吐息のように呟いた。
「まったく、あの不肖の弟子は臆病で
こうでもせねば一歩も踏み出せぬとは──
実に情けない」
その声音に皮肉を滲ませながらも
どこか諦念めいた優しさがあった。
時也は微笑み、煙草を親指で軽く弾く。
「ソーレンさんは、ああ見えて繊細ですからね。
自分の想いを認めるには
それ相応の勇気と、時間が要るのですよ」
青龍は眉を寄せ、鼻を鳴らす。
「……鍛え方が足りぬのでしょう。
あの男は心に隙が多すぎる」
その言葉にアリアは無言で唇を緩める。
わずかな微笑みが、夜気に溶けるように淡い。
時也はその変化に気付き、柔らかに声を重ねる。
「ですが、彼もようやく──
愛を知る入り口に立ったのだと思います。
レイチェルさんの真っ直ぐな気持ちが
彼の心を動かし始めたのですから」
青龍は煙を吐き、月に細めた目を向けた。
「不肖ながらも……
あれでも強い男でございます。
強さゆえに
心が揺れることを恐れているのでしょう」
「ええ。だからこそ、今のソーレンさんには
レイチェルさんのような存在が必要なのです。
心に触れ、溶かし
支えられるだけの優しさが──」
青龍は静かに思案するように視線を巡らせた。
「時也様は⋯⋯
いつも誰かの背を押してばかりでおられる。
お優しすぎるほどに」
時也は細く息を吐き、月明かりを仰ぐ。
「僕もかつては、ソーレンさんと同じでした。
アリアさんの隣にいる資格があるのかどうか。
だからこそ──彼の迷いが分かるのですよ」
青龍は、ちらと時也を見上げる。
「では今は、どうお考えで?」
時也は迷いなく答えた。
「ええ。今なら言えます。
アリアさんの隣に立つのは──
僕でなければならない、と」
青龍は小さく頷いた。
「ソーレンさんも
これから自身の愛の形を探すのでしょう。
レイチェルさんという光を得てしまった以上
もう逃げ道は──ありませんから」
その言葉を聞くように
アリアはそっと時也の袖を摘まんだ。
花弁が落ちる音よりも優しいその仕草に
時也は微笑んで煙草を灰皿に押し消し
アリアの横へ静かに腰を下ろした。
アリアはゆっくりと頭を預ける。
その重量は羽根のように軽く
しかし確かな信頼と安堵が込められていた。
青龍はその光景に一度だけ瞬きをし
煙管を口元に戻した。
「……あの二人が歩み始めたのであれば
我々もひとまず、安心でございますね」
裏庭に満ちるのは、ただ穏やかで澄んだ静寂。
月光に照らされた草木がさざめき
夜風は三人の時間を柔らかく包んでいった。
リビングでは、ようやく芽吹いたばかりの
ソーレンとレイチェルの不器用な恋が
まだ拙く
しかし確かな明かりを灯し始めている。
その恋を遠くから見守るように──
裏庭の三人は、静かに月と桜を眺め続けた。
夜はまだ長く、穏やかに──満ちていく。




