第66話 その名に馳せる想いは
胸の奥深くに沈む鉛は、ゆっくりと沈殿しながら
なお重さを増していくようだった。
アリアも──
そして生まれたばかりの娘たちでさえも──
不死鳥の呪いという名の鎖から逃れられぬのか。
その残酷さに
時也は呼吸の仕方すら忘れそうになった。
(⋯⋯なんて、ことだ)
否定の言葉は、喉元まで迫り上がりながら
必ず途中で形を失った。
アリアの胸奥を震わせる〝不死鳥〟の嗤いが
自分の耳奥にまで耳障りに滲み込むせいだ。
《クク⋯⋯ギギャギャ⋯⋯》
冷ややかにひび割れたその声は
鼓膜を指先で抉るような
不快な音色を孕んでいた。
胸の奥が、その震えに呼応するように軋む。
「⋯⋯っ」
時也は目を伏せ、こめかみに触れた。
押さえた指先には、自らの鼓動が鈍く伝わる。
痛みは刃ではなく、重石のようだった。
押し潰すような苦しさが
胸骨の裏にじわじわと広がっている。
(⋯⋯これも、不死鳥の仕業なのか)
微かな予感が、脳裏を掠める。
不死鳥はアリアの絶望を糧にする。
ならば──
最も確実な絶望とは
〝彼女が最も愛する者を失うこと〟
時也が倒れれば、アリアはどれほど嘆くだろう。
その想像が、不死鳥にとって
〝狙う価値〟を持つのは──
決して穿った推測ではなかった。
あの存在がそう目論んでいたとしても
不自然ではない。
だが──
今だけは
彼女に悟らせるわけには、いかなかった。
アリアは今、ようやく産声を上げた娘たちが
〝呪われた〟と思い知らされたばかりだ。
彼女の心に
これ以上影を落とすことなど許されない。
その影が
呪縛の炎を濃くするのであればなおさらだ。
──恐怖を、見せるな。
自らの胸に広がるこの痛みを
〝ただの疲労〟と錯覚させるほどに
薄い笑みを張り付け、時也はアリアを見つめた。
「アリアさん……どうか、今は休んでください」
アリアは反応を示さなかった。
項垂れるように座り込み
わずかに揺れる睫毛だけが
彼女がまだ壊れていないことを
辛うじて示していた。
時也はそっとその手に触れ、冷えた指を包む。
指を絡める仕草は柔らかいが
内に潜む緊張は、息を潜めた刃のようだった。
「焦っても、何も変えられませんよ。⋯⋯ね?」
声は小さく、落ち着いた調べを保っている。
ただしその裏側には
ぎりぎりで保たれた均衡があった。
「⋯⋯落ち着く香でも、焚きましょう」
アリアの肩をそっと押し、横たわるよう促すと
彼女は抵抗も見せず、静かに身を預けた。
その黄金の睫毛がかすかに震え
唇がひどく弱々しく動いた。
「⋯⋯時也⋯⋯」
その声は淡い霧が溶けるように儚く
触れれば消えてしまいそうな
透明さを帯びていた。
「大丈夫です。僕がいます」
掌で髪を掬い、静かに撫でる。
それだけで
アリアは薄く震える呼吸をわずかに沈めていく。
⸻
時也は双子の産着を整えた。
薄布の皺を指先で伸ばすたび
温かな命のかすかな鼓動が
掌に、胸に、そっと染み込んでくる。
赤子たちは浅く柔らかな呼吸を繰り返し
ちゅくりと唇を動かしていた。
光の少ない静謐な空気に
その小さな生命だけが確かな温度を刻む。
「⋯⋯アリアさんが、命を賭して守った命です」
そう呟きながら、彼は二人を抱き上げる。
まるで世界で最も脆く
尊い宝を抱くような手つきだった。
「さぁ。向こうで──
父が、貴女たちに名を差し上げましょう」
名は祝福であり、祈りであり
呪いを断つための、最初の盾であってほしい。
(どうか、その名が──
この子たちを護りますように)
その願いを胸に、時也は静かに立ち上がる。
「青龍」
「はい」
どこか沈痛な──
だが、いつもの威厳を保った声が応じ
部屋の扉を開いた。
時也は一度だけ、眠りに落ちゆくアリアへ
穏やかで揺らがぬ微笑を残す。
その背に、彼女の薄く細い息づかいが
遠い羽音のように、かすかに触れた。
⸻
廊下に出ると
時也は胸の奥で固く堪えていたものを
ようやく解き放つように息を吐いた。
「──はぁ⋯⋯っ」
吐息に紛れるように
胸の痛みがじくりと顔を出す。
焼け焦げた鉄片が
心臓の裏に押し込まれているかのような
鈍い疼きが
じわじわと身体の内側を侵していた。
(⋯⋯このまま
僕が、どうにかなってしまったら──)
思考がそこまで滑りかけた瞬間
腕の中の双子の温もりが
静かに、しかし確かに胸へと染み込んでくる。
小さな身体から伝わる熱が、ひどく頼りなく
それでいて絶対に手放せない重量を持っていた。
(⋯⋯だめだ)
胸の内で短く自らを叱咤する。
「アリアさんを、娘を──
僕が、守らないと⋯⋯っ!」
言葉と同時に、時也は双子を抱く腕に
もう一段階強く力を込めた。
その小さな体温を
自らの鼓動に縫いとめるように。
不死鳥が仕組んだ哀しみと絶望そのものに
真正面から立ち向かう覚悟を、静かに固めた。
──この小さな命と共に。
そう定めた決意が、背筋に静かに通っていく。
「⋯⋯時也様」
隣からかけられた青龍の声は
かすかに震えていた。
張り詰めた悲痛の響きが
細い幼子の喉を揺らしている。
廊下を並んで歩きながら
青龍は前を行く時也の背中を見つめ
小さな拳を固く握りしめていた。
「⋯⋯何をしているのですか。
そんな顔をして⋯⋯」
問われて、青龍は顔を上げた。
そこには、いつものように
穏やかさを纏いながらも苦笑を浮かべた時也が
見下ろしていた。
「赤子に最初に見せる顔が
そんな顔でどうする──と
僕を叱ったのは貴方でしょう?青龍」
青龍の頭にそっと手を置き、軽く撫でる。
「ほら。しっかりなさい」
冗談めかした声音だった。
だがその背には、既に引き返さぬ覚悟の影が
はっきりと刻まれている。
(⋯⋯不死鳥になど
負けている暇は、ないんです──)
⸻
部屋に入ると、時也は床に静かに腰を下ろし
胡座をかいた膝の上に双子をそっと乗せた。
まだ赤みの残る柔らかな肌。
掌に触れたところから
ふわりと温もりが広がってくる。
浅く、規則正しい呼吸。
すうすうと穏やかな寝息を立てる様はまるで
天より遣わされた使いのように愛らしかった。
「⋯⋯⋯⋯」
しばし、何も言わずに二人を見つめる。
そして、静かに目を閉じて、深く息を吐いた。
この子達には──
どんな運命が待っているのだろうか。
双子の血潮に流れる〝不死〟の因子──
その宿命の重さが
胸骨の内側からじわりと締め付けてくる。
──それでも。
「⋯⋯負けるものか」
掠れた独白と共に、時也は筆を取った。
(この子達が、運命に打ち勝つように──)
筆先を静かに硯に浸し
墨を含んだ先端が、紙の上へと滑り出す。
「⋯⋯ごほっ⋯⋯!」
突如、鋭い咳が喉をえぐった。
「──ぅ、ぐ⋯⋯っ」
咄嗟に唇を押さえる。
指の隙間から、濃くどろりとした血が伝い落ち
床の上に赤い雫をひとつ、またひとつと刻んだ。
「⋯⋯くそ──っ!」
小さく吐き捨て、片袖で唇を乱暴に拭う。
その手で、なお震えの残る指に力を込め
再び筆を握り直した。
(こんな事で、負けてたまるか⋯⋯!)
吐血しても、胸が軋んでも──
彼は筆を止めなかった。
墨の線が、運命に楔を打ち込むかのように
紙の上を駆けていく。
「⋯⋯っ、できました!」
やがて、目の前には二枚の紙が並んでいた。
「──エリス」
そこに記された名を見つめながら
時也は静かに息を整える。
アリアと同じ黄金の髪を持つ子には
〝エリス〟と名付けよう。
柔らかく、しかし決して折れない
太陽のような芯を持つ女性となるように──
「──ルナリア」
もう一人。黒褐色の髪を持つ子には
〝ルナリア〟と名付けよう。
夜を照らす月光のように静かに、けれど確かに
誰かの歩む道を照らす存在であれるように──
ふたつのその名に、願いを託す。
筆を置き
時也は膝の上で眠る二人の顔を改めて見つめた。
「ふむ⋯⋯良い名ですね」
絞り出すような声だったが
その口元には確かな笑みが宿っていた。
「⋯⋯我ながら
なかなか良い名を考える事ができましたよ」
愛おしげに双子へと微笑みかけ
その名を確かめるようにそっと呼ぶ。
「エリス⋯⋯ルナリア⋯⋯」
どちらの名にも
厳しい運命にも折れぬ強さを──
この響きが、娘たちを支える柱となるように。
⸻
その時、扉が静かに開く音がした。
「⋯⋯アリア様。もうお加減は良いのですか?」
青龍は短く問いかけながら
床に散らばった紙を素早くかき集める。
書き損じた紙を使い
床に落ちた血の跡を隠すように
そっと拭いながら──⋯
扉の前に立つアリアは、部屋の様子と
振り返る時也の笑顔を一瞥しただけで
名付けの儀が終わったことを悟った。
深紅の瞳が
膝の上で静かに眠る双子へと向けられる。
「⋯⋯⋯」
その視線が触れた瞬間
ルナリアが突然泣き出した。
「おやおや⋯⋯」
戸惑いを滲ませた時也の様子に
アリアは静かに歩み寄り、彼の隣に座ると
無言でルナリアを抱き上げた。
「⋯⋯アリアさん」
名を呼ぶと
アリアは短く頷くだけで言葉は発さない。
だがその仕草には揺るぎない意思が宿っていた。
彼女はルナリアを腕に抱いたまま
着物の胸元を、静かに開く。
──母として、ごく当然の行為。
だが、その姿はあまりにも美しく
時也の鳶色の瞳に、焼き付くように映り込んだ。
乱れたままの金髪がさらりと肩から流れ
まだ体力の戻らぬ身体で娘に乳を含ませる横顔。
ふと、かつてこの世界で目にした聖女の像が
脳裏に浮かぶ。
今、目の前にある姿は
まさにその像の具現であるかのようだった。
「⋯⋯⋯」
言葉を挟むこともできず
時也はただ、その光景を見守り続ける。
やがてルナリアに続き、エリスも乳を与えられ
双子は再び穏やかな寝息を立て始めた。
母と父に抱かれた双子の寝顔には
世界に不安など欠片も存在しないかのような
静かな安らぎが宿っていた。
⸻
やがて、時也は静かに双子の名を告げる。
「エリス・ミッシェリーナ。
ルナリア・ミッシェリーナ。
⋯⋯如何でしょうか?」
アリアは目を伏せ
ほんの一瞬だけ迷いを通してから
ゆっくりと首を振った。
そして無言のまま筆を取り上げ
紙の上に、躊躇いのない筆致で名を記していく。
〝エリス・櫻塚〟
〝ルナリア・櫻塚〟──
その筆跡は、美しく
そして驚くほど力強かった。
「アリアさん──っ」
ミッシェリーナの姓ではなく
自分の姓を
娘たちに与えるとは思ってもみなかった。
誇り高き魔女一族の名ではなく──
愛する夫の姓を。
胸を衝かれたような驚きに
気づけば時也の顔は
泣き出しそうな笑みで歪んでいた。
「では⋯⋯アリアさんも⋯⋯
〝アリア・櫻塚〟──ということ、ですか?」
問いかけに、アリアは静かに頷く。
その瞳には言葉よりも確かな想いが宿っていた。
「⋯⋯僕達で
運命にも負けぬ子に、育てましょうね」
時也は穏やかな微笑みのまま
〝家族〟をそっと、腕の中に抱き寄せる。
胸の奥には、変わらず痛みがあった。
だが、その痛みも──死の影さえも──
守るべき存在を思えば
取るに足らぬ代償にすぎぬようにすら思えた。




