第65話 生まれし光と影
闇の底で、嘲るものがいた。
──いや、音ではない。
耳朶を冷たい爪でなぞられるような
背筋を氷で撫でられる感覚だけがあった。
闇の向こうで、不死鳥が嗤った気配。
意識は深い淵へと沈み
全身を蝕む痛みが魂までも灼き尽くそうとする。
だが、次の刹那。
その痛みは、ふっと消えた。
不死鳥の再生が
激烈の残滓すら跡形もなく拭い去ったのだ。
ただ、記憶はなお
焦げついた疼きを
身体のどこかに貼りつけたまま離さない──⋯
「……っ」
黄金の睫毛が微かに震え
アリアの瞼がゆるやかに持ち上がる。
まだ朧な視界の中、見慣れた顔があった。
──時也。
泣き笑いの気配を湛えたその顔が
視界いっぱいに覗き込んでいる。
「……アリアさん」
彼の声は震え、今にも涙が零れそうだった。
「……お前と……私の……子は……」
乾いた唇で、アリアは問う。
言葉を編むだけで力を要する。
それでも、今は問わずにいられない。
──もし、この腕で二度と抱けないとしたら。
胸の奥に残る硬い不安を押しのけるように
アリアはゆっくりと手を伸ばす。
震える指が宙を彷徨い
時也はその手を両手で包んだ。
「……えぇ、えぇ!
二人とも、元気ですよ……っ!」
言葉は震え
「本当によく頑張ってくださいました」
そう結ばれたその瞬間──
大粒の涙が彼の睫毛から溢れ
アリアの頬を静かに滑り落ちる。
温かい軌跡が冷えた肌を伝い
汗と混じって流れた。
アリアは瞳を細め
その温度を確かめるように瞬きを落とす。
──温かい。
涙の軌跡も、握られた掌も、そして心も。
(……あぁ……)
ふと、淡い願いが胸の奥に芽吹く。
(……私の、死の間際に……
この光景が見られたなら……)
時也と、我が子らが傍に在ること。
その何と大いなる幸福か。
どれほどの──赦しであるか。
アリアの心がそう結ぶと
時也はその祈りを、確かに聞いた。
「……アリアさん……」
胸がギシリと疼く。
それは感情だけの痛みではない。
心臓の奥で、不吉な鈍痛が小刻みに啄む。
まるで不死鳥の嘴が
そこに潜み続けているかのように──
それでも彼は
不快を押し殺すように
アリアの手をさらに強く握った。
⸻
「アリア様。お目覚めでございますか」
青龍の声が静かに満ちる。
その小さな腕には
清めを済ませた双子が抱かれていた。
産着の白に包まれた命は
まだ安らかに眠っている。
「私の……傍へ……」
青龍は頷き
アリアの脇にそっと二人を横たえる。
アリアの指先が
力の入らぬまま柔らかな頬に触れた。
「……」
胸の奥が、きゅうと強く締めつけられる。
それは苦痛ではない──
言葉にならぬ熱が押し寄せ、静かに喉を塞ぐ。
「……っ」
アリアの瞳から零れた雫は
透きとおる宝石へ変じ
布の上に小さく鳴って落ちた。
「……愛しいな……」
掠れた一言に
数え切れぬ想いが凝縮されていた。
痛みも不安も
そこではひとつの温もりに包摂される。
時也は震える指に自らの手を重ね
こみ上げるものを呑み込み
ただ、その瞬間を見守った。
「……えぇ、えぇ……」
こらえた涙が、再び滲む。
アリアが守り抜いた命。
母として初めて刻んだ、凛然たる愛の形。
それは紛れもない光であった。
その刹那──
希望を塗り潰すように、闇が螺旋を描いて迫る。
視界は急速に暗転し
頭蓋の内側で耳鳴りが鋭く反響する。
意識が闇へ引き摺り込まれる。
闇の中心で、けたたましい嗤いが弾けた。
──不死鳥。
あの忌むべきものが
耳障りな冷笑の音色で世界を汚す。
「……貴様⋯⋯何が、可笑しい──っ?」
深紅の瞳が鋭く閃き
アリアは闇に浮かぶ炎羽の巨影を射抜いた。
不死鳥は炎の羽毛を震わせ
威容を誇る両翼を広げる。
紅蓮の羽が弾け、閃光が闇を裂いた。
再び響く──嗤声。
《我ハ──
オ前ノ、更ナル絶望ヲ、待ッテイル》
背筋へ、氷針が突き立つ感覚が這い上がる。
頭骨の内側を拳で砕かれるような激痛とともに
不死鳥の意思が流れ込んできた。
「……どういう、ことだ⋯⋯?」
呼吸を荒らげながら見上げるアリアの額を
汗がゆるく伝う。
四肢は力を失いながらも、瞳の刃は鈍らない。
不死鳥の炎を纏った嘴が
ひどく人間めいた歪みで──嗤った。
⸻
「……アリアさん!アリアさんっ!!」
遠く、霞んだ意識の底で
誰かの声が微かに揺れていた。
その響きは
閉ざされた闇を縫うようにして届く。
──時也……?
「……アリアさんっ!!」
その声に導かれるように
アリアは、はっと瞼を見開いた。
視界がぼやけたまま
まず目に飛び込んできたのは
焦燥に濡れた時也の瞳だった。
彼はその手でアリアの肩を支え
不安と恐怖を押し殺した表情をしていた。
「……時、也……?」
声を発した瞬間
冷たい汗が全身を濡らしているのに気づく。
「あぁ……アリアさん……よかった……!」
時也は安堵の息を漏らし、肩から力を抜いた。
「突然──
目を開いたまま動かなくなったんです……。
心の声さえも途絶えて……
まるで、閉め出されたように……」
その言葉に、アリアの背を冷たい戦慄が走った。
冷たい、鋭い焦燥が奔流のように心臓を掴む。
「───っ!」
アリアは弾かれるように上体を起こし
横たわる双子へと手を伸ばした。
次の瞬間──
産着の布を掴み、引き剥がしていた。
「アリアさん!?何を──っ!」
「アリア様、いかがされました!?」
時也と青龍の声が交錯する。
だが、アリアの耳には何ひとつ届かない。
震える指先が
双子の小さな身体を確かめるように撫でた。
幼い肌は柔らかく、温もりをたたえている。
──そして。
「……っ!」
指先が、二人の臍の緒の痕に触れた。
その瞬間──全身の血が、凍りついた。
そこは、まるで幾日も前に癒えたかのように
すでに滑らかに、塞がっていた。
──不死鳥の再生。
アリアの喉が震え、息が詰まる。
「……ま、さか……っ」
時也も言葉を失い
その光景を前に立ち尽くす。
アリアの瞳は双子から離れず
その手が、かすかに震えていた。
「……我ら、ミッシェリーナの一族は……」
掠れた声が、呪のように零れ落ちた。
「不死鳥は、一子相伝……」
その声は淡々と
けれど、深い絶望を孕んでいた。
「本来、双子であれば──宿らぬ、はず……」
その瞬間、時也の顔が蒼白に染まる。
アリアの瞳には
闇の奥に佇む〝それ〟の姿が映っていた。
紅蓮の翼を広げ、燃える羽根を揺らしながら
不死鳥は嗤っている。
──相伝など、させはせぬ。
その冷酷な意思が、アリアの心を抉った。
不死鳥は、アリアの絶望を愉しんでいた。
彼女の苦しみこそが、不死鳥の糧──
不死鳥はひとつの魂を
弄ぶように二つに分け──
そして、自ら双子の胎に己の力を注ぎ込んだ。
双子を共に〝不死〟へと変え
さらに、それぞれに異能を宿らせたのだ。
宿命を、より〝残酷〟なものとするために。
──もっと……もっと絶望せよ。
不死鳥はアリアの胎の闇に再び潜り込み
嘴を歪めて嗤った。
その笑みは──哀しみを嘲る悪夢のようだった。
⸻
「なんて……ことを……っ!」
時也の絶叫が
静まり返った空気を切り裂いた。
「くそっ……くそぉ──っ!」
拳が床に叩きつけられ
骨が軋み、爪が割れ、皮膚が裂けても
彼は拳を緩めず、地を掴んだまま
嗚咽を噛み殺した。
「……アリアさん──!」
膝をつき、項垂れた背が震えていた。
怒りと無力の狭間で──
赦せぬ絶望に打ちひしがれるように。
青龍は静かに双子を見下ろし
その小さな額へ手を翳した。
「……強く、生きなされ……」
祈りにも似た、言葉だった。
炎の中で揺らめく灯のように、儚い声音。
アリアは沈黙のまま
二人の赤子を抱き寄せた。
その温もりが、冷え切った身体に沁みていく。
(……私は……)
彼女は静かに目を閉じ
その小さな命を腕に、深く息を吐いた。
(……どんなことがあろうと……
この子たちを……)
─不死鳥を討ち、産まれ直させる─
そして──この呪縛を断ち切ってみせる。
その誓いは、鋼の刃より鋭く響いた。
だがその決意すらも
闇の奥では嗜虐の糧に変わっていた。
──絶望は、まだ〝始まり〟にすぎぬ。
不死鳥は、暗紅に燃える翼をゆっくりと畳み
その嘴を歪めて嗤う。




