第82話 初めての悩み
朝の喫茶桜には
まだ夜の静寂の名残が薄く漂っていた。
いつもならソーレンは淡々と朝の支度をこなし
何ひとつ乱れのない動きで
店を整えていくはずだった。
だが、この日の彼はどこか歯車が噛み合わない。
カウンターに立ちながらも視線は宙を彷徨い
コーヒーミルを回す手は微妙にぎこちない。
──昨夜のことが、まだ胸に残っている。
レイチェルの笑い声。
繋いだ手の温もり。
指先に絡んだ柔らかさ。
掌を開いてみても
そこに温もりは残っていない──
だが、確かに存在したその感触が
何度振り払っても指先に残り続ける。
「くそ⋯⋯」
小さく呟き、頬を叩いてみても
思考の霧は晴れなかった。
仕事の段取りは頭から抜け落ち
心はどこか遠くを彷徨っている。
「ソーレン?
このモーニングセット、ゆで卵忘れてるよ?」
「あ?⋯⋯あぁ、わりぃ」
背後からレイチェルの声が飛び
慌てて卵を取り出す。
隣に立った彼女がトレイを並べ始め──
ふと、指が触れ合った。
その瞬間、指先に小さな電流が走った。
「──っ!」
ソーレンは反射的に手を引き
レイチェルが驚いたように振り返る。
「どうしたの?今日はなんか⋯⋯変だよ?」
「⋯⋯別に、なんでもねぇ」
言葉は素っ気なか言葉を返しながらも
しかし、視線は合わせられない。
──何なんだ、俺。
ただ触れただけで心臓が跳ねるなんて⋯⋯
情けねぇ──
昨日までは、普通に話せていた。
昨日までは、何の意識もなく隣に立てていた。
昨日──手を繋ぐまでは。
レイチェルの手は温かくて、柔らかくて。
そして何より、離れようとしなかった。
その記憶が──脳裏から離れない。
(レイチェルが⋯⋯
俺を〝男〟として、見てんのか?)
「⋯⋯っ、くそ」
思考が妙な方向へ飛びそうになり
髪を掻き毟る。
その様子に
レイチェルは不思議そうに首を傾げた。
「ソーレン、本当に大丈夫?
なんか⋯⋯今日ぼんやりしてるよ?
あ──もしかして二日酔い?」
「うるせぇ。俺はいつも通りだっつの」
腹が立っているわけじゃない。
なのに、苛立ちだけがじわりと胸を刺す。
「そうかなぁ⋯⋯」
レイチェルは
エメラルドグリーンの瞳に不安を混ぜ
覗き込むように顔を寄せる。
「──っ、近ぇ!」
「え、そう?」
不意に距離を詰められ、心臓が跳ねた。
自分の鼓動が耳の奥に響く。
情けないほどに動揺している自分が──
嫌になる。
──何をやってんだ、俺は。
こんな風に狼狽えるなんて
ほんと馬鹿みてぇだ──
「ほんとにどうしたの?なんか私、嫌われた?」
レイチェルの声が弱く翳る。
その響きに、胸が掴まれるようだった。
「⋯⋯いや、そんなんじゃねぇよ」
焦ったソーレンはコーヒーを勢いよく注ぐ──が
しかし急ぎすぎて
漆黒の流れがカップから溢れた。
「わっ、大丈夫?」
「ちっ、しくった──!」
布巾で拭き取りながらも
指の震えは収まらない。
レイチェルは心底、心配そうに眉を寄せた。
「ねぇ、ソーレン⋯⋯今日は休んだら?
もしかして──
昨日も無理して付き合ってくれたの?」
その優しさが
何故か胸の奥の何かを──逆撫でする。
「うっせぇ!俺は大丈夫だって言ってんだろ!」
怒鳴るつもりなど、なかった。
だが声は荒れ、レイチェルの表情が一瞬で曇る。
「あ……ごめん。私、余計な心配だった⋯⋯?」
俯いた背中が、小さく震えたように見えた。
しまった──
そう思った時には、もう遅い。
レイチェルはそのまま、厨房へと姿を消した。
残された沈黙の中で、ソーレンは唇を噛む。
「⋯⋯っ、悪ぃ」
もう聞こえない相手に向かって呟いても
何ひとつ──取り戻せない。
どうしていいのか分からず
指が白むまで、拳を強く握りしめる。
(俺は⋯⋯)
〝レイチェルを、傷つけちまった〟
──愛を知る、良い機会かと思いますよ。
時也の言葉が脳裏で反響する。
(俺は……愛なんて、知らねぇ)
どうしたらいいのか
どうしたら知れるのかも、分からない。
今わかるのは──胸の痛みだけ。
(そんな俺が……愛せんのかよ)
優しくしたい。
でも、優しいの定義すら自分には曖昧で──
滲むように不安が広がる。
──それにアイツも、こんな俺じゃなくて
もっと愛を良く知る〝普通の男〟の方が⋯⋯
⋯⋯ちくしょう。
なんで、他の男に笑いかけるアイツを想像すると
さらにイラつくんだよ⋯⋯っ!
なんだこれ
なんだこれ
なんだ──これ⋯⋯っ?
わっかんねぇ⋯⋯っ!──
不器用さが苛立ちとなって噴き出す。
それでも、不思議なほどに許せない。
「……ちくしょう」
自分の中で暴れる初めての感情に
ただ歯噛みする。
俯いて去った背中が──
脳裏に浮かんで離れない。
「⋯⋯大切に、できる自信なんて⋯⋯ねぇよ」
その言葉が
初めて知った痛みのように胸に落ちていった。
⸻
ソーレンは、逃げるように裏庭へ出た。
冷えた朝の空気が
まだ熱を持つ胸へ、無情に容赦なく撫でていく。
落ち着くために煙草を一本取り出し
癖のある手つきで火を点けた。
吸い込んだ煙が肺を満たすと──
一瞬だけ雑念が薄まり
視界がわずかに澄む気がした。
だが──
「……クソ」
吐き出した煙は風に攫われ
代わりにすぐさま小さな背中の記憶が
濃く胸へ戻ってくる。
普段なら気にも留めない些細な機微が
今はやけに鮮明で、心の奥で鋭く引っかかる。
──愛なんて、知るはずがねぇ。
愛される資格なんて、こんな俺にはねぇと
そう思って生きてきた──
それなのに。
「なんで……あんな顔させちまったんだよ」
悄然と俯く小さな背中が──
棘のように刺さったままだ。
「ふふ。
随分と、悩まれているようですね?」
柔らかな声が背後から落ち
ソーレンは振り返った。
そこには
煙草に火を点けたばかりの時也がいた。
「あぁ……クソ。また、読まれたか」
「えぇ。
朝からレイチェルさんのことを考えているのは
ずっと聞こえていましたよ」
穏やかな声と裏腹に、その鳶色の瞳は
どこか静かに深く揺らめいていた。
時也は隣に立つと、紫煙を空へ放つ。
「ほんと、厄介な能力だな」
「……貴方も知っているでしょう?
心を読めることが──
決して良いことばかりではないと」
「まぁな……」
ふたりの間にしばし沈黙が落ちる。
いつもなら気にならないはずの静けさが
今日はやけに落ち着かない。
その心の波紋を見透かしたように
時也が静かに口を開いた。
「僕も……
〝最初からアリアさんを愛していたか〟
と問われたら──
正直なところ、違ったのだと思います」
「……なんだよ、急に」
「少し前に、レイチェルさんに指摘されて
気付いたことなのですが」
時也は鳶色の瞳を細め、苦笑のような
懐かしむような表情で煙を吐いた。
「僕は、アリアさんを──
喪った妹の代わりにしていたのかもしれません」
「は?」
「妹を殺され、心にぽっかりと穴が空いた。
その虚無を埋めるように
彼女へ惹かれてしまったのかもしれません。
アリアさんは──
僕と同じ 〝喪った者〟 でしたから」
その告白に
ソーレンは言葉を挟まず、黙って聞き続ける。
時也が自分の弱さを語るのは──極めて珍しい。
「当時の僕は
生きる意味すら見失っていました。
青龍がいなければ、きっと……
そのまま消えていたでしょうね」
静かな声──
しかしその奥には
失われた年月と血の匂いが潜んでいた。
「だからこそ、アリアさんは僕にとって
〝生きる理由〟そのものになったのです」
「それって……愛じゃねぇのかよ?」
ふっと笑い、時也はソーレンを見る。
「えぇ。今の僕はそう思っています。
ですが、最初は違いました。
彼女に……依存していたのです」
「依存、ねぇ……」
その響きが
ソーレンの胸に妙にすとんと落ちる。
「アリアさんがいなければ
自分の存在意義すら保てない⋯⋯。
それは愛ではない。ただの──執着です」
その言葉は
まるで自身の心をも刺す刃のようだった。
アリアを失うことを恐れすぎて
時也は己の内側に 〝獣〟を飼っている。
無惨にも、人を喰い破るほどの──
愛の形をした狂気を。
ソーレンは煙草を深く吸い込む。
胸に渦巻いていたざわめきが
少しずつ解けていく気がするのは──
何故だろうか。
絶対に揺らがないと思っていた男が
〝愛は最初から完成していたわけではない〟
と言う。
それが妙な安心となって、胸へ落ちていく。
「つまりは、愛の始まりは……
一人ひとり〝それぞれ〟ということですよ」
時也はふっと微笑んだ。
「貴方は貴方の──
その〝不器用な始まり方〟で良いのです。
愛を知らないからといって
愛せないとは限りません」
「…………」
「辛い環境を生き抜いた貴方だからこそ
できる愛し方もある。
自信を失う必要はありません」
その優しい声は
不器用な心の奥底にそっと触れるようだった。
「俺は……愛なんてろくに知らねぇ。
どうやって愛せばいいかも、わかんねぇ」
「それでも、今こうして悩んでいる。
それだけで、もう十分なのですよ」
「は?悩むのが……十分、だと?」
「えぇ。
愛を知ろうとしている証ですから」
煙がゆっくりと空へ昇る。
「大切にしたいと思っている。
守りたいと思っている。
それが──貴方の愛の始まりです」
ソーレンは煙を吐きながら目を伏せた。
胸の奥につかえていた絡まった思考が
ようやく、糸口を見つけた気がした。
「……俺、少しはマシにできるかねぇ?」
「大丈夫です。
レイチェルさんはきっと──
貴方を待っていてくれますよ」
その言葉に、ソーレンの口元が少しだけ緩む。
「ったく……お前の話は、いつも面倒くせぇな」
「ふふ。
負け犬みたいな顔をしていた貴方が
少し気持ち悪かっただけですよ」
「……うるせぇ」
煙草を揉み消し、ソーレンは立ち上がる。
胸の奥が先ほどより少しだけ軽い。
「戻るわ。
これ以上サボってたら
レイチェルに文句言われそうだしな」
「えぇ。そうですね」
時也は柔らかく微笑んで頷き
軽く手を挙げて去るその背中を静かに見送った。
裏庭には再び静寂が戻り
朝の風がほんの少し──温かく感じられた。




