第74話 黒猫
「こんな夜更けに、女の子が二人で歩くには──
少し、危ない時間じゃないかい?」
闇を縫うように、ふと影が降り立った。
双子の進路を塞ぐようにして立つその男は
まるで夜そのものから切り出されたかのように
気配を滲ませない。
声は低く穏やかで、どこか慈愛すら帯びていた。
月明かりに浮かび上がるのは
壮年に差し掛かろうとする年頃の男の横顔。
だが、その柔和な笑みの下には
鍛え抜かれた身体と
幾度も修羅場を潜ってきた者特有の老練さが
隠し切れずに滲んでいる。
「良ければ送って行くよ。
こんな時間に君たち二人だけじゃ──
親御さんも心配するだろう?」
その声音は
いかにも通りすがりの善意の人間を
装ったものだった。
完璧に作り上げられた温かさ。
それゆえに、かえって異物感がある。
ルナリアが、感情を動かさぬまま凛と告げる。
「……お心遣い、痛み入ります」
整った礼儀正しさと共に放たれたその言葉は
しかし同時に
距離を明確に線引きするための一線でもあった。
続いてエリスが
ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべ
丁寧に頭を下げる。
「ご心配には及びませんわ。
ありがとうございます、おじさま」
双子は揃って一礼し
結んでいた手をもう一度固く握り直すと
静かに一歩だけ後ろへ下がった。
(ルナリア……)
(ええ。あの親指の付け根の〝瘤〟──
剣士、しかも相当な手練れです)
(気配の殺し方も尋常ではないし……警戒を)
男は、二人のわずかな後退にも気色ばまず
むしろ愛おしげに見つめるような仕草で
片手を上げて見せた。
「おやおや……。
怖がらせるつもりはなかったんだけど──
ごめんね?」
口調の端々に、妙な優しさが混じっている。
だが、その瞳の奥だけが
微かに冷たい光を灯した。
ルナリアが、柔らかく口元を綻ばせる。
「謝罪の言葉を述べるのでしたら──」
エリスが、くすくすと喉を鳴らしながら続ける。
「手向けてこられた刺客たちのことを
先に謝っていただけますか?」
その一言で
男の笑顔の目元が、ほんの僅かに鋭く揺らいだ。
一拍の沈黙──
表情こそ崩れぬまま
その内心に確かな驚愕の波紋が走る。
男は手を顎に添え
何かを測るように双子を見つめた。
静寂の、そのただ中で──
ふと、心に考えを浮かべてしまう。
(……この子供。勘が良いね)
その一瞬が──運の尽きだった。
「残念ですわね、おじさま」
エリスが、にこやかな声で囁く。
「貴方の声──届きました」
ルナリアはすかさず、袂から護符を取り出す。
「私たちは、貴方を──」
「「〝敵〟と見做します!!」」
双子が声を重ね、その一語を静かに突き立てる。
揺らぎのない意志が、夜気を震わせた。
しかし男は、その宣告を受けてもなお
笑みを崩すどころか、寧ろ口元を吊り上げた。
「ふふ……あぁ、ありがとう」
「……?」
「……?」
双子が同時に眉をわずかに寄せる。
「キミ達は、ボクを〝敵〟と認識した。
それだけで、もう──十分なんだよ」
「……何を──」
「──っ、逃げましょうエリス!
只者ではありません!」
ルナリアが瞬時に判断し
エリスの手を強く引く。
その動きには
もはや子供らしい逡巡は一切なかった。
だが──
「……もう、遅いよ」
男が軽く指を鳴らした。
──パチン。
その小さな音が
夜気の膜を内側から叩いた瞬間──
双子の足が、ぴたりと止まった。
まるで世界の時間だけが一拍
遅れて流れたかのような、奇妙な感覚。
風が止み、夜が凍り──
そして──
双子が、ふわりと
〝笑みを浮かべて〟男を見上げた。
「「お久しぶりですね!」」
満面の──笑み。
細めた左右異色の瞳に喜びの色を宿し
親しい人間との再会を心から喜ぶような声音で。
「ふふ……
ボクも、久しぶりに会えて嬉しいよ」
男の声もまた、穏やかな笑みを含んでいた。
「さぁ、夜道は危ない。送って行こうか?」
その言葉に、エリスとルナリアは
男の左右から、その手を繋ぎながら
にこりと微笑む。
それは、どこからどう見ても
無垢な少女の笑顔だった。
先ほどまでの警戒も、刺すような気配もなく
ただ楽しげな笑い声だけが、夜道に弾む。
三人は、まるで
自然な親子のように並んで歩いていく。
明るい声が響く、静かな夜の通り──
だが、その足音の陰には
闇が背後にぴたりと寄り添うような気配が潜み
平穏を食み破る瞬間を
音もなく待ち構えていようだった──⋯
⸻
玄関の扉を静かに閉めると
エリスはルナリアと目を合わせ
ふわりと微笑んだ。
エリスは靴を脱ぎながら
慣れた仕草で携帯を取り出す。
指先が迷いなく画面を滑り
登録されたひとつの番号へ発信する。
耳に当てるより早く──
『──もしもし!』
「わっ!
お父様ったら
こんなに早く出られるなんて珍しいですね?」
スピーカー越しの声に、エリスが小さく笑う。
ルナリアもその背に寄り添うように近づき
画面を覗き込みながら、くすりと微笑んだ。
『えぇ……
なかなか電話が無かったものですから
ずっと握りしめていましたよ』
時也の声には、深い安堵が滲んでいた。
エリスが肩を竦め、ほんの少し冗談めかす。
「ふふ!お父様は心配性ですわね?」
『当たり前でしょう⋯⋯。
帰路に、問題など──ありませんでしたか?』
わずかに硬さを帯びた声音──
しかし、それは
父が娘を案じた自然な反応に過ぎない。
エリスは一拍置き、明るい声で答えた。
「ごめんなさい、お父様!
帰り道に──
とっても可愛い〝黒猫〟がおりまして……
ルナリアと二人で
つい愛でてしまいましたの!」
「人懐っこい子で、膝にも乗ってきたんです。
夜闇みたいに艶のある
とても綺麗な毛並みでした」
ルナリアの声音もまた、柔らかで自然。
不自然な揺れも、隠しごとの影もない。
ただ──
娘たちが帰り道で少し寄り道をした
そんな夜の一場面。
電話越しの時也は穏やかに笑った。
『そうでしたか……。
可愛い猫、ですか。
それは確かに、立ち止まってしまいますね』
「本当に!
連れて帰ろうか、迷ってしまったほどですわ。
でも──兄弟猫も近くにいましたの」
「引き離すのは可哀想ですから
また会えるのを楽しみに──
そっとお別れしてきました」
『ふふ。
貴女達は、本当に優しい子ですね』
その声音の柔らかさは
心の底からの安堵を含んでいた。
「ではまた、お店がお休みの日に伺いますね!」
「お父様も、お仕事ばかりなさらず……
ご自愛くださいませ」
『楽しみにしています。
では……おやすみなさい。
僕の可愛い娘たち』
「お母様と青龍にも
よろしくお伝えください」
「「おやすみなさいませ──お父様!」」
通話が途切れる音が静かに響く。
──しかし。
その完璧に整ったやり取りが
どこか〝完璧すぎる〟と
胸の奥のどこかが微かに囁いたのは
ほんの一瞬のことだった。
疑う間もなく消えた違和感。
時也の心に残ったのは、純粋な安堵だけ。
そして双子もまた──
まったく揺らぎない静けさのまま
携帯をそっと閉じた。
二人の間に浮かぶ空気は
いつもと変わらぬ、落ち着いた家の夜の温度。
何かがあったなどと、誰も思わない。
何もなかったように語る声は
疑念をいっそう遠ざけてしまう。
まるで──
その夜の闇で起きた出来事が
初めからこの世界のどこにも
存在していなかったかのように──




