第80話 黒猫が嗤う夜
レイチェルは
マスターの言葉が静かに落ち着くのを見届けると
まるで目の前で一瞬の幻影を見たかのように
瞳を大きく見開いた。
「すごいわ……!
本当に、何もかも当たってる……」
掌で包んだグラスの冷たさが
指先の震えをそっとなぞる。
その微かな感覚ごと
胸の奥へ沈めるように彼女は息を整えた。
「私、厨房に立つこともあるけど……
香りとか、そんなに自覚なかったのに。
ねぇ、ソーレンも驚いたでしょ?」
問いかけに振り返ればソーレンは短く鼻を鳴らし
肩をわずかに竦めた。
「……まぁな。
俺らの中で一番鼻が利くのは
時也だと思ってたが──
ここのマスターも、中々のもんだ」
グラスの縁を、指がゆっくりと円を描く。
それは苛立ちではなく
思案の浅い波紋に似ていた。
マスターは、使い終えたクロスを丁寧に畳み
吟味するような静けさを瞳に宿して
言葉を置いた。
「お客様の日常を、ほんのひと雫だけ
覗かせていただいたに過ぎません。
香りも所作も、積み重ねられた歴史の名残──
それが、時に静かに語りかけてくれるのです」
その穏やかな声色に
レイチェルの口元がふっと緩む。
琥珀色の液面を覗き込みながら
小さな笑みが喉奥で弾けた。
「〝覗く〟って……ふふ!
ちょっと怖い言い方だけど、嫌いじゃないわ!
物語みたいで、どこか惹かれるわね」
「お前……そういうの、ほんと好きだよな」
呆れたように言うソーレンの横顔に
レイチェルは悪戯めいた笑みを添えて
肩を竦めた。
「だって
誰かの日常を少し覗くのって面白いでしょう?
特に──アリアさんみたいに
言葉を滅多に見せない人のとか」
アリアの名が落ちた瞬間
ソーレンの視線が一度だけ沈んだ。
影は僅かで──
すぐに彼は何事もなかったように
琥珀へ目を戻した。
「……誰のでも面白いとは限らねぇよ。
特に、あの女は──」
「それも……そうね」
レイチェルの声が静まるのと同時に
マスターが水面の静けさのような声で
言葉を継いだ。
「一杯の酒は、時に記憶を開き
時に心へ蓋をするものです。
どちらを選ぶかは──お客様の在り方次第です」
その声に押されるように
レイチェルは息を吸い、小さく笑った。
「じゃあ⋯⋯今夜は、もう少しだけ
心の扉を開けてみようかな!」
唇がグラスの縁に触れた瞬間
琥珀の熱が喉奥へ滑り落ち
胸の奥で静かに灯る。
その揺らぎに呼応するかのように
ふと目が合ったソーレンの視線が
珍しく柔らかく揺れ──照れたように逸れた。
その静かな気配を壊すことなく
マスターは無言のまま二人のグラスへ
氷をひとつずつ落としていく。
カラン──
澄んだ音が夜に弾け
くすぐったい沈黙が、ふたりを包んだ。
⸻
「──お、そろそろ帰るか」
「楽しいと、時間ってほんとに早いね!」
会計を終えると
マスターはカウンターから静かに歩み出て
深く美しい一礼を添えて二人を見送った。
「またのご来店を、心よりお待ちしております。
本日はありがとうございました」
重厚な扉が閉じるときの鈍い反響が
店内の空気にゆっくりと沈んでいく。
──その刹那。
丁寧な見送りの姿勢を保つマスターの顔から
柔らかな微笑が、ふっと剝がれ落ちた。
薄氷めいた静謐が瞳に宿り
さきほどまでの温もりを断ち切るように
研ぎ澄まされた光だけが残る。
「ソーレン……レイチェル……」
その名を呼ぶ声は
まるで古い呪文を噛み締めるように低く震えた。
「時也……」
唇がその名を紡いだ途端
胸の底に沈殿していた何かがひどく軋み
声は微かに掠れた。
「……アリア……っ」
言葉に触れた指先が、耐えるように震えた。
感情の色をどこかへ置き忘れたまま
彼はゆっくりとカウンターの裏へ手を伸ばす。
「……あぁ。
キミたちに会えて……本当に、良かったよ……」
その声音は
安堵と絶望を同じ器に注いだかのような深さを
孕んでいた。
そして──
指先が触れたのは
静かに封じられていた黒革の鞘。
その奥底に眠る、長大な大太刀の柄へ
そっと触れる。
キィ──⋯
革と刃が擦れる微かな音が
店の静寂をわずかに揺らした。
柄に触れる手つきは
失われた時間を撫でるかのように静謐で
それでいて確固たる意志を孕んでいた。
次の瞬間──
男の輪郭が蜃気楼のように揺らぎ、姿が変わる。
揺らぎの奥に現れたのは
つい先程までの
堂々たる壮年のバーテンダーではなかった。
腰まで届く艶やかな黒髪は緩く編まれ
華奢な体躯がしなやかに光を受けて動き出す。
息を呑むほど艶めいた、若き青年の姿──
その瞳だけが妖しく、冷酷無慈悲に光っていた。
アースブルーの双眸。
それが、何もかもを拒絶するように細められる。
「……次に会う時が──楽しみだねぇ」
その声には笑いも温度も無く
ただ凍り付いた静寂と
劫火から〝燃え残った〟執着だけが潜んでいた。
──直後。
カウンターの奥で
甲高い笑い声が割れるように響き渡った。
「──ッは、はは……あはははっ!!
あぁ、なんて滑稽なんだ。
嗤うしかないじゃないか……っ!」
最初はひとつの卓に届くかどうかの
小さな囁きのようだった笑いが
やがて鋭く空間を裂くほどの冴えを帯びる。
だが──
誰一人、反応を示す者はいなかった。
革張りの椅子に身を預ける男は
表情を変えずにグラスを揺らし
カウンターに肘をついた女は
琥珀の液体をゆるやかに傾けて微笑む。
奥のボックス席では数人が談笑し
ワインを口に運びながら冗談に軽く頷いている。
まるで──
嗤っている男だけが〝異なる次元〟の檻に
閉じ込められているかのようだった。
スタッフもまた、同じだった。
グラスを磨く者。
カウンターを拭く者。
ドリンクを運ぶ者。
誰一人として
嗤い声へ一瞬の注意すら向けない。
〝その声は、この世界に存在しない〟──
そう宣告されたかのように
店内にはただ静かな時間だけが、流れていく。
男の肩が小さく震える。
それが愉悦か、怒りか──もはや判別できない。
「……ふふ、ふふ……!
この愚かな茶番に、よくもまぁ……
誰一人、気付かないとは──」
嗤い声は低く長く
硝子の内側に閉じ込められたように響き続ける。
誰にも届かないまま、空気に滲み、沈んでいく。
ただひとつ
その深い蒼の眼差しだけが、静謐に研ぎ澄まされ
冷たく光り続けていた。
あたかも──
舞台の幕が上がる瞬間を待つ、役者のように。




