第81話 慣れない感触
夜の街は、つい先ほどまでの喧騒が
嘘のように静まり返っていた。
石畳を踏むヒールの音が
カツン、カツン──と
澄んだ闇に一定のリズムを刻む。
その隣を歩むブーツの足音は
彼女の歩幅に合わせるよう、僅かに速度を落とし
ふたりの影が街灯の下で静かに重なる。
レイチェルはふと横目を向け
ソーレンの横顔を盗み見る。
先程、バーで
グラスを傾けていた男とは思えないほど
無骨で飾り気のない横顔──
その静かな輪郭に、胸がひそかに疼いた。
──いい夜だった。
映画も、食事も、お酒も。
けれど何より心に残ったのは
こうして隣を歩いてくれる、その存在だった。
レイチェルは迷うように指先を揺らし
そっと彼の手へ触れた。
躊躇いののち──指を絡める。
ソーレンの手は少し冷えていたが
ほんのわずかに力を込めれば──
確かな温もりが返ってくる。
「──っ、ガキかよ、お前⋯⋯?」
不意の接触に、ソーレンは眉を寄せて毒づいた。
だが、その手は振りほどかれることはない。
むしろ──ぎこちないながらも
指を絡め返しているようにさえ思えた。
レイチェルは微笑を含んだ声で応じる。
「〝大人〟よ?一緒にお酒も飲んだでしょ?」
視線は交わらない。
歩幅も変わらない。
ただ、絡めた指だけが
心を代弁するように静かに繋がれていた。
その温もりが──
夜の終わりをひどく名残惜しいものにしていく。
⸻
喫茶桜の居住スペースに戻ると
レイチェルは軽く伸びをして振り返った。
「じゃ、私──先にシャワー浴びてくるね!」
「ああ、ゆっくりしてこいよ」
軽やかにバスルームへ向かう背中を見送り
ソーレンはひとつ息を吐いて裏庭へ歩いた。
夜風が肌を撫でるたびに
酒の熱が薄れていくのを感じる。
ポケットから煙草を取り出し、一本を唇に挟む。
癖のある手つきでジッポを開き
カチッ──と火をともした。
煙が肺を満たし
白く吐き出されて夜空へ溶けていく。
星の瞬きさえ、淡い煙に曇らされるようだった。
(⋯⋯ったく。
なんで俺なんかと、手なんざ繋ぎたがるんだよ)
煙草を咥えたまま
ソーレンは掌をじっと見つめた。
レイチェルの柔らかな感触が
まだ指先に残っているようで落ち着かない。
(なんだってんだよ。モヤモヤしやがる⋯⋯)
煙草を持つ指が少し震えていることに気付き
舌打ちが漏れた。
「素敵なデートの時間を──
過ごされたみたいですね?」
穏やかな声が背後から落ちてきた。
ソーレンは肩を跳ね上げて振り返る。
振り返れば──
時也が柔らかく微笑んで立っていた。
「⋯⋯おい、急に現れるなよ。
心臓止まるかと思ったじゃねぇか」
「申し訳ありません。
ちょうど外の空気を吸いたくなりましてね」
時也は静かに歩み寄り
品のある所作で煙草へ火を点けた。
「⋯⋯デートって⋯⋯なんだよ、それ。
映画見て、飯食って、酒飲んだだけだろうが」
不機嫌そうに言い放ち、煙を吐き出すソーレン。
だが──
僅かに赤く染まった耳を、時也は見逃さない。
「一般的には、それを
〝デート〟と呼ぶのでは?」
「⋯⋯べ、別に大したことじゃねぇよ!
アイツが行きてぇって言うから──
付き合って⋯⋯やっただけだ」
時也は言い淀むその様子に、ふっと微笑んだ。
「ふふ⋯⋯そうですか。
でも、悪い気はしなかったご様子ですね?」
「っ、⋯⋯うるせぇ!
心を読むんじゃねぇよ、クソがっ」
ソーレンはそっぽを向き、深く煙を吸い込んだ。
落ち着きのない仕草には──
逆に慣れない感触に揺らぐ心が
透けて見えるようだった。
夜気は静かに沈み、紫煙だけが細く揺れる。
「彼女が嫌いな訳では無いのでしょう?
むしろ、嫌いであれば──
そのようには決して振る舞いませんよ」
時也は、細く煙を吐きながら夜空を仰いだ。
その声音は穏やかだが、どこか影を孕んでいる。
その一言に、ソーレンは煙を吐き損ね
思わず咳き込んだ。
「っ、げほっ……!
な、なんでそういう話になるんだよ、ボケ!」
だが時也は、彼の反応を楽しむでもなく
淡々と語り継ぐ。
「……ソーレンさん。
貴方はずっと、誰かに〝愛されること〟に
慣れていないだけです。
自分を守るために拒絶を選んでしまう──
それだけのことですよ」
煙草の先に灯る赤がゆらりと揺れ
夜風に乗って紫煙が流れていく。
その揺らぎを見つめる横顔は静かで
しかし、奥底に沈むものは深い。
「……〝愛〟を知る、良い機会かと。
そう、思いますよ?」
「っ……バカかよ。俺に、そんなもん……!」
ソーレンは煙草を足元で荒く踏み消し
時也へ乱暴に背を向けた。
だが──
耳に残る〝デート〟という一言だけが
ぐるぐると頭の中を渦巻いて離れない。
「ソーレンさん」
「あんだよ」
「自分から心を開くことも──
時には必要ですよ?」
柔らかい声が背中へと触れる。
ソーレンは返事もせず
ただ肩を震わせたまま沈黙した。
指先にまだ残る、レイチェルの温もり。
その感触だけが、妙に胸をざわつかせる。
「では──おやすみなさい」
時也は静かに微笑み
煙草の火を灰皿へ押しつけた。
じゅ、と小さな音が夜気を裂く。
ソーレンはまだ背を向けたままで
言葉を返さない。
時也はその様子をひと目だけ見つめ
微かに眉を寄せたが──
結局、何も言わずに踵を返した。
歩みを進めながら、吐息のように言葉が零れる。
「……ソーレンさん。
貴方が本当の意味で
心を許せる相手がいること……
それは、僕にとっても安心なのです」
その声には優しさがあったが
同時に、ほとんど痛みのような陰が滲んでいた。
意味を測りかねたソーレンは
ただ不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだった。
「やれやれ……
レイチェルさんが苦労しそうですね?」
冗談めかしたその言葉を最後に
時也は裏庭を後にした。
建物の影へ姿が沈んだ瞬間
その横顔がわずかに曇る。
「……貴方には、必要なことなんです。
貴方の命の為にも──ね」
呟きは夜風に溶け、跡形もなく消えていった。
ソーレンはその言葉に気付くこともなく
ただ足元の煙草の火を見つめている。
燃え残る橙が、じりじりと消えていく。
その灯りを追いながら
胸の奥では──レイチェルの手の温度だけが
何度も再生されていた。
(なんだか……変な感じだな)
普段ならすぐに眠りにつけるのに
今日はどうにも落ち着かない。
煙草はいつの間にか根元まで焼け落ちていた。
指先に残る温もりを振り払うように
新しい煙草へ火を点ける。
しかし、吸おうとはしなかった。
ただ燃える火だけを見つめ続ける。
(⋯⋯なんで、手なんか繋ぎたがんだよ)
胸の奥で、名もない痛みが燻り続ける。
夜風が強まり
舞い上がった灰が静かに闇へと溶けていった──




