第67話 呪いの顕現
丘の上の屋敷──
春の陽気に包まれた庭は
鮮やかな花々が咲き誇り
柔らかな日差しが降り注いでいた。
「お父様!見てください!」
「お母様!お花がいっぱいですよ!」
三歳を迎えた幼い双子の声が
澄んだ空気を弾むように駆け抜けていく。
エリスとルナリアは
無邪気な笑い声を撒き散らしながら
庭を駆け回っていた。
ルナリアは小さな手を伸ばして
花びらを掬うように撫で
エリスはひらひらと舞う蝶を追いかけて
草の中を跳ねるように走る。
二人が出逢った桜の木陰──
時也とアリアが寄り添うように腰を下ろし
その姿を静かに見守っていた。
「……楽しそうですね」
穏やかな微笑を浮かべ
時也は隣に座るアリアへと、そっと声を掛ける。
アリアはいつものように言葉を発さず
ただ双子の姿だけを、じっと見つめていた。
その瞳の奥には
言葉にならぬほどの愛しさと
微かな不安が揺れているようにも見えた。
しかし──
その平穏は
次の瞬間、音もなく崩れ始めた。
──空気が変わった。
「……?」
肌に触れる空気の違和感に
時也はわずかに眉を寄せる。
春の陽気に満ちていたはずの庭の一角
双子の周囲だけが──
ゆっくりと温度を失いはじめていた。
「……おかしい、ですね」
春の柔らかさには似つかわしくない冷気が
じわりと双子の周りに集まり
見えない膜のように空間を囲んでいく。
「……アリアさん」
呼び掛けるより早く
アリアはすでに立ち上がっていた。
深紅の瞳は双子を鋭く見据え
その表情からは
先ほどまでの柔らかな気配が消えている。
──それは、始まりだった。
「お父様っ!」
「お母様……!」
弾む声が、一瞬で悲鳴へと変わる。
「「助けてぇ──っ!!」」
次の瞬間、ルナリアの足元から
草花が一斉に白く染まり始めた。
淡い桜色の花弁は
みるみるうちに霜を纏い、色褪せ
葉先には細かな氷の粒が
幾重にも張り付いていく──
霜が走る音さえ聞こえそうなほどの速度で
庭の一部が静かに凍てつき始めた。
その傍らで
エリスの幼い身体を、蒼い炎が包み込んだ。
だが──その炎は〝熱を持たない〟
立ち昇る蒼い揺らめきは
周囲の温度をさらに奪い去り
氷の結晶を広げていく冷気そのものだった。
不死鳥が与えた〝呪い〟が──牙を剥いた。
「エリスさん!ルナリアさん!」
時也は素早く身を翻し、叫びながら駆け出した。
その背後で、アリアも無言のまま双子へと走る。
「待っててください……っ!今──!」
氷が広がる地面を踏みしめながら
必死に双子へ向けて手を伸ばす。
──だが、次の瞬間。
バキッ──!
「……っ!?」
足元から瞬く間に氷が噴き上がり
地面一面を覆い尽くしていく。
時也の足は、氷に縫い付けられたように
その場へ固定された。
「くっ──!」
足を引き抜こうと力を込めるたび
氷は逆に締めつけを強め
足首を噛み砕かんばかりに絡みついてくる。
時也は奥歯を噛み締め
氷を破るように植物の根を顕現させた。
自らの足に傷がつくことすら厭わず
根を槍のように突き立てて氷を穿つ。
やがて、足首に張り付いた氷を
無理やり引き剥がすことに成功するが
なお氷片が肌に残り
刺すような冷たさが脛を痺れさせていた。
そのまま双子の方へ蔓や根を伸ばそうとするも
顕現した瞬間に、すべてが凍り付いていく──
瑞々しいはずの緑が、瞬く間に白く変色し
脆く砕けて朽ち落ちていった。
「お父様ぁっ!」
「お母様っ!」
泣き叫ぶ双子の声が、胸を刃のように抉る。
アリアもまた紅蓮の炎を解き放ち
自らの身体を包み込む
冷気と氷を焼き払おうとするが──
しかし〝彼女の炎ですら〟
氷は悲鳴を上げるどころか
じわじわと凍気で押し戻していく。
(アリアさんの、炎が──押し負けた!?)
否応なく知らされる〝相性の悪さ〟が
時也の心をさらに冷たく突き刺す。
アリアの身体は、膝から順に凍り付けられ
やがて横たわるその身のほとんどが
氷の殻に閉じ込められていく。
「アリアさんっ!」
叫ぶ声に、氷越しの深紅が強く燃える。
〝構うな──行けっ!〟
声はない。
それでもその視線は、言葉よりも強く
〝双子を優先しろ〟と訴えていた。
時也は足の自由が利かぬまま、両腕を地面へ突き
身を引き摺るようにして前方へ這い進む。
「くそっ──!」
凍りついた地面は
氷の刃を敷き詰めたように冷たく硬い。
掌は擦り切れ、皮膚が裂けて血が滲み
それすらもすぐに凍り付いていく。
それでも、時也は前進を止めなかった。
「エリスさん……ルナリアさん……っ!」
声は震え
吐く息は白く凍り、空気の中に溶けずに留まる。
呼吸をするたび肺が軋み
胸の奥に冷たい痛みが広がっていった。
それでもなお、彼は懸命に腕を伸ばし続ける。
「……父が、今──助けます……っ!」
指先が、紅く染まっていた。
凍てついた氷に触れ続けたせいで
指先の感覚はほとんど失われ
割れた爪の間から血が滲む。
その血さえも、触れた端から凍り付いていく。
それでも、彼は決して手を止めなかった。
「くそっ……!動け……動いてくれ……っ!」
心の深いところで、不死鳥の嗤う声が木霊する。
──もっと、もっと絶望せよ。と。
「──っ、させるか……!」
氷は太腿へと這い上がり
膝から下の感覚は──完全に無い。
それでも時也は
前へ進むことだけを選び続けた。
「エリス……ルナリア──っ!」
涙で滲んだ視界の先
双子が凍りつくような瞳で
こちらへ向けて助けを求めているのが見えた。
「直ぐ……行きますから……っ!」
声は掠れ、それでも必死に氷を押し退けるように
手を突き出す。
凍り付いた手を
最後の力を振り絞って前へ押し出した。
割れた指先から滴る血は
地面に落ちると瞬時に凍り付き
紅の氷片となって道筋を刻んでいく。
赤い痕を残しながら
それでも──前へ。前へ。
「……がんばれ……動け……っ……!」
自らを奮い立たせるように
震える声で絞り出す。
目の前に──
もうすぐ、双子の小さな手が届きそうだった。
「……あと、少し……っ」
かろうじて動く指先が
ルナリアの手元へと伸びていく。
「……届く──!」
だが、その瞬間──
ザクッ
伸ばした指先が、双子の冷気に先に触れ──
鋭い氷の棘となって、その手を貫いた。
「……ぐ、ぁっ──!」
激しい痛みに貫かれ
流れる血の温かさすらも感じないほどに
指先の感覚が完全に途絶える。
動かそうとしても
氷に縫い付けられたように微動だにしなかった。
「──くそぉっ……!」
それでもなお
もう片方の手を無理やり前へと
突き出そうとした、その時──
「──お嬢様っ!!」
鋭く通る声が、凍てついた空気を裂く。
青龍が、風を切るような速度で
双子の傍へ飛び込んでいた。
小さな身体で、エリスとルナリアを抱き寄せ
震える肩を包み込むように抱きしめる。
水と風を司る青龍の身には
まだ氷に抗うだけの耐性が残されているらしい。
「……大丈夫です。
大丈夫ですからね──っ!」
何度も何度も、子守唄に似た声色で呼びかける。
青龍の腕の中で
エリスとルナリアの嗚咽は次第に弱まり
やがて、蒼い炎は静かにその揺らめきを失い──
凍てついた冷気も少しずつ薄れていった。
巻き付いていた氷が解け落ちるように砕け
時也の手足を縛っていた冷たさも
徐々に感覚を手放していく。
「──はぁ……はぁ……っ」
時也はその場に崩れ落ち
痺れの残る指で
地面を掻き毟るように押さえた。
「……良かった──っ!」
安堵にも似た吐息が零れ
それと同時に、時也の瞳から静かな涙が一筋
頬を伝い落ちていった。
⸻
その夜──
月は厚い雲の向こうに隠れ
世界そのものが闇に沈んだかのように
屋敷の外も内も、深い静寂に支配されていた。
寝所の闇の中──
青龍はゆっくりと上体を起こした。
隣室からは
時也とアリアの静かな寝息が微かに届いている。
ふたりとも、心身の疲労に打ちのめされ
深い眠りの底へと沈んでいた。
青龍は、扉の隙間から
そっと時也の顔を覗き込む。
血の気を失ったその横顔は痛々しく
その表情には憔悴の色が濃く刻まれていた。
布団の上に投げ出された手は
凍傷でズタズタに裂け、包帯の下から
赤黒い滲みが覗いている。
「……時也様⋯⋯」
誰にも届かぬほどの小さな声を落とし
青龍はその小さな身体を翻した。
双子の眠る部屋へと
足音ひとつ立てぬよう歩みを進める。
月明かりすら届かぬ闇の中
エリスとルナリアは、寄り添い眠っていた。
布団から覗く幼い頬はあどけなく
静かな寝息はあまりに無防備で、儚い。
それは、いつかの──時也と雪音を想起させた。
青龍は、布団の縁に膝をつき
ふたりの小さな手に、そっと自らの掌を重ねる。
「……お嬢様方」
囁くような呼びかけと共に
青龍は双子を胸元へと抱き寄せた。
「⋯⋯申し訳、ございません」
胸に抱いた温もりを確かめるように
両腕に力を込め──
そのまま静かに部屋を後にする。
踏みしめる足音すら
大気に溶かすように息を殺し
青龍は廊下を抜け
闇の帳に包まれた屋敷の外へ向かった。
「出過ぎた真似を⋯⋯どうか、お許しください。
時也様⋯⋯アリア様──」
呟きは夜気に吸い込まれ、青龍と双子の姿は
やがて闇の中へと溶けていった。
⸻
名を──呼ばれた気がした。
「……青龍?」
時也は、薄闇の中でゆっくりと目を開けた。
室内は異様なほど静かで
眠りから覚めきらぬ意識に
どこか張り詰めた空気だけがまとわりつく。
「青龍⋯⋯!」
寝ぼけた声で呼びかけるも、返事はない。
ふと、胸の奥をざわりと不安が撫でた。
「まさか──」
瞬時に眠気が吹き飛び、時也は跳ね起きると
痛む身体を顧みずに双子の部屋へ駆け込んだ。
「……エリスさん?ルナリアさん?」
乱れた布団だけが残され
そこにあるはずの小さな姿は──
どこにも見当たらなかった。
「……い、ない……」
目の奥から
血の気がするすると引いていくのを感じる。
「……青龍──お前、が⋯⋯?」
名前を呼んだ途端
膝から力が抜け、床に崩れ落ちる。
床に拳を打ちつけ
喉の奥から掠れた声が漏れた。
「……くそ……っ!」
静まり返った闇の中
時也は自らの不甲斐なさを
噛みしめるしかなかった。
「……青龍──っ!」
押し殺した叫びが、ふと青龍の心へと届く。
──それは
主と式神の間に結ばれた、意志の糸であった。
「──青龍……何を、している……っ」
時也の心の声には
怒りと悲しみと
どうしようもない不安が入り混じっていた。
その声に──青龍が応じる。
《時也様……申し訳ございません》
「どこに、いるんです……っ!」
掠れた声で問いただす。
《……私が、お嬢様方をお守りいたします》
「青龍……」
《時也様とアリア様と……
お嬢様方が、共に在ることは
今は──叶いませぬ……》
「駄目だ、青龍……戻ってこい……っ!」
必死の制止を、青龍の声が静かに退ける。
《……できませぬ》
その一言と共に
青龍の心象が、奔流のように時也へ流れ込んだ。
不死鳥の意思が──双子に与えた〝異能〟
アリアと時也──〝炎〟と〝植物〟
その正反対の異能を双子に宿らせることで
親子が共に生きる道そのものを
不死鳥は阻もうとしている。
「──そ、んな……」
時也の胸が軋む。
青龍の声が、苦しげに続く。
《……共にあれば、いずれアリア様も
そして時也様……貴方様の心の臓までも──
さらに氷に蝕まれてしまいます……》
言葉の先は
喉を締め付けられたように途切れた。
「……だから、お前は──」
《私は、貴方様に⋯⋯
どんな形であれ──生きていて、欲しいのです。
初めて、命に背く事を……
どうか。どうか⋯⋯お許しください》
時也は、抗うように拳を握りしめ
やがて膝をついて頭を垂れた。
自分が──もっと強ければ。
自分が──もっと早く
〝不死鳥の思惑に気付くことができていれば〟
「……すみません……アリアさん……っ」
床に擦りつけるほど深く頭を下げながら
かすれた声で呟く。
「……俺が……
不甲斐ない……ばかりに──っ!」
静まり返った部屋の中
床に押し付けられた額から
じわりと血が滲んでいく。
(……俺が、もっと……俺がぁ……っ!!)
拳を震わせながら、時也は心の奥底で叫んだ。
「不死鳥ぉ──⋯っ!」
声は震え、怒りが胸の内側を焼き焦がす。
「どれだけ……
どれだけ、アリアさんを苦しめたら──」
言葉は次第に怒涛のように溢れ
怒りと悔しさに満ちた咆哮へと変わっていく。
「お前は、気が済むのか……っ!!」
握りしめた拳が
床を突き破らんばかりの勢いで叩きつけられた。
拳の皮膚は裂け、滲んだ血が木目に散る。
──今、娘たちは青龍と共にある。
青龍ならば、きっと命に代えても守るだろう。
だが、時也の胸を焼いているのは
娘たちの無事に対する祈りだけではなかった。
「……アリアさん……っ!」
この現実を彼女が知ったとき──
その心は、どれほど深く沈むだろう。
──その絶望こそが、不死鳥の糧となる。
「……くそ……くそっ──!」
噛み締めた歯の隙間から
どうしようもない悔しさが漏れ出し
胸の奥を締め付ける痛みは増していく。
その痛みが、ただの胸苦しさなのか
心臓を蝕む不死鳥の〝呪い〟なのか──
今の時也には
もはや、それを見分ける術はなかった。




