第77話 意外な反応
スクリーンにはなお
いくつもの光の断片が流れ続けていた。
広告映像が幾度も切り替わるたび
暗がりの劇場に淡い照り返しが揺らぎ
その光はまるで遠雷の前触れのように静かで
しかし落ち着かぬ明滅を繰り返している。
場内の照明は完全に落ち
空間に残されたのは、わずかな囁き声と
指先で躍るポップコーンの軽い音だけだった。
すべてが
恐怖の幕開け前の、無音の緊張を孕んでいる。
レイチェルはその中で、あくまで静かに──
姿勢を整え、膝を寄せるようにして
ゆるやかに脚を組み替えた。
微かな衣擦れの音は、言葉よりも雄弁で
闇に沈んだ座席の中で
ひどく鮮明に響くようだった。
(──ちっ)
ソーレンは反射的に視線を逸らした。
しかし、光の端に浮かび上がった形だけは
否応なく捉えてしまう。
黒のロングスカート。
深い闇に沈んだ布の裂け目。
その奥の
思いがけず露わになった素肌の白さ──
劇場の暗さは、むしろそれを隠すどころか
輪郭を際立たせるための幕となっていた。
(なんで……そんな、容赦なく開いてんだよ)
握っていたポップコーンのカップが僅かに傾き
ソーレンは咄嗟に膝で押さえる。
浅く息を吐きながら
無駄に早まる鼓動を抑えるように視線を落とす。
レイチェルは、横顔だけを見れば
まるで何事もないように前を向いていた。
微笑とも無邪気とも取れる、静かな表情。
しかし、その意識の一筋は
隣の男へと確かに向いている。
(……ふふ。気付いた、わね?)
唇の端に浮かびかける笑みを押し殺しながら
彼女は再び、ゆるやかに脚を組み直す。
わざとらしさを排した自然な動作。
だが、必ず視界の端を掠める、計算された軌跡。
自然すぎる動作ほど、視界に触れてしまう瞬間は
容赦なく鮮明に襲い来る。
「……くそっ」
低く押し殺された声。
それは周囲のざわめきに紛れるには
いささか熱を帯びすぎていた。
(あら……耳、赤くなってる?)
レイチェルは言葉にしない。
悟らせもしない。
ただ、静かな呼吸のまま
幕が上がる瞬間を待っているふうを装う。
一方のソーレンは
意識の焦点がどんどんずれていくのを
どうにも止められなかった。
「……お前、冷房、寒いだろ。
これ──掛けとけ!」
耐えかねたように深緑のライダースを脱ぐと
彼はそのままレイチェルの膝へ
落とすように置いた。
投げる、というほど粗暴ではない。
しかし優しさと気恥しさを悟らせまいとする
不器用な力がそこにはあった。
「……え?あ、ありがとね」
内心では跳ね上がるように嬉しくとも
その声はあくまで穏やかに。
膝に掛けたライダースから
彼の香水と煙草の香りが
ほのかに混じって、ふわりと立ち上る。
仕掛けた心算が──
まるで仕掛けられた気分でもあった。
未だ幕の上がらぬスクリーンの前で
鼓動だけが
すでに騒がしい予兆を帯び始めていた。
⸻
スクリーンの向こうでは
すでに血煙に満ちた〝宴〟とも呼べぬ惨劇が
静かに、しかし容赦なく展開していた。
深紅は、ただの色ではなかった。
むしろ──
闇に沈んだ劇場を照らす唯一の灯火のように
湿った艶を纏いながら
スクリーンいっぱいに広がっていく。
肉が裂ける音は
高すぎも低すぎもしない、不吉な湿度を帯びて
観客の鼓膜を叩いた。
囁き声さえ途切れ
息を飲む音が連鎖的に立ち上がる。
舞台は廃病院──
腐臭を孕む空気の中
朽ち果てた天井から落ちる粉塵さえ
蠢く生き物の気配めいていた。
カメラが廊下を這うように前進するたび
床には、千切れ落ちた四肢や臓器の肉片が転がり
壁には乾ききらぬ血飛沫が
地図のように張りついている。
無造作に裂かれて垂れ下がる白衣を
明滅する蛍光灯が断続的に照らし出し
惨景をさらに鮮烈にしていた。
どれもが異様な光沢を放ち
視界にいやでも纏わりつく生々しさで──
紛い物だと頭で解っていながらも
観る者の神経を容赦なく、ひりつかせてくる。
「……ふん。臓物は、あんな感じじゃねぇよ」
ソーレンが低く洩らした声は
妙に落ち着いていたが
眉間には僅かな影が寄っていた。
(そこにリアリティ求めても……
分かるのは、お医者さんかソーレンだけよね)
レイチェルが心中で呆れかけた、その矢先
次のシーンでソーレンの肩がかすかに揺れた。
病室に取り残された少女。
縋るように泣きながら押し続けるナースコールの
乾いたクリック音。
光が閃き、そして不意に途絶える。
禍々しいが静寂──
こちらと、あちらを包み込んだ。
唾を呑み込もうとした、その刹那。
その静寂の空白の奥──
低い、しかし確かな〝気配〟が滲み出た。
「──いやぁあッ!!」
暗い影から滑り出るように現れた
異形の女の顔が、叫びと同時に画面へ迫る。
崩れ落ちた頬。
潰れているはずの目が
むしろこちらを正確に〝捉えている〟かのような
奥行きと存在感を帯びている。
ぐにゃりと裂けながら笑う口元は
人ではありえない角度を描いていた。
劇場のあちこちで、小さな悲鳴が上がる。
その中で、ソーレンがほんの一瞬だけ
息を呑んだ音を、レイチェルは確かに聞いた。
(……今の。肩、跳ねてたわよね)
ポップコーンに伸ばした指を止めることなく
彼女は小さく笑みを噛み殺した。
映像は容赦なく進む。
泣き叫びながら自動ドアの前へ辿り着いた少女が
狂ったようにボタンを叩く。
しかし、ドアは微動だにしない。
背後の闇が、じわりと膨らむ。
──ぐちゅ……ぐちゅ……ずるっ。
濡らしたままの布を引き摺るような気配が
劇場の静寂を、恐怖への予感に侵していく。
ゆっくりとパンされたカメラが
少女の背後を映した時──そこに〝いた〟
崩れ、裂け落ちた顔。
皮膚の剥がれた腕。
指先にぶら下がる目玉が、わずかな光で揺れる。
「……チッ。やり過ぎだろ」
そう吐き捨てながらも、ソーレンの肘は
ほんの僅かにレイチェルの方へ寄っていた。
(なにそれ、かわいい──っ)
レイチェルは何も言わない。
惨劇が加速を増すスクリーンへ
ただ、表情ひとつ変えずに視線を戻す。
レイチェルにとって、最も興味深いのは――
劇場の惨劇でも、少女の悲鳴でもない。
隣に座る男の、わずかな震えだった。
その反応すら愛おしくて
言葉で触れてしまうのが惜しくなる。
〝怖いの?〟なんて尋ねてしまったら──
もうこの光景は永劫、隠されてしまうだろう。
「……お前、怖くねぇのかよ?」
隣から落ちた声は、低く、妙に慎重で
まるでそれ自体が怖気づいているようだった。
レイチェルがそっと横目を向けると
ほんの指先ひとつ分の距離まで近寄った
ソーレンの横顔があった。
レイチェルの肩が、恐怖よりも明確に跳ねる。
その琥珀の瞳が、いま映しているのは
ホラー映画ではなく──彼女自身だった。
(……びっくりした)
血の色でも、異形の姿でもなく
彼の距離の方が
はるかに心臓を跳ねさせるなんて──
だが、それを悟られのは少しだけ癪だった。
「……そりゃ、怖いわよ」
軽く肩を竦めるように言うと
ソーレンは鼻を鳴らし、小さく笑う。
「はん。
なら……俺の腕、掴んでても良いんだぜ?」
その一言に、レイチェルの眉がぴくりと動いた。
スクリーンの中では
少女が冷水のスプリンクラーに濡れながら
絶叫している。
しかし、今のレイチェルにとっては──
その隣の男の方が、よほど露骨に可愛かった。
(ああ……これ、絶対、自分が怖いんだ)
幾人ものハンターを容赦なく屠ってきた男が
〝幽霊〟には怯む。
笑ってしまいそうなほど──愛らしかった。
「……じゃあ、掴んでもいい?」
囁くように問うと、ソーレンは正面を向いたまま
無言で腕をそっと近づける。
レイチェルは、静かに指先を添えた。
硬く、温かい──
彼の体温は
スクリーンに映るどんな生者よりも現実的で
ほんの僅かに震えていた。




