第71話 生きる決意
──時也様がご逝去され
そのお力の供給が絶たれたあの日より
私はこの幼子の姿を保つことすら
困難となりました。
力を失った身体は急速に崩れはじめ
包帯で爛れた肉を
無理矢理つなぎ止めるようにして──
どうにか生き延びる日々でございました。
人目を避け
変わり果てた惨憺たる身をひた隠しにしながら。
けれど、どれほど醜くなろうとも──
お嬢様方をお守りすることだけが
私に残された唯一の生きる意味であったのです。
お二人がお巣立ちになり
その背を見送った時──
私は心のどこかで悟っておりました。
己の命が、すでに尽きかけていることを。
アリア様が封じられた結晶を
時也様の墓標となった桜の傍へとお運びし
私もまたその場所で
最期を迎える覚悟を固めておりました。
あの桜は、アリア様の不死の血が染み込み
四季を問わず花を咲かせ続ける
特別な霊樹となっていたのです。
朽ちゆく身体をその根元に横たえ
私は静かに瞼を閉じました。
ひらり──
舞い落ちる花弁が頬に触れるたび
時也様とアリア様のお側に帰ったかのような
感覚がいたしました。
〝これで最期でもよい〟──⋯
そう思えるほどに
その場は安らかな気配に満ちておりました。
──ですが、その時でございます。
桜の幹から、微かに……
確かな〝鼓動〟が聴こえたのです。
──〝時也様の鼓動〟が。
最初は己の錯覚かと思いました。
しかし耳を澄ませば澄ますほど
その音ははっきりと
揺るぎなく響きはじめたのです。
どくん……どくん……と。
力強く、温かく──
命そのものがそこに宿っていると
疑いようもなく感じられるほどに。
私は震えながら桜の幹へ手を添えました。
途端に、確信が胸を突き上げました。
時也様は──
この桜の中で、今も息づいておられるのだと。
次の刹那、その鼓動に呼応するように
時也様のお力がこの身を満たしました。
温かく、優しいその力は
崩れかけた身体の傷を僅かに癒し
私は思わず目を閉じておりました。
「貴方様は……
本当に、幼少の頃から
私を驚かせてばかりでございますね……」
気づけば、頬を伝うものがございました。
それが涙であると自覚した時
私はアリア様の結晶へと視線を移したのです。
ひとつの望みが、胸に灯りました。
──もしかすると、時也様のお力が届けば。
その想いに突き動かされ
結晶を桜の根元へと、さらに近づけました。
時也様の命の鼓動が
そのままアリア様へ届けば──
あの方も、再び目を覚まされるかもしれない。
〝櫻塚家〟の皆様が
再び共に暮らせる時が訪れるかもしれない。
ただ、その未来だけを願いながら
私は結晶に触れ、深く祈り続けました。
──どうか。
どうか時也様の声が、鼓動が
アリア様へ届きますように。
──どうか、どうか再び
あの方の胸に灯火がともりますように⋯⋯
私は桜の幹に額を預け
その鼓動に包まれながら静かに瞼を閉じました。
お嬢様方が独り立ちされ
役目を終えようとしていた身では
ございましたが──
私はその時、はっきりと決意いたしました。
櫻塚家の皆様が望む未来を──
〝この目で最後まで見届ける〟と。
⸻
ただ、時也様の鼓動だけが──
確かに、この身を支えてくださっておりました。
桜の幹を伝って響く
静かにして確かな命の音──
それに縋るようにして
私はどうにか立っておりました。
そんな折でございます。
あの桜の前に──
一人の不届き者が現れたのです。
⸻
青龍の言葉に
自然と視線がソーレンへと集まった。
青龍は静かに瞼を伏せ
まるでその時の光景を眼前に呼び戻すように
さらに言葉を紡いでいく。
「あぁ……そん時の事、よく覚えてるわ」
ソーレンが、苦笑混じりに肩を竦める。
⸻
左様──
その時に現れたのが、ほかならぬこの男
ソーレンでございました。
目つきは鋭く
常に他者を寄せ付けぬ険しさを纏い
己の私利私欲以外には何一つ興味を示さぬ
さながら野良犬のような男。
それが、初めて此奴を見たときに抱いた
私の率直な印象でございます。
アリア様の存在にまつわる
一切の情報が外へ漏れぬよう
細心の注意を払っておりましたが──
私が仕損じて生き延びた者がいたのでしょう。
アリア様の涙から成る宝石に惹かれ
不死という、まやかしの生命に惑わされ
欲に目が眩んだ愚か者の一人として
現れたのだと考え
私は即座に警戒の構えを取ったのでございます。
しかし、その男は──
ただの愚者ではおりませんでした。
私は背後から仕留める好機をうかがいながら
ひとまず様子を見ることにいたしました。
すると、男はふいに
アリア様の封じられた結晶の前で膝をつき
静かに語りかけ始めたのです。
「アリア様……私は、存じ上げております。
貴女様に罪は無いことを……。
そして──心より、お慕いしております……」
その言葉を耳にした瞬間
私は思わず手を止めておりました。
荒れ果てた風貌の男が
そのように丁重な言葉でアリア様へ祈る姿。
恭しく傅くその姿が──
転生者であると断じる
決定的な切っ掛けでございました。
⸻
「ボッコボコにされた後……
前世の記憶を取り戻した俺は
お前に聞いたよな。
彼女の為に、俺ができる事はあるか?
──ってよ」
目の前のソーレンが
にやりと口角を持ち上げながら言葉を挟む。
確かに、あの時
私はその問いを耳にいたしました。
その時の私は
この男を〝何の役にも立たぬ小童〟と
心の底から見下しておりました。
何しろ、当時の私は
爛れきった身体を辛うじて繋ぎ止めている有様で
まともに力を振るうことすら
もう難しい状態であったのです。
いつ崩れ落ちてもおかしくない
まさしく風前の灯火のような命──
ゆえに、もしもの際には
せめて見張り番程度には使えるかと
私はこの男の存在を
辛うじて許したのでございました。
とはいえ──
その後のことを思い返しますと
今なお骨の髄まで疲労が蘇る心地がいたします。
幼いルナリア様、エリス様を育てるよりも
この男に礼儀作法というものを叩き込む方が
はるかに困難であったのです⋯⋯
「あ〜……未だに、これだもんね?」
レイチェルが呆れたように肩を落とす。
「……ちっ。悪かったな」
ソーレンが舌打ちしながら視線を逸らした。
⸻
私は、本当に、本当に苦労いたしました。
口を開けば荒っぽい言葉ばかり
態度は相も変わらず野良犬のように気まぐれ。
ため息をついた回数など
とうに数えきれぬほどでございます。
それでも──
私がこの男を見捨てずにいられたのは
桜から響く時也様の鼓動が
絶えず私を支えてくださっていたからに
ほかなりません。
幹を伝って届く──温かく、確かな命の音。
時也様が、確かにそこに在られる──
そう感じるだけで
私は何度でも立ち上がることができたのです。
やがて、その鼓動が
かつてないほど強く響いた日がございました。
あの日──
時也様のお身体が、桜より産まれ直したのです。
私は、まるで幻を見ているかのような心地で
朧げな視界の奥に浮かぶ
お姿を見つめておりました⋯⋯
そのお手は
かつてのように痩せ細ってはおらず
しかし、まだ息は浅く、足取りは覚束なかった。
それでも、あれは紛れもなく──
時也様のお姿でございました。
そして、醜く爛れ果てたこの身を前にしてなお
一目で私と察してくださったのです。
「……こんな姿になるまで
僕を、待っていてくださったんですか?」
その穏やかな声で紡がれたお言葉が
どれほど嬉しかったか──
そのひと言を賜った瞬間
張り詰め続けていた心が音を立ててほどけ
身体の力が尽き
崩れ落ちてしまいそうなほどでございました。
どれほど──
どれほど深く、安堵したことか。
今なお、まざまざと胸に蘇ってまいります。
⸻
「その後、アリアが自分を封印したって知って
結晶に縋り付いてメソメソしてたっけなぁ?
情けない産声だったよな」
ソーレンが、口の端を上げ
ペットボトルを傾けながら
揶揄うように笑い声を洩らす。
「そんな言い方しないのっ!」
すかさずレイチェルが声を上げ
呆れたように溜め息を吐いた。
このように、相性の悪い時也様と
不肖の弟子とをまとめるのもまた──
私にとって実に骨の折れる務めでございました。
「……青龍」
レイチェルはそっと身を寄せ
小柄な身体で青龍を抱きしめる。
「貴方は、本当に⋯⋯
この家にとって──かけがえのない存在よ!」
「……ふふ。ありがとうございます」
青龍の声は、柔らかくほどける。
「諦めずに、生きててくれてありがとうね!
青龍!」
その言葉に、青龍は珍しく
年相応の幼子にも似た微笑を浮かべた。
その笑みは
双子が初めて呼んだあの日と同じ──
優しい〝とと〟の顔であった。




