第8話 硝子の中の炎
部屋の空気が、またひとつ──静かに震えた。
「おい、時也」
低く、ぶっきらぼうな声。
だがその声には
どこか人間味のある棘が混じっていた。
その声の主は、窓辺に片脚をかけたまま
薄明の月光に背を向けるようにして立っていた。
風が彼の跳ねた髪を揺らし
カーテンをふわりと踊らせる。
琥珀色の瞳が
細められながらレイチェルの方へと向けられた。
「嬢ちゃんが、目を丸くして……
今にもパンクしちまいそうだぜ?」
言いながら、顎でくいとレイチェルを示す。
──まるで
何か異国の野生動物でも指し示すかのように。
その言葉で、時也はふと我に返ったように
レイチェルに視線を戻す。
「──あっ……!」
レイチェルは、ただ茫然と座っていた。
唇は驚きに開き、瞳孔はわずかに拡がっている。
呼吸のリズムすら失い
ただ〝混乱〟という言葉が
形を成してそこにあるだけだった。
──情報が多すぎる。
感情が、追いつかない。
その無音のパニックに気付いた時也は
再び柔らかな声で呼びかけた。
「……青龍」
呼ばれたのは
部屋の隅で静かに控えていた小さな少年だった。
「アリアさんを、お連れして差し上げなさい。
くれぐれも──
野良犬の汚い手には触れさせないように。
アリアさんに雑菌なんて付いたら
堪りませんからね」
皮肉と優美さを交えた言い回しに
窓辺の男が鼻を鳴らす。
「血溜まりの掃除もできねぇダメ野郎よりかは
俺の方が綺麗好きだと思うがな!」
吐き捨てるように言うと、彼は姿勢を崩し──
そのまま、まるで水に沈むように
ゆっくりと後ろへと倒れていった。
「──きゃ……っ!」
レイチェルの喉奥で
息が引っかかったような声が漏れた。
落ちたはずの身体は
しかし──
ふわり、と風に溶けるように闇へ消えていく。
〝重力を拒絶した〟かのようなその動きは
まるで夢の一部のようだった。
「……えっ……」
レイチェルの目は
窓の外の空間に吸い込まれていた。
闇の深さは、まるで底なしの井戸。
そのどこにも、足場など存在していなかった。
(飛び降りた……?いや──飛んだの……?)
現実と理解が、乖離していく。
その異様さに呆れるように
時也が小さく溜め息を吐いた。
「……相変わらず、品の無い方ですね」
苦々しさを滲ませながら、静かに告げる。
そのやり取りを、先程
〝青龍〟と呼ばれた幼子は、ただ見上げ
小さく肩を竦めただけだった。
「……仕方ありませんな」
彼の声音は、どこか諦観と老成を帯びている。
幼い見た目とは裏腹に、深い叡智を湛えていた。
青龍は椅子に静かに座っていたアリアの元へと
歩み寄る。
その歩みは、音すら立てず
彼の纏う空気が
まるで波紋のように空間を静めていく。
「アリア様」
青龍の声は、先程よりも柔らかく
一輪の白梅のように穏やかで、凛としていた。
アリアの指先にそっと触れる。
その瞬間
まるで止まっていた機械が
再び動き出すかのように
アリアがゆっくりと顔を上げた。
深紅の瞳が、静かに青龍を見下ろす。
その瞳には、何の感情もない。
怒りも、慈しみも、悲しみも。
ただ、空虚な硝子玉のように
淡く光を湛えているだけだった。
それでも青龍は、一切動じることなく
その手を取り、彼女を椅子から静かに立たせる。
長い金髪が揺れ
月光を撥ねるように反射して煌めいた。
その姿は──まるで神像のように荘厳だった。
振り返る青龍が
レイチェルに向けて小さく頭を下げる。
「レイチェル様。
〝子供達〟が粗相をするようでしたら
どうか遠慮なく、私めをお呼びくださいませ」
その物腰は、まるで貴族の老執事。
言葉には厳しさすら帯びていたが
どこか深い敬意と情が滲んでいた。
「……あ……」
声は掠れ、喉の奥で溶けていく。
レイチェルはただ、小さく、小さく頷いた。
(……こんな幼い子に〝子供達〟って……)
そんな違和感も、もう口にする気力はなかった。
アリアは無言のまま歩き出す。
そして──
その深紅の瞳が、ふとレイチェルの瞳を捉えた。
その瞬間、時が止まったような感覚に襲われる。
まるで溶岩を硝子の中に封じたような
静謐で、破滅的なまでに美しい瞳だった。
見下ろされているだけで
なぜか、自分の心の奥にまで
踏み込まれているような気がした。
レイチェルの口がかすかに開きかけ──
しかし、言葉にはならなかった。
アリアの瞳は次に、時也へと移る。
言葉は交わさない。
だが、それだけで充分だった。
時也は穏やかな微笑を浮かべ、静かに頷いた。
アリアはそれを確認すると
再び青龍に手を引かれ
一言も発することなく、部屋を後にする。
扉が閉まった音は、なぜだかやけに重く響いた。
静寂が落ちる。
だが、次に続いたのは、時也の声だった。
「アリアさんは……
貴女のことが、とても心配なのですよ」
「……え?」
レイチェルは思わず顔を上げた。
あの無表情のアリアが──
自分を、心配していた……?
思い出すのは、あの深紅の瞳。
凍てついたはずの視線が
どうしてか、ひどく熱かった。
「でも──」
(私は
あんな事をしてしまったのに、心配なんて──⋯)
レイチェルの視線が、扉へと戻る。
「あの……
アリアさんが、私に刺されたのに
無事なのは……」
言葉が途切れがちになる。
だが、明確な疑問がそこにあった。
「それは……
さっき言ってた〝不死鳥〟のせいなんですか?」
静かな問い。
時也の表情がわずかに翳った。
「……はい」
困ったように
どこか痛みを滲ませながら、彼は答えた。
この質問が彼にとって〝一番辛いもの〟だと
レイチェルは瞬時に理解した。
「アリアさんのお身体には
不死鳥が宿っていますから⋯⋯」
その言葉を聞いた瞬間──
背中を冷たい何かが駆け上がる。
心の奥からせり上がってくる──形の無い恐怖。
(……これ……知ってる……?)
心が、体が、魂が──覚えている。
不死鳥への、この恐怖を。
前世の──記憶にさえ昇らぬ、魂の恐れ。
「彼女は不死鳥が宿る限り……
何があっても、死ねません」
「……何が、あっても……?」
「ええ」
時也は視線を落としながら、静かに語る。
「不死鳥の産まれ直しの儀式が終わり
次に女児が産まれると
不死鳥と不老不死の力はその娘に受け継がれます。
ようやく、その時に……
彼女は人として死ぬことができるのです」
「……」
「アリアさんは──
もう既に千年もの永い時を
耐えていらっしゃるのです⋯⋯」
「⋯⋯せ⋯千年──っ?」
耳が、脳が、心が、その数字を拒絶した。
千年。
人が想像するには、あまりにも永すぎる時。
それを──アリアは、孤独の中で、生きてきた。
「僕は……」
時也の声が震える。
「……彼女を、不死から解放してあげたい。
人間としての最期を──
夫として、共に迎えたいのです」
その言葉のひとつひとつが胸の奥に降り積もる。
重くて、温かくて、切なくて、深い。
──千年。
失った全ての声と共に歩み続けてきた
その足跡を想像しただけで
レイチェルの肩が震えた。
何かを飲み込むように、湯呑の中の茶から
最後の湯気が静かに立ち上り
そして──消えていった。
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青龍
イメージ画像
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