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紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜  作者: 佐倉井 鱓
遠きあの日

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第68話 愛という呪いを

その日──


空は重い鉛の板を打ちつけたような

分厚い雲に覆われていた。


陽の筋はどこにも差さず

風だけが庭の木々を渡り歩く。


擦れ合う葉と枝の微かな音が

かえって静寂を濃く塗り重ねるように

屋敷の外側を、途切れることなく流れていた。


その静けさは、まるで世界そのものが

ひとつの呼吸を長く止めたまま

この屋敷の行く末だけを

見つめているかのようだった。


──屋敷の奥、閉ざされた寝室。


そこで、時也は布団に身を横たえていた。


衰弱し切った身体は薄い布団の下で

かすかな痙攣のような震えを繰り返している。


頬は削り取られたかのように痩せ

肌は血の気を失い、冬の蝋のように白い。


布団の上に投げ出された腕は痛ましいほど細く

皮膚の下に走る骨ばかりが形を主張していた。


元より華奢であった身は

今や骨格だけを辛うじて布で包んだかのようで

その有様ひとつで、どれほど長く

見えぬ何かに蝕まれてきたのかを

雄弁に物語っている。


呼吸は浅く

胸は、かすかな波のように上下するばかり。


その小さな動きだけが、彼がまだ

この世界に繋ぎ止められているという事実を

細い糸のように辛うじて示していた。



「⋯⋯ひゅ⋯⋯っ、ごほっ⋯⋯」


掠れた空気が喉を擦り

濁った咳が、布団の上に零れ落ちる。


白い布に散った紅が、じわりと輪を広げた。


湿った血の色が、言葉より先に

病の深さと残された時間の少なさとを告げる。


時也は、弱々しく片手を持ち上げた。


震える指先が宙を掻くように

頼りなく、空のどこかを探している。


「⋯⋯アリア⋯さん⋯⋯」


途切れ途切れの声で、その名を呼ぶ。


この屋敷の中で

最後の最後まで、彼が守ろうとした灯火の名。


その呼び声に気づいたアリアは

音ひとつ立てぬまま寝台の傍へ進み出る。


長い裾が床を撫でるかすかな気配だけが

彼女が近づいた証となる。


次の瞬間──


彷徨っていた時也の指が見えない糸を辿るように

真っ直ぐ、アリアの方へ伸びた。


伸ばされた手を

アリアはそっと両手の中に包み込む。


氷片のように冷え切った掌を

壊れものに触れるよりもなお慎重に

指先の震えごと抱き寄せる。


「⋯⋯お前も⋯⋯

私を⋯⋯置いて、いくのか⋯⋯?」


掠れた声が、その唇から零れた。


いつもは鉄のように静かな声音に

かすかな震えが混じる。


滅多に声を発さぬ彼女が

自らの喉を震わせたその瞬間

言葉にならない何かが、静かに崩れた。


「申し訳⋯⋯ありません⋯⋯」


息を吐く度に胸が軋むような苦しさの中で

それでも彼は、微かな笑みの形を作る。


「アリアさん⋯⋯」


握られた指先は

すでに血の温度を忘れかけていた。


「────⋯っ」


アリアの瞳に、光が満ちていく。


それは、この数百年

決して外へ溢れさせることのなかったもの。


深紅の瞳の縁まで静かに満ちた雫が

やがて堰を切ったように──ひと粒零れ落ちた。


頬を伝った雫は

そっと時也の手の甲へ落ちる。


その一滴には

言葉に変えられぬ祈りと、許されぬ願いと

積み重ねた沈黙の年月が凝縮されていた。


涙の感触は、確かに温かかった。


──けれど

布団へと落ちる刹那

その温もりは光へと反転する。


雫は硬質な輝きを帯び

ひとつ、またひとつと

美しい宝石となって床へ散っていった。


小さな光の粒が

深紅の瞳から時也へと降り注ぎ

寝室の薄闇の中に

静かな星を撒くように瞬く。


「⋯⋯あぁ⋯⋯」


時也の鳶色の目が、細く細められた。


視界の端で煌めく光を追いながら

彼はゆっくりと息を吸う。


「⋯⋯本当に⋯⋯」


声にならぬ言葉が、胸の内側でほどけていく。


──私が、死の間際に見たかった光景を。

どうして、お前が先に見てしまうのだろう。


言葉にならないアリアのその想いが

時也の心に、静かに染み込んでいく。


アリアは瞳を強く伏せ

握ったままの時也の手を自らの頬へ押し当てた。


石のように冷たい指先に頬擦りしながら

その微かな震えを、皮膚で受け止める。


あたたかさを分け与えるように

自らの体温を指先の末端へと流し込むかのように


「⋯⋯僕の妻は⋯⋯

本当に⋯⋯綺麗ですね⋯⋯」


時也は、まるで長く見続けてきた夢の

一番美しい場面に辿り着いたかのように

穏やかな微笑みを浮かべた。


「⋯⋯貴女に出逢えて⋯⋯

本当に良かったと⋯⋯

心から⋯⋯思っていますよ⋯⋯」


掠れた一語一語が

喉を擦る度に、肺の奥から血の匂いが立ち上る。


それでも、その声には

悔いも怨みも残っていなかった。


アリアは一瞬だけ目を見開き

すぐに、そっと瞼を閉じる。


冷たくなり始めた彼の唇へ

自らの唇を静かに重ねた。


短く、しかし深く──


別れと祈りと誓いを

一度の口づけに重ね合わせる。


離れたくない──

死にたくない──


その言葉を喉まで押し上げたなら

きっと容易に口を突いて出るだろう。


だが、それはもはや彼女にとって

救いではなく〝呪い〟にしかならないだろう。


情けなく生に縋る願いは

互いの絶望を、より深く刻み込んでしまう。


同じ呪いをどうしても口にしてしまうのなら──


「⋯⋯アリア、さん

⋯⋯誰よりも⋯⋯愛して⋯います⋯よ⋯⋯」


今にも消え入りそうな細い声が

彼女の名を、最後の祈りのように呼ぶ。


「⋯⋯お前を⋯⋯愛している⋯⋯時也。

私の命と同じく⋯⋯永遠に⋯⋯」


もし──もし、いつか。


──転生しても、私だけを愛せ。

──私もまた、お前だけを愛そう。


声にならぬ彼女の願いが

静かな波紋のように、時也の心へと届く。


時也は、焼け付くような胸の痛みを抱えながら

ゆっくりと喉を震わせた。


「⋯⋯はい。貴女⋯だけを⋯⋯

生まれ、変わっても⋯⋯永遠に⋯⋯」


その言葉は、ふたりを繋ぐ祝福であり

同時に、決して解けぬ

〝愛という呪い〟そのものだった──


不意に──


時也の鳶色の瞳が、開け放たれた窓の向こうへと

ゆるやかに向けられた。


「⋯⋯⋯⋯」


その視線の先を、アリアも追う。


庭の彼方、薄闇に沈みゆく景色の中に

小さな三つの影が、静かに佇んでいた。


エリス。

ルナリア。


ふたりは、まだ幼子の姿のまま。


それでも、その足取りには揺らぎがなく

息を呑むほど真っ直ぐに父と母を見つめていた。


その傍らには、青龍がいた。


幼い身体を地に伏せ

小さな掌を土へ深く押し当てるようにして

額を地面に擦りつける。


子どもの肢体には不釣り合いなほど

深い礼の姿勢。


小さな背中は

押し殺した嗚咽と共に震え続けている。


それでもなお

謝罪と忠誠の形を崩さぬまま

瞼を閉じて、ただ土の冷たさを受け止めていた。


「⋯⋯青龍⋯⋯」


時也の唇の端に、ひどく優しい微笑が浮かぶ。


胸の奥では、まだ痛みが続いているはずなのに

その表情は、どこまでも穏やかだった。


視線はやがて、双子へと向かう。


小さな影ふたつが

ぎゅっと互いの手を握り締めたまま

少しも目を逸らさずにここを見つめている。


「⋯⋯ありが⋯とう⋯⋯」


風に紛れてしまいそうなほど微かな声が

唇からこぼれた。


それは春先の息吹のように儚く

しかし紛れもなく

感謝のすべてを込めたことばだった。


同時に──

彼の指先から、するりと力が抜ける。


アリアの掌の中で

支えを失った手が、静かに滑り落ちた。


「────────っ」


喉の奥で、声にならぬ叫びが弾ける。


アリアは落ちていくその手を

水を掬い上げるようにすぐさま両手で受け止め

もう一度、胸元へと強く引き寄せた。


だが──


その手の温もりは

砂が指の隙間から零れ落ちていくように

急速に失われていく。


冷気が骨へと染み渡るほどの速さで

彼の中から、生の気配が遠のいていく。


胸はわずかに上下している。

だがその呼吸には、もはや意志の色はなかった。


深く暗い水底へ沈んでいくように

意識の灯は遠ざかり──


最期の時が訪れるまで

この瞳が再び開くことはないのかもしれないと

アリアは、触れている掌の感触で悟る。


時也の唇は淡く青く

わずかに開いた口元には

苦悶の影さえ残らなかった。


そこに刻まれているのは

ただ、静かな眠りのかたちだけ。


アリアは顔を寄せ

その穏やかな口元へ、もう一度だけ

最後の口づけを落とした。


「⋯⋯愛してる⋯⋯時也⋯⋯」


夜気よりも静かで、涙よりも深い声だった。


その響きは、誰の耳にも届かぬまま

二人だけの世界に溶けていく。


アリアはゆっくりと身を起こし

庭に立つ双子へと視線を向ける。


エリスはまだ

呪いを完全に制御しきれぬ身体を震わせながら

力いっぱいに手を振っていた。


小さな唇からこぼれた白い息が

夕闇の中で、細い煙のようにほどけていく。


ルナリアもまた、震えを堪え

喉の奥で詰まる泣き声を噛み殺しながら

母へ向かって小さな腕をまっすぐ伸ばしていた。


アリアは──静かに微笑む。


紅い瞳の奥にあるものを

ふたりに悟らせまいとするように。


その微笑みには

娘たちがこれから背負う運命の痛みを

自分ひとりが引き受けるという

揺るぎない決意が、ひっそりと宿っていた。


そして、深く、ゆっくりと頭を垂れる。


遠くからでも分かるほど丁寧な、深い礼。


青龍は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ

その姿を見た途端に

また額を土へと叩きつけるように伏せ直し

何度も、何度も、深く頭を垂れて礼を返した。


やがて──


青龍は静かに立ち上がり

左右の小さな手をそっと握る。


エリスとルナリアは

その手の温もりに縋るように指を絡め

三つの影は、屋敷に背を向けて歩き出した。


幼い足取りは、数歩ごとに立ち止まり

振り返っては、屋敷の窓と

その向こうにいるはずの父と母を探す。


振り返るたびに、エリスとルナリアの瞳には

新しい涙が縁まで満ちていく。


それでも──

アリアは、一度も悲しみを見せない。


微笑みを崩さぬまま

ただ、静かにその背を見送る。


三つの影が、庭の端で闇に溶けた。



それから、しばらくして──


青龍は、自身の内に流れていた

糸のような感覚が

ふいにぷつりと途切れたことに気づく。


どれほど遠く離れても

決して消えなかった、あの主との繋がりが

深い闇の底へ沈み込むように静かに消えていく。


その瞬間、幼い喉が限界まで開かれた。


龍の咆哮が、小さな身体から迸る。


空気を震わせ、大気を裂き

屋敷の方角へ向けて、真っ直ぐに。


天の鉛色の雲をも揺るがすようなその声が

空と大地の狭間で、長く、長く

いつまでも尾を引いて木霊した──⋯

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