第78話 たわいない時間
レイチェルの細い指が
そっとソーレンの腕へ絡んだ。
触れた瞬間
びくり──と微細な震えが
彼の肩から伝わってくる。
その反応は、彼がどれほど平静を装おうとも
隠しようのない〝本音〟を示していた。
スクリーンの闇では、少女が虚ろな瞳のまま
呼ばれるように一歩を踏み出し
ぬかるんだ地面に膝から沈み込んでいく。
背後には長い髪を垂らした影が
まるで深い水底から浮上するように現れ
カメラが急激に寄ると──
少女の顔は容赦なく握り潰された。
──ドンッ!
爆ぜるような音と共に
画面いっぱいに無数の手。
場内のあちこちで
小さく息が呑まれる気配が弾けた。
「っ⋯⋯くそ⋯⋯」
ソーレンがかすれた声で吐き捨てる。
横目に見る彼の表情は崩れない。
だがその足先は、ごく僅かに引けていた。
(ああ⋯⋯ほんっと、可愛い)
レイチェルは静かに内心で微笑む。
「ねぇ、ソーレン。
手⋯⋯ぎゅって、していい?」
囁くように問うと
彼は目を逸らしたまま、わずかに頷いた。
ぎこちなく絡め返してくる指。
それは強がりと照れが混じった温度をしていた。
「ちょ、っとだけ、だぞ⋯⋯」
「うん。ちょっとだけ、ね」
スクリーンでは
少女の首が不自然な角度で折れ
静寂の中、ひたり⋯⋯と水音が広がる。
だがレイチェルにはもう
その全てが遠くに霞んでいく──
どちらが劇中の音で、どちらが自分の鼓動なのか
すでに判別がつかない。
隣から伝わる体温と、微かな震え。
恐怖でも興奮でもない
その中間にある柔らかい何かが
絡めた指先から胸の奥へ染み込み
じんわりと膨らんでいく。
(ほんとに⋯⋯可愛い人)
レイチェルは、思わず笑みが零れそうになるが
唇を噛んで押し殺す。
彼のプライドを思えば、声だけは飲み込んだ。
⸻
繋がれたままの手は
もはや〝自然な在り方〟のように温かかった。
互いに気付いていながら
あえて触れようとしない
不器用な均衡がそこにある。
スクリーンは黒に沈み
エンドロールの白字が静かに流れている。
照明が少しずつ灯り始め
「ご来場ありがとうございました」という
アナウンスが、柔らかく場内を満たした。
「ふぅ〜⋯⋯!終わったぁぁぁ⋯⋯っ!」
レイチェルは胸の奥で張りつめていた緊張を
一気に解くように息を吐いた。
「おいおい⋯⋯今さら緊張ほどけてんのかよ」
「だって!めちゃくちゃ怖かったんだもん。
顔が、もう──ぐるんって!」
「⋯⋯あれはやり過ぎだ。
臓物より顔がきめぇって、どういう構成だよ」
文句を言いながらも
ソーレンの息はどこか安堵に近い。
ゆっくりと客席が流れ出し
二人も自然とその川に身を預ける。
手は──まだ、繋がれたまま。
絡んだ指の強さも熱も、先程と変わらない。
だがどちらも
その〝存在〟を指摘することはしなかった。
「⋯⋯あ、ビール、ぬるくなってる」
「あー⋯私のジュースも。
結局、飲む余裕なかったね!」
飲みかけのカップを
無言で飲み残し入れへ流し込み
ゴミ箱へ放るときも──手は離れない。
通路の明かりが濃くなり、出口の光が近づく。
「なあ、お前⋯⋯」
不意にソーレンが口を開く。
(あ⋯⋯気付いた?)
胸の奥が小さく跳ねる。
だがレイチェルは悟らせまいとするかのように
さらりと笑って、首を少し傾げた。
「ん?なに?」
「⋯⋯いや、別に⋯⋯」
言葉が途中でしぼむ。
気付いていないふりをしていた時間が長すぎて
今更それを口にすれば
〝何か〟を壊してしまう、そんな気がした。
(⋯⋯別に、嫌じゃねぇんだよな)
俯く代わりに
ソーレンは話題をふっと切り替える。
「なぁ?なんか腹減ったな。
メシでも食ってくか?」
「うん!
そうだと思って近くの店チェックしておいたの。
ね、このレストランでいい?」
レイチェルが画面を差し出すと
ソーレンは呆れたように鼻を鳴らす。
「⋯⋯ったく。抜かりねぇな、お前」
「えへへ。ね、行こ?」
引かれた手は、まだ温かい。
その温もりを互いに確かめるように
二人は寄り添って夜の街へ歩き出した──
⸻
テーブルの上では、キャンドルの炎が
静かな呼吸のように揺れていた。
落ち着いた照明が店内をやわらかく包み
その淡い橙の光はグラスの縁に反射して
細い輪郭をつくりながら
店内に流れるクラシックギターの
柔らかな旋律と溶け合って
どこか秘密めいた静けさを満たしている。
ソーレンは席に腰を下ろすと
メニューをひと通りざっと眺め
次の瞬間には、迷いなくワインリストへ
視線を滑らせていた。
「赤だな。重めのやつ──ボトルで」
「えっ、ボトルで頼むの?
飲む気満々じゃない!」
「おう。
さっきの映画で変に力入ったからな。
喉、乾いたんだよ⋯⋯」
「なるほど。ホラーって体力使うのね」
レイチェルは小さく笑いながらページをめくる。
対するソーレンは
もう前菜の欄に視線を移していた。
「生ハム、チーズの盛り合わせ、オリーブ……
アヒージョに──お、カプレーゼも頼むか」
「ちょっと待って!
それ全部〝おつまみ〟じゃん!」
「悪いかよ。ワインには、これだろ?」
「ふふっ、じゃあ私は──ラザニアにしよっと」
「なぁ、それも一口くれよ?」
「もちろん!ワインと交換条件ね?」
注がれたワインは深紅の湖のように沈み
キャンドルの灯を受けて
赤黒く液面を揺らめかせる。
ソーレンはグラスをゆっくり口元に運び
ゆるやかに一口、舌の上で転がすと
その瞳が、わずかに細められる。
「⋯⋯悪くねぇな」
「わ⋯⋯なにそれ。なんか大人っぽい!」
「何言ってやがる。俺は〝大人〟だ」
いつもの調子で返しながらも
その声音はどこか柔らかい。
「ふふ。ねぇ、ソーレン⋯⋯?」
「ん?」
レイチェルはふいに視線を伏せながら
少しだけ声を落とし
炎に照らされたエメラルドグリーンの眼差しで
そっと言葉を続ける。
「こうして一緒にご飯食べて、お酒飲んで
他愛もない話してる時間……すごく、好きかも」
ソーレンはグラスを持ったまま
横目で彼女を見る。
その瞳に浮かぶのは、いつもの険しさではなく
照れの膜を薄く張ったような、柔い光。
「⋯⋯そうかよ。
俺も──まあ……嫌いじゃねぇ」
その一言は、ぶっきらぼうに見えて
どこまでも誠実だった。
二人の間に、ふっと笑みがこぼれた。
再びグラスが傾き、深紅の液面が静かに揺れる。
酔いはまだ浅い。
しかし、心の温度だけは
キャンドルの炎のように揺らめきながらも
静かに、確かに
穏やかな静寂の中で火照っていく──
そんな、夜だった。




