第70話 心構え
「──お嬢様方が
ただの幼子であられた頃の話でございます」
青龍の語る声は
常に遠い彼方へと延びる過去を手繰り寄せるたび
胸の奥で、わずかに震えるているようだった。
⸻
「とと、綺麗にできましたわ!」
春の陽に満ちた森の庭で
エリス様が誇らしげに
花冠を掲げて見せてくださった。
小さな掌は蒼い炎のせいで霜がつき
花冠も半ばが凍り付いておりました。
それでも──
「……ありがとうございます。
大変、美しい冠でございますね」
そう申し上げて頭に載せると
エリス様は安堵したように
微笑んでくださいました。
「とと、氷のお城です!」
今度はルナリア様が
青空の下で氷の壁を形作り
得意げに胸を張っておられた。
私がそっと触れた途端
指先は凍りつき
皮膚に微かなひびが走りました。
それでも私は微笑を崩さず
ひとこと申し上げたのです。
「見事なお造りでございますね」
その一言に
ルナリア様もまた嬉しそうに笑ってくださった。
⸻
そして──
忘却の彼方に沈めようにも
沈まぬ出来事がございました。
あれは⋯⋯私がお嬢様方を
時也様とアリア様の御許からお連れし
二百年が経とうとした頃のことでございます。
ルナリア様もエリス様も
ご両親譲りの美しさを備えながら
凛として成長されました。
されどそれもまた──
〝不死鳥の呪い〟の一端なのでございましょう。
お姿は幼い少女のままで
時がその先を許しませぬ。
年を重ねることなく
しかし、心だけは痛いほどに大人へ向かわれた。
異能も、完全ではなくとも制御の端緒を見せ
ついには
〝陰陽師の道を歩む〟と決意されるほどに
気高く育たれました。
──まことに、誇らしいお二人でございました。
私は、長き鍛錬の果てに得たその成長を
せめて、一目だけでも──
アリア様にお届けしたいと考えました。
時也様の眠る桜が満開となり
夜気に薄紅の光を揺らしていた頃でございます。
きっと、あの方の深い哀しみを
ほんの少しでも和らげられるのではないかと。
お二人の成長した姿を見せれば
再び巡り会う道が開けるのではないかと──
愚かにも、そう信じておりました。
しかし──
屋敷は影も形もなく消えておりました。
残されていたのはただひとつ
アリア様ご自身を封じた
紅の涙の結晶だけでございました。
時也様を喪われ
我が子を遠ざけられたアリア様の哀しみが
どれほど深いものだったか──
その時、私は痛切に思い知らされました。
その前で、お嬢様方は震えておられた。
「とと……お母様は?」
結晶を前に
ルナリア様の声はか細く震えておりました。
エリス様は涙に顔を濡らしながら
私の袖に縋っておられた。
私はひざまずき、静かに申し上げました。
「御母堂様は……深く〝お眠り〟でございます」
その瞬間、お二人は全てを悟られたようで
小さな身体で嗚咽し続けられました。
両親を喪うというのは
幼き魂には耐え難い傷でございます。
私はただ、その涙を受け止める腕となるほか
ありませんでした。
「……貴女たちは、生きねばなりません」
その言葉は、お二人へ向けたものと同時に──
〝私自身〟への戒めでもございました。
⸻
そこからの日々は、まさしく嵐でございました。
落ち着きつつあったお二人の力は
アリア様までもを失った絶望に揺らぎ──
再び暴走を繰り返すようになったのです。
氷嵐が吹き荒れ、蒼い炎が天を焦がし
大地は砕け、空気すら凍りつきました。
「ととっ……!!」
「助けて……とと──っ!」
私は幾度もお嬢様方を抱きかかえ
焼かれ、凍らされ、身を裂かれながらも
耐え続けました。
呼吸を奪う冷気が肺を凍らせ
皮膚が裂け、肉が剥がれようとも──
決して
お嬢様方を離すことはございませんでした。
けれど、その涙の中で叫ばれる言葉は
いつも同じでございました。
「とと……ごめんなさい……」
「ごめんなさい……っ」
あれは幼い魂が必死に生きようとする
叫びにすぎません。
私は首を横に振り、ただ申し上げるのです。
「謝ることではございません。
貴女方は──
ただ、幸せになるために在られるのです」
私はそう告げ続けました。
夜になれば、お二人は私の袖を握り
左右に寄り添って眠りにつかれました。
右にエリス様、左にルナリア様──
それはまるで
時也様とアリア様の腕の中にいた頃の
面影そのものでございました。
ある夜、ふと目を覚ますと
私の胸元にはふたつの温もりがありました。
エリス様は腕にしがみつき
ルナリア様は胸元に額を埋めて眠っておられた。
私は、そっと二人の髪を撫でました。
その感触は
二百年前と何も変わらず柔らかで──
守り抜くべき命そのものでございました。
お嬢様方のためならば──
何度でも、幾千の痛みでさえ耐え抜いてみせる。
そう誓い続けた、二百年でございました。
⸻
「ととぉ〜っ……!
ああ、青龍が居てくれて本当に良かったわね……
双子ちゃん──っ!」
レイチェルの声は涙に滲み
鼻声に掠れて震えた。
堪えきれずしゃくり上げるたび
目尻に溜まった涙が一筋──
ぽたりと膝の上に落ちる。
「うっ……ぐすっ……」
たまらず両手で顔を覆う。
しかし感情の奔流は
細い指の隙間を易々とすり抜けていく。
こみ上げる涙はとどまることを知らず
ついにレイチェルは大きく息を吸い込み
ハンカチを引き抜くと、勢いよく鼻をかんだ。
「ぷひぃっ……ぶふっ……!」
あまりにも豪快な音が
静まり返った室内に間の抜けたように響き渡る。
「おいおい……」
ソーレンが苦笑まじりに低く洩らしたが
レイチェルは構わず、なおも涙声のまま叫んだ。
「だってぇ……!
青龍、すっごく苦しかったのに……
双子ちゃん達のために、ずっと頑張って──!
その子たちが〝とと〟って……っ!
もう……もう、最高に良い話じゃないのっ!」
言葉の端々が震えて、うまく音にならない。
「……ほんとな……」
穏やかな重さを帯びたソーレンの声が落ちる。
その琥珀の瞳に涙は浮かんでいない。
それでも
遥かを見るような柔らかな光が宿っていた。
「お前は、すげぇ奴だよ……」
ぽつりと告げられたその言葉に
青龍はわずかに目を見開き
ソーレンを仰ぎ見た。
「……貴様に称賛されるとは、思わなかったな」
照れ隠しのように視線を逸らす。
その声音は
いつもの厳格さを少しだけ脱ぎ捨て
どこか柔らかく滲んでいた。
レイチェルはそっと目を伏せ
今しがた青龍が語った一つひとつの言葉を
胸の内で反芻させる。
時也の死──
その後に続いた、青龍の孤独な二百年。
想像しただけで
胸の奥がきゅうと締め付けられた。
「…………」
ようやく落ち着きかけていた涙の余韻が
再び喉元までせり上がってくる。
青龍が語った二百年は
言葉にすれば
ほんの数分に収まる出来事にすぎない。
けれど、その奥底に沈む想いの深さは
到底量り知れるものではなかった。
考えるだけで気が遠くなる。
喫茶 桜で働くようになってから
時也やアリア、そして青龍の過去を
断片的に聞く機会はあった。
だが、青龍自身にも
これほどの苦難があったとは──
そこまで思いが及んでいなかった。
「……二百年、も……」
レイチェルが掠れた声で呟く。
青龍は、その言葉にわずかに目を細めた。
「ですが──」
彼の視線は
膝の上で組んだ小さな掌へと落ちる。
「私が真に〝とと〟と呼ばれる
資格があるのかは──未だに、分かりません」
「──はぁ?なに言ってんのよ!!」
涙の名残を含んだ声のまま
レイチェルが勢いよく立ち上がった。
「青龍はねっ!
双子ちゃん達のために命懸けで向き合って
育ててくれたんでしょう?
誰が何と言おうと──
立派な〝とと〟じゃないの!!」
「……しかし……」
青龍は言葉を濁す。
「……私は、あのお二人を……
時也様とアリア様から
引き裂いてしまったのです……」
搾り出すようなその声は
どこまでも苦く沈んでいた。
胸の奥に沈殿した鉛のような後悔が
今なお彼を締め付け
心を押し潰しているかのように。
「もし……もっと良い方法があったのなら──」
膝の上で握り締められた小さな手が
震えを帯びてわずかに強くなる。
「お嬢様達が
御両親から引き裂かれることは……
なかったのかもしれません」
「……青龍」
レイチェルは静かに腰を下ろし
青龍の隣へそっと身を寄せた。
「でも、双子ちゃんは──
青龍がいてくれたから
こうして元気に育ったのよ?」
「…………」
青龍は何も答えない。
沈黙だけが、自身の自責を物語っていた。
「青龍がどんなに自分を責めても
双子ちゃん達は絶対にそうは思わないよ」
そっと伸ばされた手が
青龍の肩にそっと触れる。
「だって……〝とと〟って呼んだんでしょう?」
「……そうですね……」
青龍は小さく瞼を閉じ、ぽつりと呟いた。
その声音には、ほんのわずかではあるが
柔らかな色が戻っていた。
「時也様が……ご無事であったならば──
もっと良かったのですが……」
「うん……でもね……」
レイチェルは、涙の跡を残したまま微笑む。
「きっと時也さん、今も喜んでるよ」
「…………」
「双子ちゃんが
青龍のことを信じてくれてること。
きっと一番安心してるはずだもん」
「……時也様が……」
青龍の声が、わずかに震えた。
「……そう、でしょうか」
「そうだよ!」
レイチェルは、今度は晴れやかに笑ってみせる。
「時也さん、青龍のこと大好きじゃない!
そんなの、青龍が一番よく分かってるでしょ?」
「──ふふ……」
青龍の口元が、かすかに緩んだ。
「確かに……時也様は……
そういうお方でしたね」
その声音は、遠い日々を懐かしむように
やわらかく、静かに揺れていた。
「──は!
胸を張ってりゃいーんじゃねぇの?
お前らしくもねぇ」
ソーレンが立ち上がり
腕を組んだまま青龍を見下ろす。
「双子は、時也の子であり──
〝お前の子〟でもある。
ととで当然なんだよ」
「…………」
青龍は、ゆっくりと目を閉じた。
「……私らしくない──か」
短い一言であったが
その響きはどこか晴れやかで──
長く胸に滞っていた靄が
僅かにほどけたようでもあった。
「青龍!ねぇ、もっと話してよっ!」
弾む声でレイチェルが身を乗り出す。
目尻にはまだ涙の名残が光っているが
その表情はすでに前を向いていた。
「不死鳥をぶん殴る為にも
異能を持ってる人に
ひとりでも多く擬態できた方が良いし──
聞いておけば
こっちも心構えができるしねっ!」
レイチェルは
空に向かって何度も拳を突き上げる。
「時也の記憶見て
この間ベソかいてたとは思えねぇな?」
ソーレンのぼやきに
レイチェルは気まずそうに頬を膨らませた。
「予備知識無しは
本っ当に心に悪いってことが
よ〜く分かったからね!!」
「左様でございますか⋯⋯ならば」
青龍は静かにまぶたを伏せ
再び遠い過去へと視線を馳せるように
ゆるやかに瞼を閉じた。




