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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
一歩の先へ

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第79話 琥珀の誘惑

夜の帳がすでに街を覆い尽くし

街灯の光だけが、歩道を淡く縁取っていた。


その静けさの中──

ソーレンとレイチェルは並んで歩いていた。


言葉は少ない。

だが、互いの歩幅が自然に揃っていくあたり──

そこには、言葉より確かな温度があった。


ふと、ソーレンの足が止まる。


レイチェルも立ち止まり

視線を合わせたその先には──


黒地に金文字が刻まれた、ひとつの看板が

夜気に沈むように立っていた。


BAR(バー・) Schwarz(シュヴァルツ)


煌めく装飾もなく

誇示するような派手さもない。


にもかかわらず、その佇まいは

まるで夜気に潜む刃の光を思わせるように

華美を拒む黒が、寧ろその輪郭を際立たせ

一目でただの酒場ではないと告げていた。


無骨で、静謐で──

どこか格式を孕んだ影の気配。


「へぇ……なんか、良さげじゃねぇか。

少し飲んでから帰ろうぜ?」


低く投げられたソーレンの言葉は

夜の冷気に混じりながらも自然に響いた。


「えっ?今からバー?」


驚きながらもレイチェルの頬には

ささやかな弧を描く笑みが灯る。


彼が惹かれた場所──

その事実だけで、どこか特別だった。


重厚な黒い扉へ近づくと

ソーレンはゆっくり掌を押し当てた。


──ギィ


その軋む音さえ

店の静寂を乱さぬよう計算された

ひとつの〝間〟のように響いた。


扉の向こうに広がるのは──

薄明かりのランプが点々と灯り

影と光が穏やかに呼吸する、静謐な空間。


擦りガラス越しに落ちる橙の灯が

長い夜の入り口を示すように凪いでいた。


低く流れるジャズが

耳の奥でゆるやかに波紋を作る。


カウンターの奥には

磨き上げられたグラスが整然と棚に並び

その前に立っていたのは、一人の男だった。


中年か、あるいは壮年──


落ち着いた黒髪は艶を抑えて撫で付けられ

端正な白いシャツとベストの上に

燕尾のように流れるジャケット。


老舗ホテルのバーテンダーを思わせる

静かな伝統をそのまま宿したかのような

男だった。


こちらを見た男は一瞬──

ほんの一瞬だけ瞠目(どうもく)した。


だがすぐに、柔らかい微笑の曲線でそれを隠し

深さのある会釈を添えた。


「ようこそ。BAR Schwarzへ──

初めての、ご来店ですね?」


「……ああ。通りかかって、な。

ふらっと寄らせてもらった」


ソーレンのぶっきらぼうな声音にも

男は波ひとつ立てぬ穏やかさで頷いた。


「ありがとうございます。

当店には、簡単なドレスコードがございます。

本来であれば──

全身を〝黒〟で統一していただくのが

不文律のようなものなのですが……」


レイチェルの視線が、自然とソーレンへ向く。


深緑のライダースの下に黒のシャツ、

そして黒いパンツ。


レイチェルは

ソーレン愛用のライダースに合わせた

深緑のサマーニットノースリーブに

例の黒のロングスカート。


奇遇ではあるが

まるでこの店に導かれたかのような装いだった。


「今宵のお二人は

ほぼ条件を満たしておいでですので──

本日はそのままで」


「……ラッキーだったのかも?」


彼女が囁くと

ソーレンは片側の口角を上げて応じた。


「お好きなお席へどうぞ。

カウンターでも、奥のソファでも──」


「カウンターでいい」


迷うことなくソーレンが答えると

男はすっと手を差し伸べるように先導した。


その所作は、全ての無駄を削ぎ落とされた

美しさを帯びている。


重みのある椅子に腰を落ち着けると

二人は改めて店内を眺めた。


照明は暗く、だが視界は閉じられない。


席と席の距離は絶妙で

他者の存在は〝在るのに気にならない〟という

上質な孤独を保証している。


その静謐な空気には──

どこか、心の奥を

そっと覗き込まれるような気配があった。


「マスター、おすすめは?」


ソーレンの声に、男はわずかに口角を上げた。


「初めてのお客様には──〝琥珀の誘惑〟を」


「……へぇ、洒落た名だな」


「口当たりは穏やかですが

その奥に、微かな熱を秘めております。

大人の夜に相応しい──そんな一杯です」


レイチェルが、ソーレンの横で小さく笑う。


「ねぇ、私もそれにしようかな?」


「あぁ、いいんじゃねぇか。

もし合わなきゃ、俺が飲めばいい」


琥珀色の液体が

滑らかな軌道を描いてグラスに満ちる。


続いて蜂蜜色のリキュールを

細い糸のように重ねた。


バースプーンが沈黙を裂き

琥珀と紅がゆっくりと螺旋を描く。


仕上げに燻香の蒸留液を霧のように落とすと

液面に淡い影が宿り──

〝誘惑〟そのものの色が、静かに満ちた。


そして──


マスターが二人にグラスを差し出した瞬間。

ほんの僅か、二人を見つめる視線が長く滞る。


気のせいと思うほどの、微細な一瞬。

だがその一瞬が、空間の温度をひとつ沈ませる。


「お二人は……飲食店勤務の方ですか?」


不意に向けられた問いは

静かな空気にわずかな皺を落とした。


レイチェルは瞬きだけで返し

ソーレンは肩の力を抜いたまま

視線だけを男へ向ける。


カウンター越しには

淡いランプの光を受けて静かにグラスを磨く

マスターの姿がある。


その声音は穏やかで、微笑の形も崩れない。


だが──その目だけが

夜の水面のように深く澄み

何かを映し取るような光を帯びていた。


「へぇ?さすが──バーテンダーだな」


ソーレンが喉の奥で笑うと

マスターは微かに首を傾け、礼を返した。


「恐縮です。

職業柄でしょうか

人の癖や所作、それに纏う香り──

どうしても目が行ってしまうのです」


そう言いながら、磨き終えたグラスを置き

彼はまるで手触りを確かめるように言葉を紡ぐ。


その手つきは寸分の無駄もない。

そして淡く楽しげな響きを含んだ声で続けた。


「まず、指先──」


視線がレイチェルとソーレンの手元へ落ちた。


灯りに照らされた指の動きは

無意識の癖を隠しきれない。


「ナイフやトングを扱う方特有の

指の腹のわずかな硬さと

動かすときの癖が見受けられます。

指先ではなく、関節から立ち上がるように

伸ばす癖──

これは、熱い皿や鍋に触れるリスクを

減らそうとする動きでもありますね」


「えっ……!」


レイチェルが反射のように自分の指先を見る。

そこには、確かに思い当たる節があった。


マスターは続ける。


「それから──衣服に微かに残る香りです。

香水ではなく

調理の際に自然と身につく香辛料の気配。

厨房とホールが連続した

開けた造りのお店なのでしょう。

換気の流れが、その香りを衣服へ運ぶ」


「厨房の……香り、か」


「ええ。

他の方には気付かれない程度のものですが

毎日過ごす場所の痕跡は

どうしても纏われるものです」


磨いたグラスを棚へと戻しながら

マスターはさらに言葉を重ねる。


「最後に──動作です」


「動作?」


レイチェルが興味を惹かれたように、短く返す。


「はい。

グラスを取るときの重心の置き方──

〝滑り〟を想定して先に腕を安定させる。

そのため、手元の動きに揺れがない。

飲食店で長く働いた方の特徴です」


そこで彼はわずかに口元を綻ばせた。


「おそらく⋯⋯単なるホール担当ではない。

一定以上の裁量を任される立場──

そう、お見受けいたしました」


「……なるほどな」


ソーレンが低く唸るように返したその声には

僅かに警戒心が灯る。


マスターは一歩分だけ身を乗り出し

さらりと言葉を添えた。


「因みに、何処のお店ですか?」


その瞬間──

ソーレンの表情から温度が落ちた。


目の奥の光がひやりと引き絞られ

指先がグラスの縁で止まる。


「……悪ぃな。

俺は、詮索されんのは好きじゃねぇんだ」


その声音には、いつもの不遜さとは別種の

明確な境界線が引かれていた。


マスターはわずかに眉を上げ

すぐに丁寧な微笑へと戻る。


「失礼いたしました。

では、お詫びに──次の一杯は私から」


そう告げ、淡々と氷が砕かれる音が響く。


まるで先の一瞬の揺らぎすら

最初から存在しなかったかのように。


ただ、グラスの水面だけが

わずかに揺れた余韻を映していた──

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