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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
一歩の先へ

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第76話 始まりの期待

店休日の朝──


喫茶桜は、いつにも増して

深い静寂を湛えていた。


けれどその静けさの底には

肌の上をすべるような冷気が薄らと漂っている。


双子が来ている日の、あの独特の空気だ。

その存在だけで、空気の密度が変わる。


凛と研ぎ澄まされた冷気がリビングに流れ込み

家全体の温度をほんのわずか下げていく。


桜の霊樹さえ

細枝を震わせたかと思うほどだった。


レイチェルは、その空気を背に僅かに感じながら

自室のクローゼットの扉を開いた。


「ソーレンって⋯⋯

フリフリの可愛い系、絶対苦手よねぇ」


鏡の前で服を手に取りながら呟く声には

緊張よりも小さな期待が濃く滲んでいる。


「ふむ⋯⋯。

じゃあ今日は──大人系で攻めますか!」


半ば気合いのように呟きつつ

色味と形を見比べる。


何着か鏡にかざし、迷い、戻し、また手に取る。

そして──ようやく選ばれた一着。


黒のロングスカート。

しっとりと肌に吸いつくような布地。


脚のラインを拾いすぎず

けれど艶を帯びる絶妙な落ち着き。


腰から裾へ流れるシルエットは

静かな色気を宿していた。


ただ立っているだけでは気付かない。


しかし──座ったとき

深いスリットが静かに開き

太腿のラインが大胆に覗く。


レイチェルはそのバランスに

鏡越しにふっと笑みを落とした。


「ふふ!

映画館の暗がりで

少しでもドキッとしてくれたら──いいな」


それは自惚れではない。


ただ、今日という一日に

ほんの少し色を添えたいだけ。


緊張でも見栄でもなく

彼と過ごす特別な時間を美しく飾るための

選択だった。


身支度を整え、髪をまとめ

最後に淡いリップを滑らせた瞬間──


扉の向こうから、くぐもった声が落ちてきた。


「おーい。支度できたかよ?」


「うん! 今行くね!」


胸が軽やかに跳ねる。

レイチェルは階段をリズムよく降りていった。


リビングには

いつもの面々が静かに集っていた。


時也。

アリア。

青龍。


そして、背筋を伸ばして座る双子──

エリスとルナリア。


厳かさを感じさせる冷ややかな空気が

二人の周囲に淡く漂っていたが

その姿勢は礼儀正しく

青龍の言葉に静かに笑顔で頷いていた。


櫻塚家が揃っている──


その光景に

漂う冷気を忘れされるほど

レイチェルの胸はじんわりと温まった。


「お二人共、お気を付けて行ってらっしゃい」


時也の声はいつもの穏やかさの奥に

祝福のような柔らかさを帯びていた。


「はーい!」


レイチェルが手を振ると

ソーレンは小さく頷き、無言で玄関へ向かう。


肩を並べて喫茶 桜を後にする。


扉が閉じた瞬間、家の冷気が背後に遠ざかり

外の空気へと切り替わった。


朝の淡い光が雲を透かし

街路樹の影を長く伸ばしている。


レイチェルは横目でそっと彼を伺う。


いつもの、不機嫌そうな横顔。


けれど今日は、その顔が──

ほんのわずかに近く感じられた。


映画という小さなきっかけが、今日一日

二人の距離をひそやかに

しかし確かに縮めてくれるかもしれない。


そう思うだけで、胸の奥がふわりと熱を帯びた。



街の雑踏から

一歩だけ暗がりの世界へ足を踏み入れる。


映画館の自動ドアが

昼の熱を断ち切るようにゆっくりと開き

内側のひんやりとした空気を押し出した。


「ソーレン、ポップコーン食べる?」


ロビーへ足を踏み入れると

チケットカウンターの背後から漂う軽食の香りが

甘く小腹を刺激する。


レイチェルは小さく微笑みながら問いかけた。


「食う。……フランクフルトもいいな」


迷いのない即答。


すでに視線は、ホットケースの中で

黄金色に焼かれたフランクへ向いている。


その素直さが、なんだか少年めいて可笑しくて

レイチェルはくすりと唇を緩めた。


「ドリンクは?」


「ビール一択!」


「ふふ!楽しみね、映画始まるの。

見て、ほら!

もう怖くて、手が震えてきたんだけど!」


冗談めかして震わせた手は

笑っているのにどこか怯えの色を帯びて

瞳だけは期待にきらきらと輝いていた。


「そんな震えんなら……なんで観てぇんだよ」


呆れたようにぼやきながらも

買ったポップコーンのカップを片手で受け取る

その仕草には

どこか柔らかい温度が潜んでいた。


「怖いけど……気になっちゃって!

一人じゃ行けないけど

ソーレンとなら平気だし!」


「へいへい……そういうとこだよ、お前は」


呆れ混じりの声の奥で、わずかに口元が揺れる。


彼は次々と軽食を受け取り

大きな手でカップホルダーへ器用に差し込み

重さの偏りも、ものともせず持ち運んでみせる。


異能など必要としない、慣れた動作。


その姿に

レイチェルはそっとバッグを掛け直し

並んでチケット列へ向かった。


「こんにちは〜!

こちらでチケット拝見いたしますね!」


明るいスタッフの声にチケットを差し出すと

ピッ、と短い読み取り機の軽快な音が響いた。


「シアター3番です。

こちらの通路を真っ直ぐお進みいただいて

左手になります。

どうぞ、お楽しみください!」


返ってきた券を受け取る。


その紙片がわずかに震えたのは

レイチェルの指が

期待で温まっていたせいだろう。


通路へ入ると、柔らかな暗さが二人を包んだ。


ソーレンが先を歩く。


しかし、いつもの歩幅より心持ちゆっくりで

その無言の気遣いに気付くたび

レイチェルは密かに胸が温かくなった。


(ほんと……

言葉にはしないだけで、優しいんだから)


小さく息を吸い

シアター前の重たい扉へと向かう。


扉が開くと、冷気と闇が静かに流れ出した。


劇場内にはまだ数人ほどしか客は入っておらず

柔らかなざわめきが、空間の隅で揺れていた。


レイチェルが指定席を確認し

そっとソーレンの腕を引いた。


「……こっちだよ、あそこ」


「おう」


横並びの二席。

手摺りにはドリンク、膝にはポップコーン。

視線の先には静かなスクリーン。


その横で、今日一番見たかった横顔が

薄暗い明かりの中に浮かぶ。


気怠げな表情の奥、切れ長の琥珀の瞳は

真っ直ぐにスクリーンへ向けられ──

けれど、どこか緩やかな温度を帯びている。


(どうか……

この時間が、ゆっくり流れますように)


照明が静かに落ちていき

場内のざわめきが少しずつ溶けてゆく。


レイチェルの胸の奥では、ほのかな期待と

まだ形にならない恋心が、柔らかく灯っていた。

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