第69話 とと
静寂の室内に──息を呑む気配だけが落ちた。
レイチェルとソーレンの微かな呼吸が
張りつめた空気の中で震え
そこへ、青龍がそっと
ペットボトルを傾ける音が紛れ込む。
幼い喉が、ごくり──と鳴った。
そのわずかな動きは、言葉以上に沈痛で
彼は瞼を閉じることで
胸奥に渦巻くものを静かに押し沈めた。
「時也さん、アリアさん……
青龍も、双子ちゃん達も……苦しかったよね」
かすれるレイチェルの声が
張り詰めた空気に触れた瞬間
頬に滲んだ涙が光の筋となりかけ
彼女は慌てて手の甲でそれを拭った。
「改めて聞くと……クソがつくほどムカつくな。
不死鳥って奴はよ」
ソーレンの低い唸りは
押し殺した怒りの底から滲み上がる
獣の息吹のようで
膝の上で握りしめた拳には血が集まり
白く浮いた骨ばった節が震えていた。
「ほんとよ!
不死鳥をぶん殴らなきゃ気が済まないわっ!」
レイチェルが拳を振り上げたその姿は
弱さを押し隠した小さな戦士のようで
ソーレンは半ば呆れ
半ば感心したように息を漏らす。
「……お前、ここに来てから逞しくなったな」
涙ぐんだまま笑ったレイチェルが
鼻先をすんと鳴らして笑った。
「褒め言葉として受け取っておくわね!」
静かに場を見渡した青龍が
伏し目がちに言葉を紡ぐ。
「⋯⋯左様でございますね」
その声は、静謐にして鋭い決意を孕んでいた。
「私も同じ気持ちです。
不死鳥の首──
今度こそ縊り落としてやりましょう」
その声音は
幼子の姿に隠れた龍の本性が
一瞬だけ地を覗かせたかのようだった。
「ね、ね!
双子ちゃんとの暮らしは──どうだったの?」
レイチェルの問いかけに、青龍はふっと目を細め
過ぎ去った日々をそっと胸に手繰り寄せるように
また瞼を閉じた。
双子との暮らしは──
静寂の底に張りつめた、嵐のような日々だった。
記憶の奥から、青龍の胸中に
淡い光と冷たい影が交互に立ち上がる。
⸻
双子と共に暮らした日々──
彼らは人里を避け
風さえも息を潜めるような静寂の中で
身を寄せあって生きていた。
宿命の異能を制御する。
双子は青龍の導きに従って
陰陽術の修行に身を投じた。
陰陽術であれば
宿る絶対零度と氷の炎を
制御できるかもしれない──
青龍はそう信じた。
そして、亡き父、時也の面影を追い求めるように
双子はひたむきに術を磨いた。
「制御を……完璧にすれば」
「また……お母様と暮らせる──っ」
その願いだけが
辛辣な修行へと彼女たちを駆り立たせる
灯火だった。
不死鳥の呪いは
その小さな身体の骨の髄にまで染み込み
いつ暴れ出すか知れない刃そのもの。
けれど、制御さえ叶えば──
もう二度と引き離されずに済む。
幼い祈りと決意に、青龍は寄り添い続けた。
蒼き炎が荒れ狂う日も
凍てつく冷気が大気を裂く日も──
青龍は、決して離れなかった。
「お嬢様方……
必ず、必ずや制御できるようになります」
その言葉の裏側には、血を吐くような覚悟と
誰よりも深い愛惜が沈んでいた。
⸻
ある日──
双子は静かな森の奥で
迷い込んだらしい幼い子供と出会った。
「……大丈夫?」
ルナリアがそっと問いかけると
涙で濡れた睫毛の奥から
子供はくしゃくしゃの顔を上げ
小さく、こくりと頷いた。
「おうち……どこ……?」
途切れ途切れの声は震え
森の冷気と恐怖がまだその身を締めつけていた。
エリスとルナリアは一瞬だけ互いを見つめ
迷いながらも、その子の手をそっと握った。
冷気が漏れれば、容易く凍らせてしまう。
息を詰め、必死で押し込めながら──
森を抜けるまで
子供は二人の手を離すことを知らず
拭っても溢れてくる涙で頬を濡らし続けた。
やがて林間の開けた場所へ辿り着くと
遠くにひとりの男が
焦燥の色を湛えて探し回る姿が見えた。
「おーいっ!」
その声が風を裂いた瞬間──
子供の表情にぱっと光が満ちた。
「──ととっ!!」
弾かれたように駆け出し
その小さな体は男の腕へ飛び込んだ。
その身体を、宝物のように抱きしめ返す男の腕。
「とと……とと──っ!」
溢れ続ける涙は、恐怖がほどけた証のように
父の胸元を濡らしていった。
双子はその光景を、ただ黙って見つめていた。
父に駆け寄る子供の姿は
彼女たちが決して手に入れられずにいた
光そのものだった。
「……お父様には……もう……逢えない」
ぽつりと落としたルナリアの声は
森の静けさに吸い込まれていった。
「……でも……」
エリスがそっと息を吸い、続ける。
「青龍は……ずっと私たちを護ってくれたし……
育ててくれた……」
その言葉に、ルナリアはゆっくり頷いた。
「なら──」
「──そう呼んで、良いよね?」
二人の鳶色と深紅の左右異色の瞳が
鏡写しのように見つめあい
迷いを超えた静かな決意で満たされていった。
⸻
夕暮れの帳が降り始めた頃
青龍は僅かにも疲弊を見せずに帰宅した。
「ただいま戻りました」
静かに扉を開くと
そこには、待ち受ける双子の姿があった。
「……お帰りなさい──と、とと⋯⋯っ!」
「……とと!お帰りなさい──」
その一言で、青龍の足は止まった。
振り返るように瞬き、思わず眉を上げる。
「……え?今⋯⋯なん、と⋯⋯?」
小さなその手が、僅かに震える。
彼は、自分が聞き違いをしたのかと疑い
双子を凝視した。
「……とと!」
エリスが、今度は躊躇いなく言い直す。
「青龍は……ととは──
お父様が亡くなってからも
ずっと私たちを護って、育てて……
導いてくれました」
ルナリアも小さな声で、だが真っ直ぐに続けた。
「だから……その……
そう、呼んでみたかったのです!」
青龍は目を見開いたまま、言葉を失っていた。
返すべき言葉はいくつも浮かぶのに
喉にかかった思いが音にならない。
「……とと?」
その呼び名をもう一度向けられた瞬間
青龍はようやく──
ほんの小さな笑みを口元に宿す。
困惑と照れと
それでも隠しきれない誇らしさが滲んだ
幼子の外観には似つかわしくないほど
感情深い笑みが、そこにあった。
「……ふふ……まったく……」
泣き笑いのように頭を小さく振り、肩を竦める。
「……お嬢様方……こんな、私を……
その、ように⋯⋯呼んでくださるとは……」
「とと……」
「……うん。やっぱり青龍は、ととよ!」
双子が揃って笑った。
その微笑みは、かつて彼が見守り続けた
時也とアリアの面影と静かに重なり──
胸の奥で温かく灯り続けた。




