第73話 対なる氷の女神
夜の帳が静かに降り始めた頃──
夕焼けの残光はすでに空の端から退き
世界は、密やかな闇の羽衣を纏いはじめていた。
初夏とは到底思えぬ冷気が
湿り気を含んだ空気の隙間を縫い
ゆらり──と漂っていく。
ただひとつ、双子の歩む周囲だけが
別の季節を抱えたように、淡く凍える。
吐息は白く細い霧となって散り
足元の石畳には、いつしか霜の結晶が
ひっそりと浮かびはじめていた。
エリスとルナリアは、指を絡めたまま
影の深まりゆく道をゆっくりと進んでいた。
つい先ほどまで胸の奥に灯っていた
家族の温もりは、なお柔らかく残響している。
(制御が上手くなってきて──
お父様やお母様、青龍と、前より長く
一緒にいられるようになったね!ルナリア!)
言葉を交わさずとも、エリスの澄んだ声は
読心術を通じて魂の半身の間へ流れ込む。
(ええ。そうですね、エリス。
もっと陰陽師として力を磨ければ……
その先では、一緒に暮らせるかもしれませんね)
その心の対話は
街を染める夕暮れの名残を思わせるほど静謐で
優しい陰影を帯びていた。
だが、その穏やかさに
ごく微細な──〝ひずみ〟が紛れ込む。
(……ねぇ、気付いてる?ルナリア)
エリスが視線を伏せるように問いかける。
(ええ。
お店を出た時から……尾けられていますね)
喫茶桜を後にした瞬間から
途切れず続いていた粘つく悪意。
それはただの監視ではなく
明確な意図と毒を帯びた視線──
双子を狙う、温度を持たぬ影。
(お母様を狙う、不届き者かしら?)
(おそらくは。ならば──排除するだけです)
ふたりの異なる色の瞳が
静かに、しかし凍てつく星のように細められる。
手を繋いだまま、歩に乱れを見せることなく
わずかに進路を変え、脇道へと身を滑らせる。
人通りも灯りも遠のいた裏通りは
音すら凍えるような薄闇に沈んでいた。
細い路地を抜けた先に広がる空き地は
雑草が伸び放題に茂り
月光の欠片さえ
途切れ途切れにしか落ちてこない。
「……このあたりでよろしいかしら、ルナリア」
エリスが淡く振り返り、声を落とす。
「一般の方の気配は一切ありません。
ここで問題ありません、エリス」
双子はゆるやかに頷きあい
懐より護符を取り出す。
すうう──…と、風が極端に温度を失い
肌を刺すような冷たさへと変質していく。
ふたりの足元から、霜がじわりと這い広がり
石畳の上は血管のように細い氷の亀裂が走る。
エリスが微かな息を吸う。
薄紅の唇が、静謐を破るように開かれた。
「──静寂に咲き誇る、氷華の花よ……」
その声音は凛と澄み、響いた瞬間に
空気そのものの色が変わるようだった。
そこへ重なるように
ルナリアが冷ややかな祈りを紡ぐ。
「その白き輝きにて、邪を討ち払え」
「清らかなる結界、此処に成る」
「氷華の円環──結界成就」
「「急急如律令──⋯!」」
──ぶわ……ッ
地表から吹き上がる白霧のような冷気が
瞬く間に周囲を包み込む。
結晶の粒が円環を描きながら
地を這い、壁を登り、夜を侵し
その中央で──巨大な白い蕾が隆起する。
月光を浴びて透き通るその蕾は
やがて静かに膨らみ──
氷の花弁が
宝石のような煌めきを撒き散らしながら
開いていく。
その中心に立つエリスとルナリアの姿は
氷の舞台に降り立った
対なる〝氷の女神〟そのものだった。
結界内部は
ただ息をするだけで肺に凍傷を負いそうなほど
張りつめた冷気が満ちる。
空気は重く、澄み切り
沈黙は刃の光沢を帯びながら漂う。
壁に絡むように、氷華から伸びた氷の蔦が
出口を塞ぎ──迷う余地すら許さない。
逃げ道は、すでに凍りついていた。
「──さぁ、出てきてください」
ルナリアの声は静かでありながら
冷ややかな鈴のように結界の隅々まで響く。
その静謐は
逆らう気配を許さぬほどに純度が高かった。
「逃げ場は──ありませんわ」
エリスが微笑む。
その微笑みは慈愛ではなく、確信と覚悟を湛えた
〝氷の天秤〟のような微笑だった。
氷華の結界の中心──
ひりつく冷気の深奥で
幼き容姿の双子は、揺らぎの欠片すらない覚悟を
その対なる左右異色の瞳に宿していた。
月光が淡く彼女たちの背に落ち
白銀の輪郭を縁取る。
その光はまるで、これから裁かれる者を
逃がさぬための封印の印のようでもあった。
──その刹那。
細い赤い線が
ふたりの胸元、鎖骨、額へと幾重にも重なり
微かに震えながら揺らめいた。
無数のレーザーサイトの光点が
張り詰めた夜気の中で
白い霧のように揺れ続けている。
氷華の結界は静寂を孕んだまま
赤い光だけを鋭く反射し
闇に潜んだ敵意の輪郭を浮かび上がらせた。
だが、その光点は
双子の周囲に渦巻く冷気に触れ
赤い燐光を震わせながら不規則に明滅していた。
そこには──
二十をゆうに超える男の影が立ち並ぶ。
彼らの装備は、単なる重装備ではない。
低温環境下での作戦を前提とした特殊部隊仕様の
〝極低温対応タクティカルスーツ〟
外側は氷点下でも柔軟性を保つ
アラミド繊維の耐切創層
その下に液体循環式の加温プレートと
断熱エアギャップ
さらに内部には軽量な加圧式の防寒ユニット。
呼吸器は
極寒地帯で使用される全閉式サバイバルマスク。
頭部にはナイトビジョン対応ヘルメット
手には手甲まで覆う耐低温グローブ。
まるで──
南極遠征隊と軍特殊部隊が混じり合ったような
装備であった。
だが。
その中心で最も異様なのは
装備を纏った彼らではなく──
ただ小さな幼子にしか見えぬ、双子の少女。
その幼さが、かえって不気味な静寂を呼び込む。
(あらあら、まぁ⋯⋯!)
エリスが、にっこりと微笑む。
その表情は子供のそれだが
内心には冷たい花弁が、ひらりと舞った。
(ソーレンさんの重力対策──
の心算、でしょうね)
ルナリアの声が
澄んだ氷柱のように脳内へ落ちる。
(でも──
私たちが出てきた途端に、狙いを変えた……)
(⋯⋯はぁ。
見た目どおりの年齢だと思われていますね)
(本当はこの人たちよりも、ずっと歳上なのに。
ねぇ、ルナリア)
エリスの唇が小さく弧を描いた。
子供がお気に入りの遊びを
始める直前のような仕草。
だが、その瞳の奥は──
氷刃の決意に染まっていた。
アリアを狙う者は──〝徹底排除〟せよ。
それは時也と青龍が教えた
破ることの許されない、櫻塚家の鉄律。
「そんな大袈裟な装備を纏っていても──」
「私たちの氷には──」
「「意味を持ちません」」
双子の声は、氷柱の裂けるような冷たさで
路地裏の闇へ吸い込まれていく。
その瞬間
繋がれた手が、わずかに強く結ばれた。
同時に──
彼女たちの背に、左右対称の氷の翼が咲き誇る。
本来、双子が持つのは片翼ずつ。
不死鳥が胎内を通り過ぎた際に刻まれた
〝不完全な片翼〟の刻印。
だが、いま二つの翼が重なり合うとき──
夜の世界は、一気に凍りつく。
──ビシィィィッ!!
──バキバキバキッ……!!
足元から氷の蔓が奔り
地面を瞬く間に白く染め上げていく。
氷は生き物のごとく壁を這い
結界の内側を侵食し
張りつめた霜が空気ごと凍らせる。
──バリバリバリバリ……ッ!!
大地の奥底に眠る骨が軋むような音と共に
地表が隆起する。
やがて霜の奔流は一箇所に収束し
白銀の塊がうねりを上げ──
巨大な氷の蛇がその姿を現した。
鏡のように光を返す氷鱗。
凍てつく双眸。
吐息だけで視界が白く濁るほどの冷気。
《シャアアアアァァァアアアッ!!》
咆哮は地を震わせ
月明かりすら瞬きで消し飛びそうな勢いで
夜の路地を駆けた。
吐き出されたのは、青白く燃える、氷の炎。
青炎の火柱が、重装備の男たちへと襲いかかる。
「う、うわああああッ!!」
叫び声は結界の中に残響し
しかし次の瞬間には
その大半が白い霜に呑まれて消えた。
重装備は防寒用であったが
急激な超低温を帯びた冷気には無防備だった。
スーツは薄氷のように音を立てて弾け
露わになった肌は瞬時に凍り、細胞が結晶化し
触れることなく端から──砕けていく。
──バキィィィン……ッ!!
ひとりの男が肩から先を一瞬で失い、倒れると
まるで霜柱を踏み砕くような
軽やかな音だけを残して、地面で割れた。
氷蛇が次の獲物に、容赦なくその尾を振るった。
薙ぎ払われる先から、男たちは凍って砕ける。
瞬時に絡みつかれた男の身体を
冷気が内部まで侵食し
その肉体は白い彫像へと変わっていく。
「た、助け──っ!」
声は霧散し、瞳は氷で白く曇り──
次の瞬間には簡単に脆く砕ける。
血も肉も、悲鳴の残響すら残らない。
ただ、白い霜が風に舞うだけ。
「血のひと滴たりとも、残してはなりません」
ルナリアの声音は
鋼鉄を凍らせるような静謐を帯びていた。
さらに蛇がもう一人へと牙を突き立て
逃げ惑う足を呑み込むように
ずるり──と身体を持ち上げた。
「いやだ……やめろ……やめろおおおおッ!!」
懇願は氷に封じられ、胸、首、そして頭部までが
ゆっくりと飲み込まれていった。
最後の瞬間
その叫びは氷の奥深くで凍りつき
やがて、静かに砕け散っていった。
「ふふ……
お友達と長生きしたかったのなら
お母様を狙わず──
来世では真っ当に生きてくださいね?」
エリスが優しく告げる。
だがその微笑みは、春の陽光とは無縁の
白い刃のような微笑だった。
最後の男が、氷蛇に頭から呑み込まれ──
結界の内側からすべての気配が消える。
氷片が空気中で儚く舞い
路地は夢の名残のごとく白く染まりながら
不気味な静けさを取り戻した。
氷蛇は双子に身を寄せると
ふわりと光の粒へ変わり、夜空へと融けていく。
残されたのは白く凍った静寂と
誰にも触れられぬ、透明な余韻だけ。
「──さて、帰りましょうか」
「ええ。
もうずいぶん暗くなりましたし……
早く帰宅したと連絡しないと
お父様が心配してしまいます」
「お父様、電話は〝出ること〟しか
できないものね!」
護符をひらりと宙へ投げる。
──ビリリ……ッ
紙の裂ける小さな音を最後に
氷華の結界は、霧のように解けて消えた。
あれほどの惨劇が広がった場所は
何事もなかったかのような静寂へと戻る。
双子は手を繋いだまま歩き出す。
その背を追う風は冷たくも透明で
ただひとつの意思だけを宿していた。
──その歩みは、氷よりも冷たく。
──そして、炎よりも熾烈に。
揺るがぬ誓いだけが
静かに彼女たちの足跡を照らしていた。




