第64話 不穏と⋯希望と⋯温もり
扉が静かに閉まったその瞬間
糸が切れたように、時也の膝が床を打った。
「──ぐっ、ごほっ……!」
喉の奥から絞り出されるような咳が響く。
鉄の匂いを帯びた息が口内を灼き
温く重たい液体が舌を濡らした。
唇を押さえた掌を開けば
そこには濁った暗紅の血が広がっている。
鮮烈な紅ではなく
命の奥底から掬い上げたような色。
「……よかった……」
苦痛に歪む顔のまま、彼は微かに微笑んだ。
それは、安堵の微笑であった。
(アリアさんに、気付かれなくて……
よかった……)
心の内で繰り返すように呟き
時也は震える手で壁を支え、浅く息を整える。
胸の奥で鳴る鼓動は
まるで異形のものが這うように乱れていた。
「時也様……」
背後から、青龍の低い声が響いた。
気づけば、小さな手が背に添えられている。
幼子の姿ながら、その掌は力強く
弱りゆく命を宥めるように
静かに背を摩り続けていた。
「大丈夫……大丈夫ですよ、青龍」
時也は蒼白の顔を歪めながらも、微笑を作った。
震える手で青龍の銀髪を撫で
その柔らかさに指を沈める。
「僕は……まだ……
倒れるわけには、いかないんです」
声はかすれていたが
その底には確かな意志が宿っていた。
誰よりも守りたいものがある。
それだけが──彼を繋ぎ止めていた。
「くれぐれも……
アリアさんには……気づかれないように。
お腹の子に……障ってしまうから……」
言葉の終わりは息に紛れ、微かな呻きに溶けた。
青龍は唇を引き結び、言葉を返さない。
ただその背を撫で続け
時也の震える呼吸を数えていた。
⸻
医師が〝心臓の病〟と告げたのは
ほんの数日前のことだった。
陰陽術をもって気脈を整え
穢れを祓っても症状は鎮まることはなく
むしろ確実に悪化の一途を辿っていた。
まるで──〝何者か〟が
その治癒を意図的に、阻んでいるかのように。
⸻
季節がひとつ巡り
アリアの腹は、いっそう大きく育っていた。
細い体に重たく宿る命の重み。
それは確かに彼女の中で息づいている証だった。
だが、華奢な身体に宿るその重みは
彼女の動きをゆるやかに奪っていた。
身を起こすだけでも息が乱れる。
それでもアリアは
一切の弱音を吐くことはなかった。
時也はそんな彼女の腹部を
まるで聖域に触れるかのように撫で
柔らかな笑みを浮かべた。
「……こんなにも、大きくなるものなんですね」
その声は穏やかで
けれどどこか、祈りに似た響きを帯びている。
時也は身を屈め
腹部に頬を寄せ、そっと耳を傾けた。
「……⋯」
わずかな鼓動が、内側から伝わる。
柔らかな皮膚の奥、確かに息づく命の律動。
次の瞬間──
「……あ!」
小さな衝撃が掌に触れた。
腹の中から、蹴るような感覚。
「動きましたね……!」
時也は目を細め、満面の嬉しさを滲ませる。
アリアは静かに彼の髪へ手を伸ばし
指を絡めてゆるやかに梳いた。
その仕草には、言葉を超えた愛情があった。
だが──その瞬間
時也の心が、アリアの〝痛み〟を拾い上げる。
「……っ!?」
驚愕に目を見開き、彼は顔を上げた。
アリアは無表情のまま
深紅の瞳で時也を見つめていた。
けれどその奥には、確かな苦痛が滲んでいる。
「アリアさん……っ!」
時也は声を震わせ、立ち上がりかけた。
「いま、医師を──」
その言葉が口を離れるより早く
アリアの手が、彼の手首を掴んだ。
「……離れるな……っ」
かすれた声が、微かに落ちる。
その頬を伝う一筋の汗が光を受けて静かに煌めき
炎のように熱を帯びたその手が
彼の手首を離さない。
「……青龍!」
時也の緊迫した声に
扉の向こうで控えていた青龍が
すぐさま駆け込んできた。
「……始まりましたか」
青龍の山吹色の瞳が僅かに細まり
険しい光を帯びる。
アリアの腹部に宿る鼓動を見つめ
その瞬間を悟った。
長く待たれた兆し──それが、いま訪れた。
⸻
アリアは、痛みに身を焼かれながらも
その意識を微かに研ぎ澄ませていた。
(……無事に……どうか、無事に……)
霞む意識の底で
彼女は腹部に手を添え、祈るように繰り返す。
時也の掌が、その手を包んでいた。
その温もりは細やかに震えを帯びながらも
確かに彼女を支えている。
深紅の瞳は痛みに潤みながら
まっすぐに時也を見据えていた。
母としての──最初の試練が、始まっていた。
声にも顔にも、苦悶の色は見せない。
だが、読心術を通して伝わる心の叫びは
時也の胸を鋭く貫いていた。
「……っ、は……っ……っ!」
その心は、無言の悲鳴に満ちている。
冷や汗が額を伝い、唇がわずかに白くなる。
無表情の裏に潜む痛みが
まるで炎のように燃え上がっていた。
「アリアさん……!頑張ってください……っ!」
震える声を絞り出しながら
時也はただ彼女の手を握ることしかできない。
その指は細く、冷たい。
それでも、命をつなぐように力がこもっていた。
「……っ……!」
アリアが歯を食いしばった瞬間
波のような痛みが再び押し寄せた。
その感情が直接胸を打ち
時也の胸は刃で裂かれるように疼いた。
「アリアさん……!」
彼女の手が、さらに強く彼の手を掴む。
「……う、っ……!」
時也はその華奢な手を包み込み
折れてしまわぬよう
しかし、離すまいと力を込めた。
⸻
傍らでは、青龍が手際よく湯を沸かしていた。
清めの布を濡らし、桶を整え
助産の支度を整えるその小さな身体に
かつて龍であった威厳が宿る。
「アリア様!大きく息をお吸いください!」
鋭い声が、室内を貫いた。
「頭が──見えて参りました!」
青龍の声音が張り詰める。
時也は思わずアリアの顔を見下ろした。
彼女は依然として無表情のまま。
だが、額に浮かぶ汗の粒が
その苦痛の深さを物語っていた。
それでも──アリアは声を発さない。
彼女は沈黙の中で
命を迎えるための全てを捧げていた。
時也は声を震わせぬよう努めながら
肩を摩り、寄り添うように言葉を紡ぐ。
「アリアさん……あと少しです。
もう少し……!」
その瞬間
アリアの身体の間で
血に染まった青龍の小さな手が見えた。
「……ぅっ……!」
鮮やかな赤が、時也の視界を染める。
愛する者の血を目にした瞬間
喉の奥から嗚咽が漏れた。
「時也様──っ!」
青龍の声が雷鳴のように響いた。
「そんな顔を赤子に最初に見せてはなりません!
父の顔は──希望でなくては!」
その叱咤に、時也ははっと息を呑み
歯を食いしばって意識を立て直す。
「……そう、ですね……っ!」
深く息を吸い込み
彼は再びアリアの手を握った。
次の瞬間──
「おぎゃあ……っ!」
小さな産声が、室内を満たす。
弱くも確かな命の音が、すべての静寂を破った。
時也は目を見開き
時間が止まったようにその音を聞いていた。
青龍が血を拭い、赤子を抱き上げる。
「……女児に、ございます」
その声に、時也の胸が熱く震えた。
青龍は産着に包んだ小さな命を抱きしめ
濡れた髪を指で撫でながら微笑む。
「……おお、元気な子です」
その言葉に、安堵の息が漏れた。
歓喜と静かな感謝が、室内を満たしていく。
「……女児……」
時也は呟き
胸の奥で微かな不安が疼くのを感じた。
女児ならば──
不死鳥が相伝されるかもしれない。
だが、今はただ
この瞬間を、感謝と祝福で満たすべきだ。
「アリアさん……あぁ、お疲れ様です……っ!」
そう言いかけた時
再びアリアの心が、彼の中に響く。
(痛い……まだ……痛い……っ)
「──アリアさんっ!?」
顔を上げた時也の目に映ったのは
無表情の奥に苦悶の色が滲むアリアの顔だった。
「……まだ……?」
青龍が目を見開く。
「時也様!もう一人──まだ腹におります!」
その言葉に、時也の喉が鳴る。
「……双子……っ!」
驚愕の声を上げる間にも、アリアが再び呻いた。
青龍は急ぎ、布を取り換え
再び手を添えて声を張り上げる。
「アリア様……もう少しです!
もう少し……っ!」
アリアの心の中では、もはや言葉は形を失い
ただ、激痛の奔流に引き裂かれるような悲鳴が
時也の胸を刺した。
「アリアさん、しっかり……!
僕が、僕が此処にいます……っ!」
時也はその手を強く握り
自らの存在を伝えようとした。
(もし不死鳥がすでに赤子へ渡り
アリアさんが不死を失っていたなら──)
その恐怖が、喉を締め上げた。
⸻
だが、それは杞憂に終わる──
再び、澄んだ産声が響いた。
「……もう一人も、女児でございます」
青龍の声が、安堵に柔らかく震えた。
彼は双子を慎重に産着で包み
血に染まった顔に微笑みを浮かべた。
「……強く、美しく──生きなされ」
静かな祝詞のような言葉が落ちる。
青龍は双子を抱きかかえ
産湯を用意するため
疲れの影も見せずに部屋を出ていった。
赤子たちの産声が遠ざかると
アリアの身体から力が抜けた。
糸が切れたように
彼女は深く息を吐き、瞳を閉じる。
「……アリアさん……」
時也はそっと汗で張り付いた金髪を払い
額の汗を拭った。
穏やかな指先が、彼女の頬をなぞる。
「お疲れ様です、アリアさん……
ありがとうございます──っ!」
時也は静かにその手を取り、唇を寄せた。
まだ震えの残るその手を頬に押し当てると
その冷たさすら、痛いほど愛おしい。
彼女と共に我が子を抱ける
その瞬間を焦がれるように
静かに目を伏せた──




