第7話 桜の秘密と琥珀の乱入者
湯呑を持つレイチェルの手が
小さく震えていた。
湯呑の中で湯が微かに揺れ
琥珀に近い薄緑の茶が、ほんの少しだけ波打つ。
その震えを鎮めるように
彼女はそっと唇に茶を運び、ゆっくり息を吐く。
湯気がふわりと上がり
香ばしい茶の香りが鼻腔を擽った。
その匂いだけで
どこか遠い日の安心感に包まれた気がした。
舌に触れた茶は、柔らかな渋みを残しながら
静かに喉を伝っていく。
喉を通るその温かさが
胸の奥にあった見えない結び目を
ほんの僅かに解していくようだった。
時也が語った、アリアの過去──
それは、レイチェルの想像を遥かに超える
深く、静かな絶望の物語だった。
その物語の渦中に
今まさに自分が立たされていることを
レイチェルはようやく理解した。
彼女はそっと、湯呑を持つ手を膝の上に下ろす。
そのまま、湯呑に指をかけたまま
しばらく動かせなかった。
まるで──魂ごと凍りついたように。
心の奥底で、何かが軋んだ。
それは、前世の記憶──
否。記憶というには、まだ曖昧すぎる断片。
信じていたアリアに裏切られ命を奪われた
その絶望と痛みだけが──焼き付いていた。
ナイフを振り下ろした時、鮮やかに蘇った感情。
悲しみ。
苦しみ。
憎しみ。
憤り。
それらは確かに
今の自分のものではないはずなのに──
まるで
己がその劫火に焼かれた当人であるかのように
熱く、息もできない苦しさが
鮮明に刻まれて胸を締めつけていた。
「……時也さん」
静かに、震える声でレイチェルは口を開いた。
言葉を紡ぐのに、少しの勇気が必要だった。
「私にも……
あなた方のお手伝いをさせてください──っ!」
震える声は、叫びにも近いほど切実だった。
「……いえ、させてくださいじゃなくて
しなきゃいけないんです!
私の……持ってる力は──っ!」
その言葉の奥には
明確な〝罪〟の意識があった。
何かを贖うように、何かに応えるように。
その焦燥が
自責の念となって彼女の声を強く押し出した。
俯いたまま、湯呑を握る手に力が入る。
──すると。
「存じ上げております」
柔らかな声音が、思いのほか早く返ってきた。
「……え?」
顔を上げたレイチェルの視線と
時也の鳶色の瞳が静かに交錯する。
その目は、すべてを見通しているような──
優しさに満ちていた。
「貴女の力は……そのお姿を変えられること」
「……な、なんで……知って……」
驚愕が喉を突いて、思わず声が掠れて裏返る。
──そう。
誰にも明かしたことは、なかった。
変化し続ける容姿。
忘れてしまった〝本当の顔と姿〟
本当の〝自分〟が存在しないような錯覚。
誰にも理解されなかった──異能。
「僕は思うんです。
きっとその力で、前世の貴女は……
人間の脅威から
魔女たちを護ってきたのでしょうね」
「……え……?」
時也の言葉は、凪のようだった。
静かに、けれど否応なく胸に染み入っていく。
だが、思考がまだ追いつかない──
擬態の力が〝護る〟ものだったなんて
考えたこともなかった。
この力は呪いだと思っていた。
誰にも本当の自分を見せられず
何者にもなれず、何処にも居場所が無かった。
それなのに──
「……護る為の、力……」
その一言が、胸の奥にそっと静かに落ちる。
「例えば僕でしたら
上位の人間に擬態して──撤退を指示しますよ」
さらに続ける時也の言葉に
長く張り付いていた黒い染みが
音もなく溶けていくようだった。
──もしかしたら、自分は⋯⋯
今世でも
誰かを守る為に生まれてきたのかもしれない。
「──っ、ありがとうございます⋯⋯」
ぽつりと漏れた言葉は
涙のように静かで、柔らかかった。
だが──
「……でも……」
レイチェルはふと、視線を落とした。
心の奥で、ずっと引っかかっていた──あの紙。
『あなたの仲間は近くにいる』
喫茶桜で
ソーサーの下に挟まれていた一枚の紙片。
噂通りに、店内で願っただけ⋯⋯
声など発していない。
それなのに、何故──
「……時也さん。
もしかして……あなたは──」
問いかけようとした、その刹那。
「……はい」
時也は微笑を湛えたまま、静かに頷いた。
「お察しの通り、僕には──
人の〝心が読めます〟」
「……っ!」
一瞬にして言葉を失った。
見透かされていた。
孤独も、恐れも、希望も──
すべて、黙っていても彼には伝わっていた。
「僕はこうして
悩みを拾い、解決し、噂を流し……
孤独に迷う、魔女の魂を宿した方々を導いて
この喫茶桜に集めているのです」
「……噂を?」
「ええ。〝悩みが解決する店〟──
喫茶桜に来る人がスペシャルドリンクを注文し
店内で強く願った時⋯⋯
僕はその心の想いに耳を傾けているのです」
(……店内の──
あの不自然なまでの防音構造は……)
喫茶店に似つかわしくないほどの密閉感。
──そう。
店内にいる人間の心の声を、より正確に拾う為の
彼の能力のための空間だったのだ。
レイチェルの背筋が、ぞくりと震えた。
「……ごめんなさい。
怖がらせてしまいましたね」
そう言って、時也の手が穏やかな声と共に
もう一度そっとレイチェルの背を撫でる。
それは
まるで迷子をあやす親のように、優しかった。
「僕はただ⋯⋯
アリアさんを助けたいだけなんです」
その言葉は
微笑と共に口にされたにもかかわらず
何処か、寂しさを孕んでいた。
そのとき──
「はっ──!」
突然、皮肉を含んだ低い笑い声が部屋に響いた。
カーテンが大きく揺れる。
次の瞬間、音もなく窓が開き
ふわりと一陣の風が吹き込んだ。
そして──
月明かりを背に影が一つ、部屋に滑り込んだ。
その姿に、レイチェルは目を見開いた。
──あの男。
喫茶のウェイター。
癖のある、ダークブラウンの髪。
琥珀色の瞳を鋭く細め
まるで夜風と共に現れた、野獣のようだった。
「よく言うなぁ……時也?」
その声音は、皮肉を帯びた軽口。
窓の縁に片足を掛け
もう一方の足は、虚空にあるはずの場所で
しっかりと支えられている。
まるで──そこに床でもあるかのように。
背後では風に舞うカーテンが揺れ
月が仄かに照らしている。
窓の外は、明らかに地上から高い位置──
(……こんな、高さから⋯⋯外から──!?)
現実味のない光景に
思考が追い付かず、言葉も出ない。
「まだ嬢ちゃんが──
記念すべき〝第一号〟だろうが?」
男は口角を吊り上げ、皮肉げな笑みを見せた。
「貴方……
女性の部屋に入るときは
ノックと、お伺いを立てるくらい
してくださいませんか?」
時也の声に、僅かな溜め息が混じる。
「礼儀の躾直しが──必要ですね?」
それに対し、男は気怠げに手を振りながら
さも面倒くさそうに応じる。
「どーせ俺は
躾もなってねぇ〝野良犬様〟ですよっと」
その軽薄な言葉の端々には
微かに不機嫌さが滲んでいた。
「店の血溜まり、掃除終わったから──
アリアと青龍を迎えに来てやったぜ」
その一言に──レイチェルの呼吸が止まった。
──血溜まり。
その言葉が、記憶を再び生々しく呼び戻す。
彼のウェイター服の端には
まだ赤黒く染みついた血の痕が残っていた。
すでに乾いて黒ずみ
部屋に僅かな鉄の匂いを漂わせていた。
(──っ、やっぱり……)
夢では、なかった。
掌に蘇る感触。
刃の沈む嫌な重み。
血の温度。
そして──アリアの表情。
「……私、本当に……彼女を刺してた……」
レイチェルは喉の奥で、苦しげに声を飲み込む。
目の前の男の服に残る血は
その残酷な現実を──
無情なまでに、彼女に突きつけていた。




