第83話 晴れ時々、槍
店内へ戻ったソーレンは
扉が閉じる微かな音とともに
喫茶桜特有の──
柔らかな静寂が肌に落ちるのを感じた。
外気に晒されたことで
心の棘は、薄い霧のようにほどけていた──
はずだったのに。
そう、心の整理はつけた心算だった。
だが、視線の端に
レイチェルの細い背の曲線が映り込んだ瞬間
胸の奥に沈殿していた痛みが、また微かに蠢く。
厨房の灯りに照らされたその背中は
普段よりも幾分か小さく見え──
それだけで、ソーレンの呼吸はひとつ乱れた。
彼は深く息を吸い込み
まるで足元に
重りを括りつけられたかのような思いで
一歩を踏み出した。
「……おい、レイチェル」
底の厚いブーツが床板を強く叩き
その乾いた音が厨房の空気を震わせる。
レイチェルは肩を小さく跳ねさせ、振り返った時
その瞳に灯った困惑が淡い影のように揺れた。
「あ──ソーレン。どうしたの?」
その問いを正面から受け止めると
ソーレンは拳を握り込み
言葉の行き場を探すように喉を鳴らした。
「……さっきは、悪かった」
告げられたのは、あまりに不器用で──
あまりに真っ直ぐな謝罪だった。
「え……?」
レイチェルが瞬きを忘れる。
その戸惑いは
まるで透明な膜のように空気を震わせた。
「怒鳴ったりして……悪かった。
お前は何も悪くねぇのに……
あんな言い方、しちまった」
その声音は低く、濁りを含まず
ただ真摯に沈み込んでいた。
レイチェルの胸の奥に、そっと温度が灯る。
柔らかな微笑が自然と口元に浮かんだ。
「ううん。気にしてないよ。
ソーレンが何か悩んでるんだろうなって……
なんとなく、分かってたし」
「だからって──八つ当たりしたのは、俺だ。
……本当に、悪かった」
俯いたまま落ちる大きな影は
彼の後悔の深さそのもののように静かだった。
その姿に
レイチェルは小さく肩を揺らして笑った。
「……ソーレンが
そんなことで謝ってくるなんて……
これはきっと、後で空から〝槍〟が降るね」
冗談めかした声に、ソーレンは顔をしかめる。
「うるせぇ……!」
「でも──嬉しいよ」
「は……?なんでだよ」
レイチェルは首を傾げ
その仕草すらソーレンには儚げな光を帯びる。
「なんでだろう?
でも、ソーレンがちゃんと
私のことを気にかけてくれてるって──
そう思えたからかな?」
その言葉は、春の雨のように静かで
聞く者の胸をじんわりと濡らしてゆく。
ソーレンはほんの一瞬だけ視線を逸らし
低く呟いた。
「お前……本当、変わってるよな」
「そうかな?」
「普通なら……もっと怒ったっていいんだぞ」
「うーん……。
でもね、ソーレンが怒るときって
大抵、理由があるって知ってるから」
その声は、見透かすようでも、責めるでもなく
ただ優しい光だけを帯びていた。
「護ろうとしてる時とか……困ってる時とか。
ソーレンの怒りって
いつもそういう〝匂い〟がするんだよね」
その一言が──
ソーレンの胸に、静かに、深く沈んでゆく。
レイチェルはふと視線を落とし、小さく呟いた。
「それにね……
私だって、ちょっと反省してるの」
「反省?なんでだよ」
「ソーレンって、人と関わるの得意じゃないのに
私が……無理させてたのかなって」
その言葉が落ちた刹那──
ソーレンの身体は、思考より先に動いていた。
伸ばした手がレイチェルの肩を掴み
その指先には、揺れる迷いと焦燥の温度が宿る。
「ちげぇ……!
お前は悪くねぇ。俺が……勝手に悩んで
勝手に、パニクってただけだ」
その声音は粗く、それでいてどこか震えていた。
「ソーレン……」
名を呼ぶ声が、ふわりと胸を撫でる。
だがソーレンは逃げるように視線を伏せ
喉の奥で言葉を搾り出した。
「……どうすりゃいいか、分かんねぇだけだ。
お前が嫌いとか──そういうんじゃねぇ。
……むしろ、逆だ」
レイチェルの瞳がわずかに揺れ
灯火のような光がその奥でひそやかに瞬いた。
「……逆って?」
「──っ!⋯⋯だから、その……」
俯いた横顔には、怒りでも戸惑いでもない
ただ、不器用に形を変えた照れが
赤く差していた。
言葉を探す仕草が
かえって彼の真っ直ぐさを露わにする。
レイチェルはその不器用な姿を見つめながら
ひとつ静かに息を吸い込んだ。
「ふふ……。
ソーレンって、本当に不器用だね」
「……うるせぇ」
つっけんどんな返しの奥に宿る熱を
レイチェルは敏く感じ取る。
「でも──なんだか、さらに嬉しいよ」
その微笑は
雪解けのように静かに世界を緩めた。
ソーレンは視線を逸らし、鼻を短く鳴らす。
その仕草すら
心を守るための〝小さな鎧〟のようだった。
「もう……。
そんな真面目に謝られたら
こっちまで照れちゃうじゃない」
レイチェルはふわりと笑い
ソーレンの長い指をそっと自分の手で包み込む。
その手の温度は
触れた瞬間に彼の胸の壁を溶かしていった。
「これからは──ちゃんと話してね?
何でも一人で抱え込まないで。
少しずつでいいから……
相談してくれたら、嬉しいな」
ソーレンはわずかに息を飲み
苦く、けれど柔らかい声音で呟いた。
「……あぁ。できりゃ、いいんだけどな」
言葉の端に、照れと諦めが混じっても
その底には確かな温度が宿っていた。
レイチェルが静かに笑むと
ソーレンの胸の奥で長く固まっていたものが──
ゆっくり、ゆっくり、解け落ちていく。
肩の力が抜けるのを感じながら
彼はふいに口元を緩めた。
「……じゃあさ。
手が空いたら、コーヒーでも淹れてやるよ」
「わぁ、本当?
ソーレンの淹れるコーヒー、けっこう好きよ!」
その率直な言葉が
ソーレンの横顔に再び火を灯す。
「……ったく。調子のいい奴だな」
呟きは拗ねた音色を含んでいたが
そこにはもう、不安も迷いもなかった。
レイチェルの笑い声が
穏やかな蒸気のように厨房へゆっくり広がり
その温度が、二人の間に漂っていた気まずさを
静かに押し流してゆく。




